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【短編小説】雲の切れ間に

序章
【小さな変化】


 十五の誕生日に、僕は鳥を貰った。エメラルドグリーンの美しい二翼と体、柔らかな黄金色をしたくちばし、二粒の虹色の瞳。見る者を魅了するその姿で、聴く者を魅了する綺麗な歌声でさえずる。僕は特に、鮮やかな虹色を放つ瞳が好きだ。それは光の具合によって、赤にも水色にも紫にも変わる。僕にこの鳥をプレゼントしてくれた祖父は、僕が喜ぶのを嬉しそうに見ていたけれど、突然ぽとりと静かに言葉を零した。

「昔は、もっと美しい本物が飛んでいたのになあ」と。

 意味が分からずに僕が尋ねると、それはオリジナルのことだった。

 昔、と言っても五十年ぐらい前には、本物の命を宿した犬や猫などの動物、そして鳥が存在していたらしい。そういえば授業で教わったことがあったと思い出したものの、少なくとも僕には想像も付かないことだった。

 本物の動物は、写真や映像でしか見たことが無い。史料館には、それに関する文献や歴史的公文書こうぶんしょ、映像資料などがたくさん保管されている。動物だけでは無く植物も、五十年前より確実に減少しているらしい。それは人間の生み出した科学の発展や、付随する環境汚染などが落とした結果だと、スクールの先生が言っていた。けれど皮肉にも、その発展した科学技術が僕ら人間の生を繋いでいる。

 その日、祖父はそういったことも含めて、たくさんの話を僕にしていった。僕にくれた鳥より、もっと遥かに美しい鳥、力強く羽ばたく鳥、可愛らしくさえずる鳥が、広く円い空を飛んでいたということを。作られた光では無く、本物の光を全身に纏い放っていた、数多くの鳥のことを。

 けれども僕は、この虹色の瞳より綺麗な瞳を持つ鳥、このエメラルドグリーンの翼よりも美しい翼を持つ鳥なんて本当にいたのだろうかと思うばかりで、懐かしそうに目を細めて話す祖父の気持ちは良く分からなかった。これ以上に美しい生き物がいたなんて、と僕は祖父に貰った鳥を見ながら思った。けれど、もしも祖父の話が本当なら、僕は会ってみたい。人間に作られたものでは無い、本物の命を持つ生き物に。

 祖父の話してくれたことを思い出しながら、僕はそんな風に思った。本物の生き物に会ってみたいと考えたのは、この時が初めてだった。いつも通りの穏やかな午後、僕だけが少し変わったみたいに思えた。


第一章
【届けられた不思議】


 十五の誕生日から、一ヵ月が過ぎようとしていた。祖父から貰った鳥は、あれから少しも変わらず僕の机の上で光り輝いている。エメラルドグリーンの羽も体も、丸い虹色の瞳もそのままに、きらきらと綺麗に光っている。流れるように美しくさえずる歌声も変わらなかった。

 その歌声を聴きながらパソコンを起動し、メールボックスをチェックすると一通のメールが届いていた。そのメールは「選ばれたあなたへ」と題されていて、良くあるダイレクトメールのたぐいだと思った僕は、開封せずに削除しようと思った。しかし、そのメールはどうしてか自動的に開封されてしまい、瞬時に内容が画面に映し出された。

「おめでとうございます。あなたは箱を開けるチャンスを手にしました。あなたの御要望に反していた場合、御返品も可能です。明日の朝日が昇る頃にお届け致します」

 二回読んでみても、その意味は分からなかった。覚えも無いので、僕はそのままメールを削除した。「明日届ける」ということが気にはなったけれど、もしも何か変なものが届いたなら受け取りを拒否すればいい。

 そう考えて、ふと鳥を見ると、部屋の窓から差し込む光を受けて更に美しく光り輝いていた。エメラルドの粉をまぶしたような、まばゆく曇りの無い輝きだった。



 あのメールが届いた翌日、僕はいつもより早く起きてしまった。ブラインドの隙間から見た外は、まだうっすらと暗く静かな眠りの街だった。

 差出人にもアドレスにも、もちろん内容にも全く覚えの無い、あの怪しいメール。肝心の内容ですら何が言いたいのか良く分からず、あの時、僕は困惑した。けれども少なからず気になっていることは確かだった。気になっているからこそ、「朝日の昇る頃」に僕は目覚めてしまったのだろう。

