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負け犬の遠吠え 満州事変7 喧嘩してはいけない場所がある

1932年3月、関東軍主導によって満州地方は独立宣言を果たし、満州国が建国されました。
満州から追い出されてしまった張学良は、満州と支那との境目にある「熱河省」で義勇軍を作り、反満州勢力を築いていました。

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熱河省で住民への略奪・婦女暴行・不当な占拠などを行う反満州勢力に対し、関東軍は「熱河作戦」を実行し、張学良軍を叩いて万里の長城より南に追いやることに成功します。

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万里の長城は河北省と熱河省の境目にあり、漢民族にとっては「国境線」という意味合いが強く、長城より西側の地域を「関内」東側を「関東」または「関外」と呼んでいました。


要するに漢民族が作った国「中華民国」で重要なのはあくまでも長城より以西、以南の「関内」なのです。

関東軍はその事を重々承知しており、昭和天皇も「万里の長城を越えて関内に侵入しないように」との条件で熱河作戦を認可しています。

このような日本の認識を逆手にとって、「日本軍は万里の長城を越えて攻めてこない」と舐めきった国民革命軍は、熱河省への軍事的挑発行為を繰り返しました。

このままでは国境紛争は解決しないと判断した関東軍は「関内作戦」を実行し、万里の長城を越えて関内へ進出、北京に迫ります。

ここでようやく支那国民党は停戦協定に応じ、1933年5月31日に「塘沽停戦協定」が結ばれることになりました。

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これによって満州事変は終息を迎えることになり、中華民国は満州国に対して事実上の承認をする事になります。

世界恐慌が深刻化し、列強各国がブロック経済を推し進める中で、日本にとって満州国はまさに「生命線」となったのです。

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話を少し戻して、満州事変がまだ終息していない1932年の1月、日本を震撼させる事件が起こりました。

「桜田門事件」です。

皇居の桜田門に昭和天皇の乗った馬車列が差し掛かった時、突然沿道から男が飛び出してきて2両目の馬車に手榴弾を投げつけました。

昭和天皇は3両目の馬車に乗っていた為に無事でしたが、近衛兵1名と馬二頭が怪我をしてしまいます。

犯人は朝鮮人の抗日武装組織「韓人愛国団」から派遣された刺客の李奉昌で、逮捕された後に大逆罪で死刑となりました。

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上海では国民党機関紙「民國日報」が「不幸にしてわずかに副車を炸く」と桜田門事件の事を報じました。

「残念ながら天皇ではなく従者の馬車だった」という意味のこの報じ方は当然ながら日本人の逆鱗に触れ、上海での日支関係は緊迫化してしまいました。

しかし上海にはイギリス・アメリカ・日本・イタリアなどから成る「共同租界」と、フランスの「フランス租界」があり、これらは総称して「上海租界」と呼ばれ、各国ともに自国民を守るために軍隊を駐留させていました。

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さらに上海にはアヘンの密売で巨万の富を築き、屈指の資産力を握っていた「サッスーン財閥」の本拠地がありました。

要するに、上海は列強各国の利権と思惑が蠢く場所であるという事です。

ここで問題を起こして彼らの経済活動の妨げになるようであれば、たちまちにして世界の除け者になってしまう事は容易に予想できました。

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そんな上海郊外に、突如として3万の兵力を擁した支那国民党軍「十九路軍」が現れました。

彼らは「共産党」との戦闘により損耗しており、再編成のために上海付近に駐留します。

1931年に支那全土の共産主義者達が江西省に集結する事によって樹立された「中華ソヴィエト共和国政府」と、蒋介石率いる国民党は内戦状態になっていたのです。

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国民党軍が上海近郊に駐留し続けるとなると、日本軍も警戒せねばなりません。

上海に駐留する千名の海軍陸戦隊だけでは対応できないため、居留民の生命と財産を守るという名目で軍艦を十数隻、上海へ派遣しました。

当時の上海では、満州事変の勃発によって支那人による排日運動が活発化しており、日本資本の企業では支那人労働者がストライキを起こして工場の閉鎖を余儀なくされ、日本政府が居留民の帰国を促していたほどでした。

そのような緊迫した状況の中で、1932年1月18日、日本人僧侶数名が50名以上の支那人に襲撃され、1名が死亡する事件が起こりました。(上海日本人僧侶襲撃事件)

