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負け犬の遠吠え 大東亜戦争47 ビルマの戦い⑥死地への行進

1944年3月5日、日本軍第15軍の三個師団(15、31、33)はインパール作戦を開始します。

この作戦には祖国の独立を目指す6000名のインド国民軍も参加しています。

第31師団はコヒマを、15、33師団はインパールを目指しました。

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序盤の進軍は順調でしたが、これは連合軍の作戦であり、兵站の伸びきった日本軍をインパールで一気に叩こうというものでした。

第15軍司令官・牟田口中将が考えた牛、ヤギ、ヒツジなどに荷物を運ばせ、必要な時は食べてしまおうという「ジンギスカン作戦」も虚しく、半数の家畜がチンドウィン川で流され、さらに険しい地形やジャングルに耐えきれずに家畜は次々と脱落していきました。

また、家畜を引き連れてぞろぞろ歩く日本軍は空襲の格好の標的となり、牛たちは物資を乗せたまま散り散りに逃げ去ってしまうのでした。

こうして日本軍は本格的な戦いが始まる前に食料・弾薬の大半を失ってしまい、各師団ともに補給を求めますが第15軍司令部は「補給は送るから進撃せよ」「食料は敵から奪え」と指示する有様でした。

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連合軍の円筒陣地は、日本軍得意の夜襲も寄せ付けない堅牢さで、軽装備の日本軍には為す術もありませんでしたが、イギリス軍輸送機が円筒陣地に投下した物資が時々逸れて落下したものを拾うことができたため、「チャーチル給与」とよばれたこの物資で日本兵たちは飢えをしのぎました。

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第15師団は4月7日インパール北方15kmのカングラトンビに、第33師団はインパール南方15kmのレッドヒルに到達します。

しかし雨季が始まり補給線が途絶え、イギリス軍の激しい反撃が始まると、戦死者・餓死者が大量に発生して日本軍は著しく損耗していきました。

武器弾薬も尽き果て、石を投げて戦う兵士も出て来る状態にも関わらず、牟田口中将は4月29日の天長節までにインパールを攻略することにこだわり、作戦続行を命令しました。

第31師団を待ち構えていたイギリス軍は、「一個連隊程度しか山を越えて来るのは不可能」と甘く見ていたため、一個師団まるごとやってきた第31師団の急襲を防ぎきれず、4月5日、日本軍にインパール北方コヒマの占領を許していました。

しかしコヒマの占領はインパールの孤立を意味するため、連合軍は一旦後退して反撃を加えてきます。

これが大激戦となり、イギリス総督の別荘地があった場所では特に激しい戦闘が繰り広げられたため、この戦いは「テニスコートの戦い」と呼ばれる事になりました。

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コヒマは奪回され、作戦継続困難と判断した第31師団長・佐藤幸徳中将は、6月1日、牟田口の命令に背いて撤退を開始します。

これは日本陸軍初の抗命事件となり、後に佐藤中将は師団長を更迭される事になりました。
しかしこの「死刑も覚悟した」判断により、結果として多くの将兵の命が救われたのです。

また、第33師団長、第15師団長も、インパール作戦中止の進言を行ったことにより牟田口中将の逆鱗に触れ、共に師団長を更迭されてしまいました。

牟田口中将はインパール作戦中に配下の師団長三人を全員クビにしたのです。

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インパールを目指す日本軍が苦戦をしていた頃、ビルマ北部のミイトキーナでは、日本軍はアメリカ・支那国民党連合軍の強襲を受けていました。

日本軍はビルマ戦線において既に防戦一方の劣勢であり、大兵力を割いてインパールを攻略する暇などなかったのです。

ミイトキーナを守備する700名の部隊は坑道を利用したゲリラ戦を展開しますが、物量差に押されて徐々に劣勢になり、8月には2100名の戦死者を出してミイトキーナは制圧されてしまいました。

太平洋戦争当時のビルマ-2

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6月に入ると、ビルマと支那雲南省の国境付近にある拉孟・騰越でも戦闘が始まり、ビルマ戦線は混沌としてきます。

そんな中、6月5日にはビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が牟田口中将を訪問し対談を行いした。

二人とも、心の中ではインパール作戦は失敗だったと4月中に気づいていたのですが、それを言い出したら自分が責任を負わないといけなくなるので、互いに作戦中止を言い出せずに対談は終わってしまうのでした。

牟田口は後に「顔色を察してもらいたかった」と語っています。

上層部がグダグダやっている間にも、食料と弾薬の尽きた前線の日本兵たちはマラリアや飢餓でバタバタ斃れていくのでした。

インパールへ投入した8万6千の兵たちが1万2千にも減っていた7月3日、ようやく正式に作戦中止が決定されました。

退却戦はまさに「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨で、飯盒を片手に杖をついて歩く日本兵たちに戦う力は残されておらず、イギリス軍の掃討にあい次々と脱落していきます。

イギリス軍は生死を問わず、動けなくなった日本兵たちを並べてガソリンをかけて焼却しました。

歩兵第58連隊を率いる宮崎繁三郎少将は、この退却戦の最後方を引き受け、巧みな戦術でイギリス軍の追撃を抑え込み、日本兵たちに退却する時間を与えると同時に、負傷者たちを収容し多くの命を救いました。

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8月12日、大本営はコヒマ、インパールからの撤退を発表し、8月30日には牟田口中将、河辺中将はともに司令官を解任されました。

日本軍の戦死者は26000名、戦病者は30000人以上にものぼりました。

この作戦の失敗により、ビルマ戦線は崩壊し、日本軍はなし崩し的にビルマにおける支配力を失陥していく事になるのでした。

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