 ひっそりとした薄暗い街の様子は、心の中に立ち込める不安を象徴しているようだった。得体の知れないものが送られて来たらどうしようとか、何も送られてなど来ないかもしれないとか、そもそもあのメールは何なのだろうとか、表面ではそんなことを考えつつも、心の奥で、確かに僕は何かを期待していた。

 このいつも通りの景色に、平淡な日常に、信じられないくらい強い光をもたらしてくれる何か。強い好奇心を揺り起こす何か。きっと、ずっと前から僕はそれを望み、探していた。

 ――その時、小さな音がコツコツと窓ガラスを伝って響いた。不思議に思ってブラインドを上げた僕は、小さな鳥がくちばしで窓ガラスをつついている姿を目にした。

 窓を開けると、それは勢い良く僕の耳の横を突っ切り部屋に飛び込んで来た。振り向いた先では机の上に止まった鳥が視界に入り、僕と目が合ったような気がした。どこかの家の鳥が逃げ出したのだろうかと、僕は鳥に近付きながら思った。しかし同時に、逃げ出すなんてことがあるだろうかとも思った。どこかが故障しているのかもしれないと、その鳥に手を伸ばして触れた、その時。

「え……」

 思わず、声に出していた。それほどの驚きだった。羽音の消えた静かな早朝の部屋で、僕の心臓の音だけが鮮やかだった。

 そっと触れた鳥の体は温かった。それは強い衝撃であり、予想もしていなかった事実だった。僕は右手でその鳥に触れながら、まるで時間が止まったかのように見つめていた。どうして、この鳥の体は温かいのか。どうして。何故。疑問詞が何度も頭の中に浮かんだけれど、答えはぼんやりと分かっていた。ただ、それを信じることが出来なかった。

 その不確かな答えが確信に変わったのは、新たに届けられたメールを読んだ時だった。

「お買い上げ頂き誠にありがとうございます。お気付きかもしれませんが、その鳥は生きています。毎日必ず、餌と水を与えて下さい。なお、餌と籠をこちらでお求めの際は、その旨をお書き添えの上、こちらのメールに御返信下さい。無料で差し上げます」

 改めて見てみても、やはり差出人にもアドレスにも覚えは無かった。それ故に不信感は募る一方だった。

 けれども、僕はそのメールに従って餌と籠を購入した。メールを返信してから数時間後にそれは届けられ、その迅速さに驚いてしまった。

 生きている鳥の餌は普通のショップでは売っていないし、売っていたとしても、とても僕には買えないほどの値段だということは安易に想像が付く。だから無料で餌が届いた時は戸惑いながらもホッとした。

 餌と籠が入った小包の差出人欄は空白だった。でも、それよりも僕は生きている鳥の存在の方がずっと気になっていた。

 小さな鳥は、その小さなくちばしで餌を食べ、水を飲む。体は温かい。それらが伝える「生きている」という事実は、本当に信じられないくらいに驚くべきことだった。そして、目の前に生きている鳥がいるという鮮やかすぎる現実が、僕の心を完璧に捕らえて離さなかった。

 今まで、写真や映像でしか見ることが出来なかった、現代に本当にいるのかも分からなかった、不確かで不鮮明だった生き物――生きている鳥。すぐそばにいる鳥の命の音が、聞こえているような気がしていた。


第二章
【不思議な現実】


 一週間に一、二回、僕の元にはあのメールが届けられた。

「お買い上げから、ひと月が経ちます。御返品されなかったことを心から嬉しく思います。ほんの五十年ほど前には、そのように生きている鳥が大空を飛んでいたのです。鳥だけでは無く、犬や猫は街に、草原にはライオンやトラやシマウマ、多くの動物が多くの地を、世界中を闊歩していたのです」

「毎日世話をされていますか? 餌や水を絶やすと鳥は弱ってしまい、病気になる時もあります。機械仕掛けで動く鳥と、心臓や脳を中心として生きる命ある鳥との違いのひとつですね。生きている鳥の中は心臓から送り出される赤い血液が巡り、数え切れないほどの細胞が活動し、呼吸や消化など、生きる為の活動を支える力で満ちています。ネジやデータチップや半導体、電子回路では無く、すべてが生命として動いているのです」

