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旗手①

 目の前が突然暗くなり、軽く押される。濡れた感触だけを顔全体に遺して、世界が明るく拓ける。瞬きしてぼやけた景色に焦点が結ぶと、半身に薄くなり、顎を引いて上目遣いになったファイティングポーズが現れる。
 数多の練習生たちに使い込まれ、多くの汗を芯まで吸ったグローブが頬を舐める。弱く触れ、素早く離れる。今度は冷たさや革の柔らかさ、ワセリンのぬめり、多少の衝撃などを皮膚に置いていき、遠ざかる。二発がセットになって押し寄せ、リズムよく顔にタッチするといさぎよく去っていく。常に間合いが一回り広くて、右のつま先で勢いよく前に蹴り出してみても深い懐であっさりと吸収されてしまうし、横に逃げられてしまって自分の距離にできない。正対してくれない。的を絞らせない揺さぶりに喰らいつき、必死で相手を射程に入れようと試みるのにかなわず、けれどめげずに一拍も二拍も遅れながらも、機敏なその動きについていく。
 大雑把に拳をふりまわす。届かないとわかっているのに、自分のグローブで色を塗りたくるかのように、ぽっかり空いた間の空間を殴り抜ける。まったく歯が立たないのでフォームや基本は吹っ飛んでしまい、恥も外聞もなく、子供のケンカみたいに突き出した。練習通り練習通り。もっとコンパクトにいこう。すかさず耳に飛び込んでくる抑制がきいた指示のおかげで冷静さを取り戻し、熱くなった自分をいさめ、構えから洗い直して、教えられたとおりにフォームを修正した。
 力の全然こもらない腑抜けた左、まだ身体の回転で撃ちだすという原理が身に付いていないらしく、夢中になると手打ちになってしまっているという右。やっとのこと一発当てたのにも関わらず、嬉しくない。ガードの上だからだ。サービスだからだ。脚を止めた彼の意図はさっきまでより一際貝になった佇まいを見れば一目瞭然で、胸を貸すつもりでサンドバックになってくれているに過ぎない。その証拠に、抜け目なく、冷静に、がっちりと固めた両腕の隙間からこちらの動向を窺っている。撃ち終わりを狙う訓練を、実直にこなしている。
 ときおり左右に打ち分けられつつ、力もない拳に頭をふられる。やられっぱなしが悔しくて、なんとか防御しようと試みる。それなのに接近戦の威圧感に耐えられなくてのけぞってしまい、自ら顔面をさらしてしまって、あえなく餌食になる。フックの勢いでずれてしまい視野を狭めてくるヘッドギアをすばやく直し、腕で壁を造る。上半身を揺すり顔の位置をせわしなく変え、敏感に、ガードの影に身を潜める。リズムが平凡なのか、動く先に工夫が見られないからなのか、たやすくジャブで合わせられる。あまりに見事すぎて、まるで敵のグローブに自ら顔をぶつけにいっているかのように錯覚してしまう。
「攻めろ攻めろ。手ぇ出さなきゃ当たんねえぞ。」
 リングサイドからの声に反応して、奥歯がマウスピースに喰い込んだ。
 呻きにも似た返事をあげた。
 しかし撃とうと意志を持った瞬間に、時すでに遅く、もうそこにはいない。遠のく。視界の端に消えていく。モーションに細心の注意を払ったジャブが、難なくグローブに受け止められる。最初から予期しているかのように、まるでミット打ちをしているかのように、元々そこに打ち込むつもりだったのだと自分でも納得してしまうほどに、こちらに向けられたグローブの掌にパンチが吸い込まれてしまう。引く。構える。肩が痛い。クリーンヒットを一発も出せていないのに、手数自体もそんなに多くはないはずなのに、油断すると腕がマットにまで垂れ落ちてしまいそうになる。わずか百八十秒がやたらと長く感じ、いつの間にかゴングが待ち遠しくて仕方なく、さっきまでの玉砕覚悟は萎えてしまって積極的に攻め込んでいくこともできなくなり、かといってディフェンスを固めているつもりでもなく、気が付くと放心している。
 呼吸する。ただ空気を貪ろうと息を吸う、吐く。この、酷く本質的な保存活動だけに徹してしまう。諦めようと、ここらへんで折り合いをつけようと、弱い心が頭をもたげだす。
 視界が大きなグローブで暗く埋め尽くされ、でも、次の瞬間にはまた元のリングに舞い戻っている。閉ざされる。広がる。めまぐるしい場面転換についていけず、急いで瞳を凝らす。
 殴られているのに、痛くはない。でも悔しい。痛くはないから安心するし恐怖も感じないけれど、その心遣いを当たり前だと思ってしまう自分に呆れもする。
 ときおり脳が揺さぶられ、一瞬だけ軽い陶酔に陥り、即座に正気を取りもどす。悔しいのに嬉しい。嬉しいのに、悔しい。相手はマス、それどころか極力シャドー気味に距離を取ってグローブを軽く当ててくるだけだ。こちらは全力でもなりふり構わなくても問題なく、毎回、ラウンド中は思いっきり攻めまくれよと発破をかけられる。骨格が違う。筋肉の量が異なる。持って生まれた埋めることのできない差をまざまざと思い知り、けれども認めるわけにはいかず、それなのにもう一人の自分がこのハンデを当然の措置として居直ろうとするし、だから、なんだか、結局、まったく、一体何を考えているのか訳が分からなくなるので、とりあえず奥歯を噛みしめて喰らいつく。
