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祖父が歩いた支那事変〜負傷〜

六月、人員の補充、体力の回復も叶ったところで、敵の包囲網を突破する事になりました。

敵軍は日本軍の野砲、重砲、戦車の移動を妨げるため、いたるところに穴を掘って水を貯めており、ぬかるんだ道を昼夜問わず戦闘を繰り返し、敵城を攻め落として行きましたが、心身の疲労は激しいものでした。

雨が続いたせいか、マラリヤにかかる者も出てきました。

T山くんは戦闘中にガタガタ震え始めたので、祖父が「遠山、退がれ」と命じてもT山君は退がらず、気力のみで戦い続けるのでした。

弾薬分隊のH口さんは花札の名人でありました。この激戦の最中、「おーい弾薬」の声に応じて砲側に弾薬をおいたH口さんの頭部にブスッと音がして敵弾が命中しました。

鉄鉢を貫いてほとんど即死でした。

H口さんは炭鉱に働いていた人で、未だ若い奥様と、赤ん坊が可愛い盛りでありました。

潜山を攻撃中、祖父は雨の中を戦っていましたが、雨が止んだ頃、育児村というところで右耳をやられてしまいました。

両手両足に異常はないため、ガーゼを当てて三角巾で固定し戦闘を続けました。

戦闘が小休止すると、他の部隊の軍医さんが通りかかり、祖父は「どうしたのだ」と問われます。

「少し怪我をしました」
と答えると、三角巾を外して検査され、
「自分の大切な部下が負傷したのに、放置しておくとは何事だ」
と小隊長であるK池中尉に叱りつけました。

K池中尉も「すぐに入院させます」と恐縮しておられました。

祖父としては、五体満足であるから休む必要はないが、命令とあらば仕方ない、とでもいう心持ちでした。

祖父は潜山の野戦病院から安慶へと送られる事になります。

安慶は揚子江岸の都会で、野戦病院を抜け出すと、そこは戦争を忘れるほどの賑わいを見せていました。

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日本軍のいろいろな機関もあり、飛行場もあり、揚子江には軍艦まで仮泊していました。

それ故、重要施設を狙って幾度となく支那軍の空襲もあったのです。

ある日、「空襲空襲」と衛生兵達が叫んでいました。

敵機は揚子江岸の港を爆撃、1発が御用船に命中したのです。

重症患者が次々と運び込まれてきます。

見た所予備役、後備役の兵隊さん達も多く、「水をください」と唸る者、うめきながらも妻子の名前を呼び続ける者達が、名前も判然としないまま死んでいくのでした。

その悲惨さを目の当たりにして、戦争は現役兵だけでやりたいものだと考えさせられるのでした。

負傷から1ヶ月と少し立った頃には傷も癒え、祖父は戦友が待っている第一線に復帰したいと考え始めていました。

しかし祖父は丸腰でした。

武器を調達せねばなりません。

野戦病院の衛生兵達は戦闘の経験がなく、武器に無関心でありました。

つまり兵器の管理が不十分だったのです。

病院内を二、三回巡り歩けば、歩兵の軍装を一式揃えてしまうことができました。

「原隊に復帰させていただきます」
と祖父は申し出ましたが、軍医さんは
「何、貴様は上海後送になっている。上海で整形してもらう方がいいよ」
と言われました。

祖父にはありがたい話でありましたが、決意していた祖父は退院する事にしました。

祖父は安慶の街に出て兵站部を探します。

「只今、野戦病院を退院してきた者だ。潜山方面に友軍がいるはずだ。前線に出るトラックがあれば便乗させていただきたい。」
と申し出ると、「宿舎で待機するように」と食券を数枚もらえました。

よく見ると、兵站部の連中は実にサッパリしています。

祖父の軍服は泥に汚れたままです。

祖父が軍服を要求すると「食庫に一杯入っている」との事。

倉庫に出かけ「服をくれ」と要求しました。

「俺は負傷したが、たった今退院した。靴も地下足袋も缶詰もくれ」
と申し入れると
「伝票はありますか?」
との返事。

「これから第一線に向かう俺に誰が伝票をくれるか!俺の直属上官は前線で戦っとる、この馬鹿野郎!!」
と怒鳴りつけると、今度は色白でのっぺりとした伍長が出てきて
「ご苦労さんであります」
と、要求するだけの物品を渡してくれました。

祖父はお礼を言いませんでした。
それどころか
「今度来るときは、この倉庫ごと持ってはってくぞ」
と捨て台詞を浴びせたのであります。

皇軍のためになっていない奴らほど、結構な生活を送っていたのが癪に触ったのだそうです。
(最も、兵站も非常に大切なのですが)

待ちわびた「前線に向かうトラック」が出る事になりました。

トラック部隊は「歩兵さん」と言って有難がって便乗させてくれます。

襲撃されたときに頼りになるからです。

彼らに便乗して行ける最終点までたどり着くことができました。

「あの辺が第一線です」
と輜重兵さん達(しちょうへい)が指し示す地点は山岳地帯であって、目測4キロというところでした。

ここまで来たら私一人で行ける、いや、行かねばならぬと思い、輜重兵さん達にお礼を述べてスタコラと歩き出したのでありました。

不思議と孤独感はありませんでした。