 送られて来るメールの内容は、きっと当たり前といえば当たり前のことだろうと思う。けれど僕にとっては目の覚めるようなことばかりで、新鮮で、魅力的なことばかりだった。生きている鳥は僕を惹き付け、心を動かし続けた。まるで夢のような、夢では無い現実が僕の中には流れて止まなかった。

 日々、その小さな鳥への僕の感動が薄れることは無かった。存在そのものが驚きであり強い興味であり、温かい喜びだった。

 小さな鳥は全体的に濃い橙色をしていた。頭や胸、尾は橙色で、お腹の辺りは白く、少しの淡い水色が混じっていた。翼は赤褐色で嘴は暗めの茶色、そして丸い小さな黒い瞳。さえずる声は、やや高く、終わりの方は丸まっていくような印象を受けた。小さな体からは想像も付かなかったほど、高く力強さすら感じられる声で鳥は鳴いた。

 手のひらに乗るほどに軽い小さな鳥なのに、その体の隅々にまで血液を走らせ、息をしている。あのメールにあったように、全身で生きる為の活動をして、生きている。だから体が温かい。

 何となくだけれど分かった。あの温かさは生きているものだけが持つ、命の証だ。生あるものが持つ優しい体温だ。僕にも体温はあるのに、それが生きているということだと気が付いたのは、この時が初めてだった。

 誕生日に祖父から貰った機械仕掛けの鳥が、僕の隣でいつものように歌った。その歌声はいつも通りに美しく、その姿もいつも通りに綺麗だった。変わらない歌声、変わらない姿。エメラルドグリーンの輝かしい両翼も、万華鏡のように色彩が変化する虹色の瞳も、それらは作られた美しさだと僕は思った。人が作った芸術アートとしての美しさや精巧さ、緻密さがあっても、そこに命の光は無い。虹色硝子の瞳にも命の光は無い。もちろん体温も。

 機械の鳥と生きている鳥は、別々の美しさだ。こんな風に思ったことも考えたことも無かった僕は、自分で辿り着いたその考えに少なからず驚いていた。

 ――僕は、今まで人間以外の生きている命に触れたことが無い。現代に生きる、ほとんどの人がそうだと思う。数少ない生き物の半分以上が政府の保護下に置かれていて、野生の動物なんて目にしない方が普通であり、それが僕らの日常だ。富豪の人たちの中には犬や猫を飼っている人もいるらしいけれども、それは本当にごく一部の話だ。

 僕は、改めて橙色の小さな鳥に会えたことを嬉しく思った。史料や映像では無い、本物の鳥に出会えたという大きな感動が僕を包んだ。どんなに人づてに話を聞いても、多くの文献を読み、映像資料を見ても、きっとこんなに大きな感動は無いだろう。授業で聞いた時には深く気にしなかった、「生きている」動物。「生きている」生物。

 たとえば鳥について書いてある一冊の本があって、もしもその本が世界中で一番素晴らしいものだとしても、その本を読んだ時の心の動きは今の僕の心にはかなわない。本物の命に触れた心には、きっとかなわない。


第三章
【現実の体温】


 珍しく晴れ渡った空を見せたある日、祖父が家に訪れた。持って来た菓子折りを母に渡した後、祖父は僕の部屋に入った途端に一点を見据えて足を止めた。

「……その鳥は?」

 祖父の視線は僕の机の上に注がれていた。机の上には籠に入った鳥が二羽。祖父がそのどちらを指して尋ねたのかは、僕は聞かずとも分かっていた。けれども、どう説明すればいいのか分からず、返事に詰まったまま僕は立ち尽くしていた。覚えの無いメールが届いて、そしてその鳥が窓から入って来たなどと正直に言っていいものだろうか。

 悩み沈黙したままの僕の心情を知ってか知らずか、

「触れてもいいかい」

 と、祖父は言った。

 僕が肯定すると祖父は静かに片方の籠の入り口を開けた。静かな室内に、キイ、という乾いた小さな音が響いた。

「これは……」

 橙色の鳥に触れた祖父は驚きが凝縮された声を発した。生きている鳥だと分かったに違い無かった。僕は、何をどう話したらいいものか先程よりも更に悩んだ。

「この鳥が生きていると、知っているのか」

 祖父は僕を振り返り、やはり驚愕の詰まった声で今、触れている事実をかみしめるかのようにゆっくりと言った。その声は心なしか震えているような気がした。その声に押されるようにして、僕はためらいがちに短く肯定の返事をした。

