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腹が痛い時、そこに神は存在する

 それは突然にやってくる。例え普段から気を遣って氷を抜きにしたり、高島屋で売っているようなハーブティーなんかを急須で淹れたりして労っているつもりでも、胃腸はそんなことを気にしてはくれない。少しでも彼/彼女の機嫌を損ねた日には我々は冷汗を流すことになる。やっとの思いでトイレにたどり着き、腰かけたとしても安心できない。むしろ辛いのはそれからで、一息ついてほっとしたかと思えば、しばらく後には急降下して我々を苦しめる。だけどこんなに辛い経験からだって我々は学ぶことができる。気づくことができる。例えば、アップダウンを繰り返す自分の胃腸と対面しているとき、そこには神が存在していることなど。

 少しでも胃腸の弱さに覚えがある人には当たり前のことだろうが、我々はトイレの便座に腰かけながら、「一体何がいけなかったのだろうか」と考え、そして反省する。そして例え明確な理由が見当たらなかったとしても(見当たらないことの方が多い)、目を瞑り、あるいは一点を見つめながら、時には両手を握り合わせて祈る。この時メタ認知的に自己を俯瞰してみると、疑いもなくそこには神が存在している。我々は神に祈っているのだ。「ごめんなさい、助けてください、許してください...」と一切の雑念なく繰り返し祈った時、あれほど辛かった痛みがすっと引くことがある。やはり神はそこに存在するのだ。そして罪深い我々は同時に、一体自分は何に謝っているのか、そもそもなぜこんなに苦しい思いをしている自分が謝らなければならないのかと腹を立てる。そしてちょっとした反抗心から「このやろう」なんて思ったら最後、さっきまで引いていた痛みは一気にぶり返し、再びいつ終わるかもわからない苦しみを味わうことになる。やはり神はそこに存在したのだ。

 この地獄のような時間から解放されたとき、もはや我々の近くに神は存在しない。あれほど懸命に祈ったことさえすぐに忘れてしまうだろう。しかし今日は忘れるわけにはいかない。この理不尽な苦しみから何か学びとらなければいけない。

 我々が狭い静かな空間で地獄の苦しみを味わっている間、そこに神が存在していることはわかった。しかしそれはなぜだろう?恐らく先週から信仰宗教を仏陀からキリストに変えたという実際的な理由ではなく、もっと概念的なものだろう。少し前に我々が感じていた苦しみはもはや自分ではどうしようもできない、言い換えればコントロール不能なものであり、そんな強大なものに対面した時に我々はその結末を何かに託したのであって、その何かが神だったのだ。つまり神というのはトイレにだけ存在するのではなくて、自分ではどうしようにもできないことに直面した時に出現する。例えばプリンを食べるか、ケーキを食べるか決めかねた時には「どちらにしようかな、天の神様の言う通り...」と神にその選択を託す。どちらが選ばれたとしてもそれは自分のコントロール外の出来事なのだから受け入れる他ない。だからケーキを食べている時に、やっぱりプリンもよかったかなと思ったとしても不満は抱かない。この神の出現は死後の世界を考えるときだって別に大きな違いはない。死というコントロールできないこと、死後の世界という考えたところで解決し得ないものに不安や恐怖を覚えた時、そこに神(ここでは宗教という総体としてのかたちをしている)がやってきて我々に手を差し伸べる。「はい、あなたは徳を積んできたようなのでこちらへどうぞ。そこのあなた、悪いことをしてきた人はあちらですよ」という具合に。そうか、徳を積んでおけば報われるんだな、とやがて我々の中から恐怖や不安が消え、選択可能な世界に目を向けたとき神は背後に姿を隠す。選択可能な世界の中の選択不可能なことに直面したとき、やはり神は再び姿を現して、その選択不能性と共に再び姿を隠す。

 こうして我々はコントロール不能な出来事がもたらす不穏な空気を浄化しながら生きている。極端な例を含んでいたとはいえ、とにかく我々は神の存在を認識した。そしてトイレの神だけは、もう二度と現れる必要がないことを願っている。

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