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大学生が考える哲学①「自己嫌悪」

unbeautyeyeは、躁鬱病や抑圧と戦う現役大学生である。精神疾患であることを強調したいのではなく、単にそれ以外の肩書きがないからそう名乗った。

小さい頃から自己嫌悪にまみれている。
自己嫌悪は誰だって持つ。あなたもだろう。そして、自己嫌悪は、最も身近な凶器となりうる。

自己嫌悪とは

今更説明するまでもない、自分を忌み嫌うことが自己嫌悪なのだ。しかし、このことを安直に捉え間違える人は多い。

自己とは何か。多くの哲学者が、人間というものを分析しているが、面倒くさいので、どれを参考にした訳でもなく、自分にとっての人間の3要素を述べる。
1.人柄や性格等の中身
2.見た目・外観
3.能力
あくまでも、自己嫌悪について考える時の3要素であり、全てに限る話でない。

多くの人は、自己嫌悪を語る。それらは、先程挙げた3要素に、絡むだろう。
「自分の目の形は好きじゃない。」
「自分は運動ができない」
とか。

しかし、それは自己嫌悪とは呼ばない。

僕は、そのような3要素にかかる嫌悪を、自己嫌悪だと思わないのだ。
3要素は、変わることや装うことが出来る。今の時代となっては、そのただの嫌悪は消すことができるのだ。「生産できる嫌悪」と呼ぶことにする。

本来の自己嫌悪の意味

では、本来の自己嫌悪とは何か。
それは、変わることのできない自己への執着心なのである

自己嫌悪が甘い苦しみであるのは、変わることのできない自己を異常なまでに気にしているからである。まるで恋をしているみたいに。

自己嫌悪は必要か

先程述べた、生産できる嫌悪には必要性は明確にあるだろう。嫌悪を生産し、捨てることで、嫌悪とは逆の幸福を得ることができるからだ。また、そのような行程は、永遠と繰り返される。幸福を得るために。

一方で、自己嫌悪は、そのような生産性は存在するのだろうか。
変わらない自己への嫌悪なのだから、克服することはできるのだろうか。多くの人々は、このことを理由に、自己嫌悪は非生産的なものであると言う。

しかし、僕は自己嫌悪は生産性があるべきであると思っている。
自己嫌悪は、甘い自己への執着心なのである。変わることの無い鉄のような自己を舐め続ける。と言ったところか。
良く言い換えてみると、自己嫌悪は、自己に向き合い、愛することなのだろうか。
自己と向き合い、異常なまでに考える。そのことを繰り返す。そのような、自己嫌悪のループを回し続けるのだ。

しかし、それは人生で得ることの少ないあるチャンスを有する。
新たな自己を受容する。
ということだ。

これは、生産できる嫌悪と同じようなものでは無い。新たな自己を受容することに幸福は存在しないからだ。

変わることの無い自己に執着心を捨て、愛情を捨て、新たな自己を受け入れる。

ただし、このことを実行できる者などそう多くはいないと思う。多くの宗教家や哲学者達はこのこと位は思っているのだろう。

おわりに

ここまでは、ただの大学生の自己嫌悪についての哲学的考察です。未熟な哲学でしょうが、何年も精神病に苦しんだ自分なりの哲学です。
寄り良い反論や反応等ありましたら、コメントやXのDMまでお知らせください。

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