「そうか。知っているか」

 祖父は橙色の鳥へと向き直り、どこか満足そうに二、三度頷いた。そして再び訪れたわずかな静寂の後、祖父は静かに言った。

「この鳥と触れ合える機会が持てたことを大切に思うことだ。必ず、お前に何かを伝えてくれるはずだから」

 愛おしむように鳥を撫でた後、祖父はそっと籠から手を引き、入り口を閉めた。先程同様、キイ、という乾いた音がした。

 未だ立ち尽くしたままだった僕のそばに寄り、祖父は僕の頭の上に手を置いて優しく笑った。

 生きている鳥が僕の部屋にいる、それについて祖父は追及しなかった。僕は安堵しつつ、祖父の手の温かさを感じていた。そして、祖父の言った言葉を頭の中で繰り返していた。

 ――そういえば以前、一度だけ母に聞かれたことがあった。

 橙色の鳥を指差し、

「それ、どうしたの?」

 と、それほど不思議そうでは無い口調で。

 咄嗟に「友だちから貰った」と言ってしまった僕は、すぐにその軽率さを後悔した。

 しかし母は疑うことも無く、

「そう」

 と言い、

「良く出来ているのね」

 と付け加え、階下へと下りて行った。

 あの時、この鳥が生きている鳥だとは少しも思っていないようだった。鳥に限らず他の動物も、母の頭の中では「いないもの」になっているのだろうか。もしも、祖父にも「友だちから貰った」と答えていたらどうだっただろう。祖父は橙色の鳥の体温に、触れること無く気が付いただろうか。

 浮かんだ疑問のうち、ひとつはすぐに消えた。あの時、祖父は鳥に触れる前から生きている鳥だということに気が付いていたような気がする。ショッピングセンターで売られている機械仕掛けのそれでは無く、赤い血の流れている鳥だということに。

 祖父は、本当の命を宿した動物を多く見てきた世代のうちの一人だ。祖父にとっては、今の現実の方が信じ難いものなのかもしれない。自分の目で、目の前で生物を見ることが叶わない現代の方が。

 窓の外に広がる街の中を、犬や猫が歩いている。緩やかに流れる川の中を、魚が泳いでいる。そして円く鮮やかな青空を、たくさんの鳥が飛んでいる。僕はそんな夢のような街を想像しながら、その夜は眠りについた。すぐそばで、鳥のさえずりを聞いたような気がした。


第四章
【体温に触れて】


 ――やがて橙色の鳥と出会ってから一年が過ぎ、そして更に一年が瞬く間に過ぎて行った。

 僕の部屋の窓から見える街並みは、いつもと同じように閑散としていて、まるで変化の無いように思えた。動物がいない、植物が少ない、この乾いたような眺めはいつからここにあったのだろう。僕たち人間は、もしかしたら取り返しの付かない現実の上に立っているのかもしれないと、そんな恐ろしいことを思った。

窓辺を離れ、僕はパソコンの前にもう一度座った。三十分ほど前に届いたメールを読み返すのは、これで二度目になる。それでもやはり、先程と同じような静かな震えが心の奥から湧き出て来るのを感じた。

「長い間、御返品すること無く共にお過ごし頂き、ありがとうございました。しかしながら返品という表現は不適切かもしれません。その小さな鳥は確かにこちらからお届けしたものですが、生きている生物であり、独立した個の生命なのですから。

 その命とお過ごしになられた約二年間、いかがでしたでしょうか。こうした命は遥かな昔、数多くの偶然や必然、奇跡と共に誕生し進化を遂げてきたのです。様々な命は様々に進化し、時に滅びながらも、世界中の大地に大空に大海に、命を残し続けてきたのです。

 けれども今はヒトという種が溢れ、他の命が消えようとしています。それはヒトが生き延びる為以上のことをしてきた結果であり、その行進は今も止まっておりません。このままでは近いうちにヒトも滅びるでしょう。

 あらゆる命には生と死が宿り、生きている命には皆いつか死が訪れます。けれども、このような結末を迎えてしまっていいのでしょうか。それは、あまりに悲しい終わりだと思いませんか。

 すべての生に死が訪れることは揺るがせないことであっても、すべての生がここで消えなくてはならない理由にはなりません。もう一度、命の歴史を振り返り、その重さと大切さに気付いて頂きたいという想いと、この現代を生み出した我々人間の行いについて考えて頂きたいという願いを込めて、我々はあなたに命宿る小さな鳥を届けさせて頂きました。

