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アンダルシアの旅Ⅱ コルドバ

アンダルシア地方二日目はコルドバ。

 朝7:40セビーリャ発の電車だったが、仲良くなった2人が朝早いバスで、一緒に来ないか誘われたので、朝5:30起き。
 Googleではバスが6:20に来るとのことだったのに、バス停で待っていたマダムによると6:40まで駅行きのバスが来ないとのこと。2人の乗らねばならない電車に間に合わせるために、歩きで駅まで行くことになった。30分かけて、二人はキャリーバッグを持ち、私はバックパック一つでひいひい言いながら朝の街を歩いていった。

 スペインはフランスと同じく朝が来るのがとっても遅い。8時にさしかかるとようやく空が明るんでくる。6時台など、まだスペイン人にとっては夜みたいなもので、実際街全体もひっそりとして、人の通りも少ない。

 アンダルシア地方でよく目にしたものの一つ、それは霧だ。夜が深まってくると道が靄がかってくる。そして朝にかけて、それは街に残り続ける。

目の前に駅があるものの、霧が覆って見えない。

 あまりの霧の濃さに、爆煙かと思ったくらいで、霧のなかに浮かぶ街灯の光は間違えて地上近くまで来てしまった星たちのようだ。

 そんな星たちの明かりに助けられながらようやく駅に着いたのは6時50分。ギリギリの到着に二人は焦りつつも、私と熱い抱擁を交わし、そして、速足で駅の2番のプラットホームへと駆けていった。弾丸のような出会いと別れだったが、彼女たちはフランスに来るというので、又その時に会えるまで楽しみにしておこう。
 さて、40分ほどまだ時間がある。駅の硬い椅子の上で一眠りする前に電光掲示板で自分のプラットホームを確認する。…ん?私の電車がないぞ。7:39発のものはあるが、あれか?

「すみません、私の電車がのってないんですけど7:39のやつですか?」

「あーそうそう」

 近くにいた駅の係員に聞くと適当な答え。不安ではあったが眠さが勝ち待合の椅子で休息。10分前に起き、急いでホームに向かおうとするとホームへのエスカレーターが閉ざされている。ひどく焦ってもう一度掲示板を確認すると、Depatureの方に乗る予定の電車が記されていた。私はArrivalの方を間違ってみていたのだった。
 この大陸においては、何事も、自分で納得するまで確認する、という原則。分かっていたものの駅員などの制服をまとった"エキスパート"を信頼してしまう癖はなかなか抜けない・・・。

 さて、なんとか間に合い無事にCordobaに到着。

 朝早く、メスキータがあくまでに少々時間があるので駅から中心地まで旧市街を通ってぶらぶらと歩くことにした。まずは腹ごしらえにパン屋を探す。大通りを左に入ると、両側にぽつぽつと店が増えてくる。朝のマダムたちがゆったりと石畳の上を通り過ぎていく。進んでいくと、いきなり両側にパン屋が続けて3軒。そのうちの一軒にはショーウインドーがあり、何ともおいしそうなパンたち。
 お。Empanadaだ。餃子のような形をしたスペイン特有のパンで、野菜やハム、チーズなど、中の具材にはいろんな種類がある。フランスのクロワッサン、イタリアのスライスピザのような位置?おなかもすいていたし温まりたかったので、ベーコンを。
 そうそう、こちらではトゥールーズと違ってしっかりと閉じた扉で、店内の暖かさを逃がさないようにすることは必要ない。したがって、扉がなく解放され、外にせり出しているお店が多い。そんなこの地域の暖かさが羨ましい。第一、外からひょいっと覗いてパン屋の女将とマダムが楽しげに話している光景は、こうした道に顔を出せる店の構造ならではで、シャイな私にとって店の中に入らず道を歩いているだけで楽しい光景がみられるのはうれしい。

様々なパンたち。Empanadaは1.5€。
左のPalera(源氏パイの大きい版のようなパイ)もよく見かける。

 食べながら路地を進んでいくと、いつの間にかユダヤ人の家が並ぶ旧市街に入っていた。左右には特徴的な白壁と装飾。少しアラビア風のデザインも加わったりと、なかなか見ていて楽しい。

アラビア風のスペイン語。

 ゆっくりと歩いていると開場時間より10分前にメスキータに到着。突如白い街並みに現れる巨大な尖塔。それは、モスクだった時はミナレットの役割を果たしていたが、大聖堂になってから鐘楼となった、象徴的な塔である。イスラム建築とキリスト教の鐘が混ざるその尖塔から、早くもこの建物の異質さを感じつつ、門を越え、中へ。

 中庭にオレンジの木が連なる。鈍い砂の色と太陽の光のようなオレンジが、乾いた大地を想像させ、遠い東へと、心がいざなわれるよう。

 こういう情緒をオリエンタリズムと呼んでいいのかしら。

 私は日本人でありながら「西洋」的でなく日本や中国でもない異質な、それゆえに魅力のある第三の世界としてイスラム世界を捉えている節、あるだろうか。わたしのイスラームに対するロマンチズムは私の幼少期の中東の風にあてられたせいか、日本で知らぬ間に入り込んだ西洋からの隙間風のせいかは、わからない…。
 
 メスキータ内部は、正に森であった。中心部のキリスト教の礼拝所のイメージを覆いつくすような、木々。ほんのりと光に照らされて、夜明けでかすかに日が差して照らされた森のようだ。

