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部屋にあるきっかけたち


突然としてぽろっと零すのですが
私はモノを捨てることが苦手です

いきなり?と思われる方が多いでしょう

今日、寺地はるなさんの『ガラスの海を渡る舟』という本を読了しました
すごくたくさん考えてたくさんの言葉を綴りたい気持ちなのですが感想はまた違う記事にて、さまざまに感じたものをしたためたいと思いますが

その本に

記憶にはかたちがないから、壊れることもない。でも、薄れる。遠ざかる。だからとどめておくために物に託す。それを目にしたら、いつでも思い出せるように。ガラスの骨壷を求める人たちがそう思っているかどうかはわからないけど、すくなくともぼくはそう思っている。

とありました。

そう、記憶にはかたちがないです
私自身の人生の時間で起こったことは私が覚えていることしかできない…そのことにとても恐怖を覚えます
私は自分の記憶力に自信がないんです
忘れたくないものたちを私の中でとどめておく自信が無いのでしょう
だから、モノに頼るのです

だから、モノを捨てることが出来ないのでしょう

私の部屋の捨てることができないモノたちは
・中学時代の部誌
・高校生の時に友達と授業中にまわした手紙たち
・貰ったキーホルダーなど
・昔(小学生時)に可愛くて使えなかった漫画雑誌の付録についていたポケットティッシュ
・グッズなど
・プリクラ
などなど

他にもあるのですがたくさん部屋の中にあります、きっともう使うことがないだろうなぁと思う品々もあります

なぜ捨てることができないのか、考えました

普段生活している中でこのモノたちが目にはいると、ふと今まで忘れていた当時の記憶たちが流れてきます
そして芋ずる式で他の記憶たちもするすると引っ張られてくる気がします

そのモノものは頭の中で時間が巻き戻されるきっかけとなってくれるのです
それたちを捨ててしまうと思い出せなくなってしまうんじゃないかという恐怖があるからな気がします

現に私の地元が都市開発されていき街並みがだんだん変わってきましたが、前の街並みがわからなくなってきてしまいました


ここにはなにがあったのだろう
通っていたはずなのにわからない
どんな姿だったんだっけ

こんな疑問ばかりで一向に私の記憶は巻き戻ってくれません
私はこの街で過ごしていたはずなのに、生きていた時間があるのにわからないんです
もっと写真を撮ればよかったです


私という人間が生まれて初めて貰ったものは名前だと思うのですが
私の人生が私が生きたものだと保証してくれるものは記憶なのだと思います

私として生きる第一章から最終章までの存在を認識できるもの

きっと自分の都合で良くも悪くも改竄されてしまうこともあるでしょう
そしてうれしい記憶もかなしい記憶もたのしい記憶もつらい記憶もほほえましい記憶も、たくさんのさまざまなものが積もり積もっていると思います
正確ではない…薄れていくものではありますが、私が終わってくれるまでなるべく寄り添っていてほしいものです


モノたちを捨てられない私ですが、部屋の面積は限りがあります
いくら私の一部であったとしても、足の踏み場と日々の生活ができる範囲の散らかりにとどめておきたいなぁ


追記…
美味しい串カツ屋さんの串入れが鯉の陶器でかわいくてかわいくて忘れてしまわないように、とこの写真を選びました

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