 あなたの元に届いた箱が開かれ、変化が訪れることを心より祈っております。長い間、誠にありがとうございました」

 このメールの届く少し前に、橙色の美しい鳥からその命は失われた。静かに死を迎えて目を閉じた。

 僕は、その小さな鳥の命が失われて死ぬ瞬間まで、すべての命に与えられている「死」を忘れていた。意識が薄かった、というのが正しいのかもしれない。いつか小さな鳥が死という形でいなくなるということを、僕は約二年の間、一度も意識すること無く共に過ごしていた。生きている命だということは、同時に失われる命だということでもある。それを僕は分かっていなかった。分かりたくなかったのでは無い、本当に分かっていなかったのだ。

 パソコンの画面から目を離し、僕は宙を見上げた。当たり前に、そこには小さな鳥が飛ぶ姿は無かった。

 不意に、心臓が一際大きく波打った気がした。

「……生きている」

 僕は今ここに生きている。心臓が動き、赤い血が体の中を巡り、思考している。けれど、いつかは僕も死ぬ。両親も祖父も、友だちも先生も、生きている命はいつかは消えて無くなる。死を迎える時が来る。その「死」があるから「生」があるのでは無いだろうか。

 機械仕掛けの美しい鳥がいつか壊れて動かなくなり、二度と綺麗な歌声で歌わなくなっても、それは生命が失われる死というものとは違うように思えた。

 僕は、もう一度小さな鳥を両手で包み込むように抱いてみた。冷たく固くなった体と閉じられたままの瞳が、たまらなく悲しかった。再び視界が滲んで涙が出た。もう二度とその翼で飛ぶことは無い。高く丸い歌声でさえずることも無い。茶色のくちばしで餌をつつき、水を飲むことも無い。止まり木に佇み、身繕いをすることも無い。

 何より、この小さな体に再び体温が宿り温かさを取り戻すことは無いという事実。

 ――体全体が何かに掴まれたように息苦しく、押し潰されるように悲しかった。とても、悲しかった。涙が止まらないほどに。


終章
【大きな変革】


 小さな橙色の鳥。初めて人間以外の生きている命に出会えた僕は、今もその存在を忘れていない。

 赤く色付いた楓の葉に、わずかに土を混ぜたような赤褐色の両翼を広げて羽ばたく姿、生まれる羽音。頭と胸と尾を染めていた鮮やかな夕焼け色、淡く明るい空色をしたお腹。樹木の幹のように深い茶色をした嘴、小さな黒真珠のような瞳。そして温かな体温。何もかもが、僕に生命というものを伝えてくれた。残されたものは悲しみだけでは無く、温かさを宿した命のありのままの輝きが、僕の中に確かに刻まれていた。

 あの温かさを忘れたくない。そして、たくさんの人々にあの輝きを伝えたい。懐かしそうに昔を話す祖父の気持ちが僕にも分かるようになり、そして、何度も語ってくれた夢のような世界を現実にしたいと思った。

 街には犬や猫がいる、大空には鳥がいる。海や森や草原には多くの自由な動物や微生物がいて、多くの植物が呼吸をしていた、六十二年ほど前の僕たちの世界。それは確かに存在していた。夢や幻では無かったその現実と、僕は現代で会いたい。誰の目にも映る現実として、ここで会いたい。近い未来に叶えたい。

 ――窓際に置いたいくつかのポトスは、朝日を受けて輝かしいばかりの緑色を僕に見せてくれていた。その光景に安堵しつつ、僕はパソコンを起動する。

 まだ誰もいない早朝の小さな研究室には、時計の秒針の音、わずかな空調機の音、パソコンから生じるかすかなファンの回る音しか無く、ひどく無機質な感じがした。そんな時に、窓辺に並べたポトスを見ると心が呼吸をするような感覚を覚える。ポトスに日光が降り注いでいると更にその感覚は強まる。そこに命があるという現実に、懐古と憧憬を覚える。

 パソコンが起動するまでのわずかな時間をこうして過ごした後、時折、僕はメールを読み返している。忘れない為でもあるし、思い出す為でもある。



 ――橙色の鳥の命が失われたあの日の二週間後、一通のメールが届けられた。

「今、あなたは何を思いますか」

 それが、箱を届けてくれた誰かからの最後のメールだった。

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