その翌日、武装した日本人右翼団体「青年同志会」の32名が、僧侶達を襲撃した支那人がいる「山友実業社」の物置小屋へ放火し、租界へ帰る途中で警官と乱闘になって双方に1名ずつの死者を出す事件がおきました。

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日本の領事は上海の市長に対し、僧侶襲撃事件についての謝罪と賠償、抗日組織の解体などを要求しました。

上海では日本人も支那人も双方とも異様な興奮状態にあり、戒厳令が出されて全域にバリケードが設置され、外国人居留民は自国の租界に避難するように勧告される始末でした。

この緊迫した事態に、租界を有する列強国は協議し、共同租界内を分担して警備に当たることにしました。

そして1月28日、警備中の日本軍に対して支那兵が射撃を加え、軍事衝突が勃発します。

そのまま戦火は拡大し、「上海事変」に発生するのですが、いかんせん日本海軍は戦力不足であるため陸軍からも増派が送られました。

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激しい戦いは3月はじめまで続き、日本軍は769名、国民党軍は4000名以上という多大な戦死者を出す事になります。

この戦いでは、アメリカの退役軍人達が支那軍パイロットとして日本軍と交戦していた事も発覚しており、この当時からアメリカは日本と戦う意思をあらわにしていた事がわかります。

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ところでこの「上海事変」ですが、この戦いは今度の日本の行く末を暗示しているかのような出来事がありました。

敵陣地を突破するために三名の一等兵が爆破筒を持って突撃し、鉄条網を破壊して本人達も爆死した決死の作戦を、陸軍大臣であった「荒木貞夫」が褒め称えて「爆弾三勇士」と戦死した三人に命名しました。

「爆弾三勇士」は英雄視されて映画、歌、劇などが作られ、子供達は「三勇士ごっこ」をして遊ぶようになります。

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また、2月22日の戦闘で銃弾を受けて人事不省に陥った「空閑昇(くが のぼる)」少佐は国民党軍の捕虜になり、十九路軍の野戦病院で治療を受けます。

空閑少佐は捕虜になった事を恥じて自決を図りますが、看病に当たってた国民党軍の軍官に説得され、日本に帰ってくる事ができました。

軍法会議においても無罪のなった空閑でしたが、世間の風当たりは冷たく、軍の同期生達からは「潔く自決せよ」との電報が届いたり、自宅に怒鳴り込んだり投石する人も出てくる始末でした。

三月末、空閑は部下が多く戦死した上海の戦地を訪れ、その場で拳銃自殺をしてしまいます。

その死は「美談」として持て囃され、「捕虜」をタブー視する傾向は根付いてしまう事になりました。

これらの出来事は、「特攻」や、「生きて虜囚の辱めを受けず」という考えの下地になってしまったようにも思えます。

明治維新以降、日本は近代国家として国際的に認めてもらわねばならず、その為にあらゆる事に対して正当性を主張せねばなりませんでした。

爆弾三勇士の賛美や、生きて帰ってきた空閑少佐を死へ追いやってしまった世の論調は、その歪みなのではないかと思う次第であります。

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日本軍の勝利に終わった上海事変ですが、停戦協定が成立したのは5月5日の事になります。

その交渉中の4月27日、上海日本人街で天長節(天皇誕生日)祝賀式典が開かれました。

この時、式典会場に朝鮮人テロリストが爆弾を投げこみ、医師が死亡した他、師団長や師団長など軍の要人、領事などの外交官数名が重傷を負いました。

この中でも重光葵(しげみつ まもる)公使は後に外務大臣を務める人物で、この時の爆発で右足を失いまってしまいました。

しかし重光は爆弾が投げ込まれても逃げませんでした。

後にその理由を「国歌斉唱中だったから」と答えています。

重光はその愛国心を胸に、後に戦時中も戦後も日本の為に奔走する人物になるのです。

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さて、この上海事変の停戦協定に対する列強国の態度は強硬なものとなりました。

日本人居留民は便衣兵狩りの名目で自警団を組み、支那人に検問を行って軍隊に引き渡したり、私的に監禁、処刑を行っていたのです。

上海在住の外国人たちは恐怖に震え、戦いによって利権を脅かされた各国の日本に対する姿勢は厳しいものになっていきました。

欧米の列強からしてみれば、無政府状態の満州で日本が国を作ろうが、知ったこっちゃなかったのです。

しかし、自分たちの権益が根付いている上海で暴れられるのは、到底許される事ではありませんでした。

世界情勢における日本の立ち位置に、暗雲が立ち込めてくるのでありました。

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