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できない理由を探さない

でも
だって
どうせ

よく聞く言い訳。

わたしはこれを“3D”として、自分では言わないように気をつけている。

なぜか?
この言葉が発せられた時点で、「“前に進もう”と全くしていない」ということだからだ。
そして最初から、“できない”ということにフォーカスしてしまっている。

言い訳をする時点で自分を諦めており、自分を低く見て、
「自分はどうせこんなものだ。」と、レッテルを貼っているのと同じ。

加えて、
“これらの言葉を発する=自分を変えなくて良い(だから楽)”
ということなのだ。

人は基本的に変化に弱い。
“変化する”ということは、それまでの安全、安心なゾーンから外れなければならないからだ。
だから変化を求められると、無意識に”守り”に入る傾向がある。

それは、安心・安全を求める基本的な人間の欲求からすると、当然と言えば当然のことである。

しかし、わたしは「“人間の成長”とは、この変化を繰り返していくことで培われているものだ。」と思っている。

変化をする→それまでの自分の殻を破る→変化をする→さらに自分の殻を破り、制限を外す

そんな感じで繰り返し繰り返し、自分の枠を広げながら成長していくのだ。

大人になってしまうとそんなに感じることもないが、振り返ると子供の頃、新しい知識を得たり、経験したことのないことを経験することで、刺激と楽しさと、幾ばくかの不安とが混ざりながらもそれらを吸収することで、わたし達は成長し、大人になった。

子供の頃は、知的好奇心や怖いものを知らない、その純粋な気持ちが原動力となって行動していたように思う。

だが大人になって、世間やいろいろなものに対する怖さを知り、子供の頃のような知的好奇心もなく、自分という存在の認識がはっきりとできるようになると、純粋な気持ちで動けなくなってしまう。
更に、打算や計算も入るようになるので厄介だ。

そう考えるとわたし達大人は、ある意味怖さを知って、自分と言う人間を純粋に活かすことを忘れてしまったのかもしれない。

子供は、まだ何者でもない自分に対して、「自分はこんなものだ」という風に自分を定義してはいない。

だが、わたし達大人はいつの間にか、自分を定義し、変化を怖れ、行動をためらうようになってしまった。

“成長”とは、人生が続く限り与えられているもの。
だからこそ、言い訳をして変化から自分を守るという行為は、自分の成長を妨げることになりかねない。

また、“成長“には、挑戦、努力といった行動に見合った喜びも存在する。
だからこそ、できない理由を探さないで一度は踏み出してみるべきだ。

少しの勇気が、“自分を変える”“成長させる。”
そう思うと、わたし達にはいつでも、色々な場面でチャンスが与えられているのだ。

「成長と捉えて行動したほうが、人生は楽しい。」

そう考えられるようになるならば、変化や不安を怖れず、言い訳せず、自らを動かすことができるようになるのかもしれない。





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