 ガードの上にジャブが当たっただけなのに、腕には疲労が溜まっていく。グローブが重い。はめる時には重さなんて気にも留めないのに、今は鉄球に手を突っ込んでいるかのように感じる。おい下げんな下げんな。また腕下がってるよ。ちゃんとディフェンスしよう。コーナーからの指摘のおかげで、視野が著しくひろがった理由を知る。守備を弛めるともちろんのこと前が見えやすくなるが、相手も格段にやりやすくなる。けれども、攻めてこない。それにしては、間合いが近い。腑に落ちず仔細を追うと平行に立てた両腕が上半身に密着していて、さっきまで鷹揚だった姿はそこにはなくなっており、鉛筆みたいに細くそり立っている。また訪れた、定期的に発生する、自由に殴っても赦される時間帯だ。相手にパンチがないから万が一にも死なないし致命傷に至る心配もない、安心しきった生贄の供出だ。舐められてる。当然の権利だとも思う。遠慮なく、渾身の力で左を突き出す。返す刀で、右ストレートをお見舞いする。強弱に関係なく、撃つごとに肩の筋肉が破裂しそうなくらい悲鳴を上げ、みるみるとフォームが乱れていく。二本の腕だけでは絶対にすべてを網羅することはできないから空いている箇所を狙ってガードをこじ開けてやりたいのに、左のボディブロー、左フック、そこからワンツー、のはずなのに、意志が肉体にまったく伝わらずイメージがイメージのままで終わっていく。
 こちらは早々と限界を迎えているのに標的はビクともせず木偶を演じ続けていて、やがてにじり寄ってき、その圧に押されて後退を余儀なくさせられて、最後にはどちらが攻めているのかもさだかではなくなってしまう。パンチを出すたび相手の身体にスタミナが奪われていくかのような不公平な気分になり、習いはじめた遅さや毎日は通えない忙しさが脳裡に渦巻き出し、ラウンドの真っ只中なのにいろいろと頭の中で逃げ口上をひねり出している時点ですでに負けを認めているみたいだからやるせなくなる。全部を振り払いたくて、自らを発奮させるつもりもあり、グローブで大きく二回、拍手した。
 三分二ラウンド。三ラウンドはやらせてもらえないし、相手が本気を出すスパーリングは絶対に許可してもらえない。だから強烈なクリーンヒットを受けた経験はなく、いつも甘噛みされるようにグローブで顔中を撫でまわされるだけだ。 
 ほんとにいつも、うまく闘えない。今も気持ちが空回りしてしまい、距離が潰れ、パンチも出せない。打とうにも、腕が動かない。それだけじゃない。もうすでに、入れ直した気合が挫けている。
 でも後わずかで、休憩できる。片時、空気を思う存分吸うことができる。その、最高のごちそうを目前にし、残り少ない燃料を総動員して、縦に跳んだ。力を抜いた。狙い過ぎないように一発一発をもっと気軽にして、というよりももうそうするしか筋力が残っておらず、全部ジャブのつもりで突っつきまわした。戻しを早くし、高く維持する。ダメージやダウン、KOなんていう夢物語は一旦脇に置いて、手数だけでも負けないように踏み留まった。小さく手を出し、すぐに固めて、左右に、前後に、斜めにも、できるだけ飛び跳ねた。落ち着きなく揺れていた風景が、止まった。喉が塞がれたみたいな息苦しさに、突如襲われた。意識して心がけても空気を吸うことができず、吐けもしなくて、胸が痙攣するだけでいつからか呼吸がまったくできなくなっており、脚がその場から一歩も動かなくなっていた。今まさに右の脇腹から沁み込んできた衝撃が反対側へと伝播していく最中で、力の波紋は体内の臓器をあらかた飲み込んで不快感を帯びさせつつ進み、左の脇下へと駆け抜けていく。遅れて、酷い倦怠が襲ってくる。「外せ外せ!」そういう叫び声が鼓膜を刺激した、ような気がする。眼球は相手を追っているのに身体がついていかず、上半身がかろうじて応戦しようとしているだけで、結局、殺すつもりでマットに沈めようとする加減のないコンビネーションの寸止めを他人事のように見守っていた。軽く合わされただけ。でも角度がよかったのか息を吐く瞬間にたまたま喰らったのか、それとも当たり所か、元々ボディに弱いのか、とにかく、猛烈に効いた。顔の前でガードを固めることだけに囚われていたせいで、完全に留守になっていた下を狙われた。アバラの上に優しくグローブを載せられただけなのに、リングの中央で立ち尽くした。「ストーップ! ちょっとストップ! おい犬塚! おまえ当てるなっつっただろ!」その気遣いがもどかしい。
「バカかよ、てめえ。」
「すいません。」