 改築を重ね、増える人口に応じてその内部を広くしていったというが、この森の中、一斉に人々がメッカに向かって祈る様子はどれほどの物だろう。どんなに煌びやかで派手な絵画や装飾も、メッカの位置を指し示すミフラーブと、祈りを支える優しい柱の織り成す、静かな無限を思わせる荘厳さには勝てまい。

 まだメスキータのなかにいるような夢見つつのままふらふらと、ユダヤ人街を彷徨っていると、一匹の黒猫が門の前でじっとしている。中からはギターのアルハンブラの思い出。フライングで聞いてしまいなんとなくばつが悪かったが、覗いてみることにした。奥に入っていくとそこは工芸品を作る職人たちが集うArtisanatの建物であった。実際目の前で金具などをつないで工芸品を作る姿。

 貧乏留学生にはここまでくるだけでやっとなので、ただ物欲しげな顔でうろつくしかないが、次に訪れる機会があればまた寄ろう。今度は大金を携えて。

奥には噴水もあった。共同住宅を改造したのだろうか。
このパティオ(スペインで特徴的な中庭)のある、人の集まるアパートメントに憧れる。


 さて、一通り巡り、疲れたところで腹ごしらえの時間だ。
 何やら有名であるというトルティージャ・デ・パタタスのお店へ。この料理は、ジャガイモがメインのオムレツ(patatasはpotatoのこと)で、この店は超巨大なオムレツを薄く切り売りするスタンスのようだ。

 2€一スライスだが、ボリュームがすごく、家族で食べたり二人でシェアしている客が大半だった。皆この店の向いのメスキータの壁沿いに座り、食べている。そうした客を見越しておじさんは二つのフォークをつけてくれたが、こちらは一人なのである。楽しそうな家族と隣り合い、黙々と食べる一人娘。
 味は、いたってシンプルでジャガイモとほんのり塩気。卵はもはや接着剤と化し風味はあまり感じられなかったものの、面白さでパクパクと食べてしまう。


巨大なトルティージャ・デ・パタタス。
写真で伝わらない予想外のボリュームを、是非味わってほしい。

 次に向かったのはコルドバのアルカサル。セビーリャと、どう違うのか少しワクワクして向かう。このアルカサルは最後のイスラム王朝のナスル朝を滅ぼすためにカトリック両王が拠点にしたという歴史を持つ。この両王は長い間このアルカサルにいたというのだから、どんなものかと訪れてみたが、中に入り、一通り歩くこと20分。ほぼ、内部は見つくしてしまった。

 セビーリャのアルカサルに比べ、なんとも質素で、小さいのか。それもそのはず、元々はイスラム王朝の要塞として建てられた建物である。

 塔に上ってみると、その堅牢で素朴な作りがよくわかる。両王が召使や炊事係、軍を連れてここに潜伏するにはあまりにも小さく思える。
 周りを囲む壁に沿って作られた屋上の道を進みながら、時にこの壁の隙間からコルドバの様子を兵士が伺っていたのだろうか、などと考えると、すっかり時は過ぎていく。

 イスラム建築の醍醐味であるその庭は、やはり天晴で、特に水辺の手の入れようが目立った。近くにはグアダルキビール川が流れており、イスラム王朝時代はそこから庭に水を引いていたという。
 乾いた砂の色が目の前にあるのとは対照的な、羨むほどの豊富な潤った水は、かつての王朝の繁栄ぶりを示しているかのようであった。

 夜にグラナダに向かうバスまでにまだ時間があるので、美術館に行くことにした。 Museum of Fine Arts of Cordobaと、隣接するMuseo de Julio Romero de Torresへ。コルドバ出身の画家の作品を主に展示する美術館では、アンダルシアを感じる強いオレンジや、光を感じる彩度の高い作品が健康的で気に入った。

個人的に好きな一枚。この人の向かいにも人がいて何やら喋っている風なのだが、
その内容がこの丸い枠に入っている情景なのだろうか。すごい漫画的。


 次に訪れたMuseo de Julio Romero de Torresは、暇つぶしに入ったのだが大当たりで、Julio Romero de Torresというコルドバ出身の画家のコレクションだったのだが、これがすごい。中は撮影禁止で、網膜に焼き付けようと必死の私。

なかなか豪華な内装。4€。

 この画家は主にアンダルシアの女性をメインに書いており、フラメンコの踊り手も多く書いている。女性の逞しさと情熱、そしてその死の宿命を直視するような鋭い眼光を余すところなく書ききっている。

 女性と死のモチーフは男性からの「死すべき」女性像の押し付けとして非難されていることは重々承知だが、しかし、そうしたロマンチズムに酔わないような、淡々と起こる死を受け入れるようなリアリティが、筆からは感じられる。
 どの女性も精悍的でありながら同時に現実を受け入れる平然とした生生しさを顔に含んでいる。
 どの女性も観る者の方向、つまり正面をしっかり見つめており、投げかけられる目線に向かって対抗しているようだ。その目線からは、私たちの「見る」目線に侵されない、したがってこちらで自由に彼女たちに付随する「物語」を作り出させないような、はっきりとした彼女たちの生、彼女たちだけの生が感じられる。

気になった人はこちらを。

 すっかり満足して夕暮れ時のコルドバをゆっくり歩きながらバス乗り場に向かう。

 バス乗り場の近くの地元の小さい店で軽いタパスだけつまんで、コルドバを後にした。

おっそろしく塩辛い牛肉。全部で4€ほど。


 次はグラナダ。最終地。

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