 ファイティングポーズを一時解いてロープ越しのトレーナーに謝罪する横顔を、眺めた。その潔い態度から察するに悪気はないだろうし、本当に申し訳ないと思っているのだろうし、でもどちらかといえば、あまりの脆さに驚き戸惑っているのが本音なのかもしれない。
 もうひとつ、怒声が耳をつんざいた。
 中断が、気持ちを内にこもらせる。非日常から引きもどされ、本来なら倒すか倒されるまで殴り合わなければならないという行為の凶暴性をいまさらながらに再認識させられてしまい、それにともなう当然の結末や行きつくまでの過程をまざまざと体感したせいもあって、真っ先に闘争心が逃げていこうとする。ビビりが、終了を期待する。危うくなると必ず日常に連れ戻してもらえるので、無様にもその温情に今もすがろうとし、早くその判断を下してもらおうと、みなさんが考えている以上に受けたダメージは深刻なのだと卑屈に演じてしまいそうで背筋が冷たくなる。
 こちらにふりかえった彼が顔面を両肩の間にめり込ませながら、何かを言った。トレーナーの声もつづいた。全然聞き取れず、訊き直すこともできなかったが、それでも意味合いは伝わったので肯いた。なけなしの根性をふりしぼって両腕を挙げ、戦意を示した。
 グローブの先を合わせた。
 これを潮に、一層遠巻きに距離をとった姿を目の当たりにして、自らを嗤った。ロープ沿いから離れずに単調な円運動に終始する相手から届きもしないコンビネーションを見せつけられ、その中心から、身体の向きでそれを追うだけになった。
 自分自身が招いた茶番劇なのに、打開する術がない。
 どうせまた、この一ラウンドで終わりにしようとインターバルの間に説得されるのは目に見えているし、直訴しもし続行となっても対戦相手の彼は相当に軽いマスどころか完全なシャドーボクシングのつもりで架空の相手と手合わせしはじめることだろう。おそらく、臨場感満載の砂被りで格闘技を観戦する、そういう三分間を味わうことになる。不甲斐ない。格好悪い。勝負でいえばまたとないKOチャンスなのだから、情け容赦なく一気に畳みかければいいのにとも思う。ダウンしたい。失神するほどの攻撃を喰らって顔中に痛みを叩き込まれてもかまわないし、どこが腫れようが知ったことではない。対等に闘いたい。勝ちたいと欲張っているわけではなく、負けて辛酸を舐めたがっているという捨て鉢な気分でもなくて、嘘偽りのない力の勝負に興じたいだけなのだ。負けることも赦されないのは、屈辱でしかない。それなのに今は止めてほしいくらいに恐怖を感じているし、一矢報いたいのに基本の構えを維持するくらいの動作すらもままならず、肺がいっぱいまで満たされる深くて長い一呼吸だけに恋焦がれてしまい、攻勢に転じるような身動きはまるでできそうもない。
 白旗を上げようとする。せめぎ合う。一旦始まったのだから、闘う二人を分ける手立てはゴング以外にないはずだ、ともう一人が奮い立つ。
 それなのに、それなのに、根本から基礎体力の異なる相手をここまで追い込める思慮の浅い性根に、疑問を持ってしまう。いざというところで性別を盾にしてしまう。
 同等であると証明したいのに叶わず、男と張り合えると認めさせてやりたいのに及ばない。
 目の前でかろやかにステップを踏む。シューズの底がリングをとらえる軋んだ音だけが木霊して、赤いグローブが視界に舞う。当たらない。喰らわない。充分に離れれば遠慮なくパンチに威力をまとわせ、距離が詰まったらディフェンスに徹する。生真面目な彼はワンツーのフォームの確認に余念がなく、コンビネーションの反復練習も怠らない。大丈夫。変なクセはない。ジャブは速く、構えたところから最短でまっすぐ飛んでくるし、こうして対戦していてもいらないワンモーションなどは一切見当たらないし、だからこそ、グローブの赤い円が徐々に拡大しながら近づいてくる。教科書通りの、美しいストレートだ。けれども鼻面のずっと手前でリーチは伸びきってしまい、空を切る。風を感じる。当たらないから、当てないから、はるか遠くから力強いパンチを終わりなく魅せつけてくる。
 そういう配慮すべてを取り払っていくらでも顔面を撃ち据えてくれても文句は言わないのに、それは赦されないらしい。技量不足か、あきらかな体格差か体重差か、練習期間の短さか、ライセンスの有無か、この中のどれかであって欲しいし、どれであっても納得できない気がする。
 そして、本気でそこまで腹を括っているのかも、彼女自身が自信を持てない。
 本当の自分を証明したいはずなのに、見せつけてやりたいはずなのに、逆に生の自分の性格を再認識させられてしまい、マウスピースを噛みしめ、もっと顔を殴って欲しいはずなのに必死で守りを固めている。激しい嫌悪に苛まれ、浅いボディブローの痕跡がまだ少しお腹に残っているのに、無理やりグローブを振り回した。

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