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【小説】革命の日

 昨夜遅くまで降り続いていた雨は、夜明け前に止んだようだ。塵や埃が洗い流されたみたいな、すっきりとした青空が広がっている。グランドの水はけも、思ったよりは状態が良さそうだ。

 小学校最後の運動会だから、と、担任の石川先生が熱心に誘ってくれて、休みがちだった正樹まさきも参加する気になったようだった。
 正樹がはじめて「学校に行きたくない」と言い出したのは、六年生に進級してすぐのことだった。

「行きたくなければ、行かなくていい」
 と、夫は事も無げに言う。
 肝心なのは塾の勉強で、学校へはむしろ、息抜きに行けばいいだけなのだから、と。

 夫は、内科医院の三代目だ。だから正樹はおのずと、医院の後継者として期待されている。
 ことに義母は、正樹のことを「跡継ぎ」と公言して憚らないし、成績や進路についても堂々と干渉してくる。進学塾も、受験する中高一貫校も、そして大学さえも正樹は、自分の父親の進んだ通りにたどっていくことを、なかば強制されていた。

 私は内心うんざりしながらも、「開業医と結婚した以上、仕方のないことだ」と、そんな状況を心のどこかで受け入れていた。むしろ、正樹を医学部に合格させることが、私の使命のような気がして、小学生の今から不安が尽きなかった。

 晴天に恵まれて、玉入れ、綱引き、組体操と、昔と変わらないプログラムが順調に進んでいく。時折吹く強い風が、砂埃を舞い上げて、来賓席のテントを揺らしていた。
 
 直前まで学校を休んでいた正樹は、練習の必要な種目には参加せず、徒競走にだけ出場することになっていた。六年生はトラック一周、四百メートル走だ。
 放送部によるアナウンスも、流暢で淀みない。保護者席の応援は、ますます白熱していた。

 パァーン! と、スターターピストルの乾いた音が鳴って、走者が一斉に飛び出した。他のパパたちに交じって、夫もスマホを構えている。

 ところがどうしたことか、正樹はただ一人、ゆっくりと、腕を振って歩き出した。一塊の集団は、やがて少しずつ順位が定まって、一列になって駆けていく。

 正樹一人だけがまるで、違う空間で、違うことをしているみたいに、ゆっくりとトラックを進んでいく。
 不意に、風が止んだような気がした。私は、目の前で起こっていることに思考が追いつかない。

 保護者席の前を、正樹は目もくれずに通り過ぎていく。緊張しているのか、頬が少し赤らんでいるのが見えた。
「あいつ……」
 夫が、思わず声を漏らした。
 義母は無言で、顔を引きつらせたまま、ゆっくり歩いていく正樹の背中を凝視している。

 夫と出会ったのは、私が看護師になって間もない頃だった。
 はじめて紹介された時、義母は私を見て、不機嫌な表情を隠そうともしなかった。
 そうしてしばらくの間、値踏みするみたいに私を眺めた後、
「……それで、ご両親の、ご職業は?」
 義母は、そう聞いた。

 一番に聞くのが、それ? と、思ったけれど、
「父は、中学一年の時に亡くなりました。母は、印刷工場で働いています」
 と簡潔に、私は答えた。

「……そう。ご苦労なさったのね……」
 義母は、同情のこもっていない嘆息を漏らす。
 すぐには誰も、口を開かなかった。重苦しい沈黙の間中、私は、短く切り揃えた自分の爪を見ていた。

 校庭に、強い陽射しが降り注いでいる。太陽は真上に近く、テントの内と外とでは、気温が二、三度違うだろう。打ち水はあっという間に乾いて、グランドの砂はすぐに元通り白くなった。 

 一緒にスタートした子どもたちは、トラックを一周して既にゴールしていた。
 ただ一人、正樹だけが、悠々と手を振って歩いている。コースはまだ半分以上、残っている。このまま最後まで、歩き通すつもりだろうか。

 異変に気付いて、保護者席の声が大きくなってきた。
「正樹くんどうしたの?」
「怪我してるの?」
「……え? わざと……?」
 囁きは次第に、大きなざわめきへ変わっていく。

 夫も義母も、呆然として固まっていた。正樹の背中を目で追いながら、口を半開きにしたまま言葉が出ないようだ。
 今日の徒競走で「歩く」ことを、正樹はいつから計画していたのだろう。密かにそんな覚悟を決めて、今朝、家を出たのだろうか。
 私は、ゴール地点へ先回りするために、保護者たちを掻き分けて走った。

 ゴールまで、あと十メートル。
「正樹!」
 と私が叫ぶと、ちらりとこちらへ顔を向ける。
 正樹は、さっきよりももっと頬を紅潮させて、今にも涙が溢れそうな目をしていた。

 先生たちが慌てて、もう一度ゴールテープを張ってくれる。
 保護者席から、拍手が沸き起こった。
 どこからか「頑張れー」という声が聞こえる。
 つられるように「頑張れー」「あと少しー」と歓声が飛んだ。

 陽射しを浴びて、ゴール地点へ走りながら、
「これは、革命なんだ」
 と、私は思った。 

 少しも急ぎ足にならないように、一歩一歩確かめるみたいにトラックを歩いていく。
 全校生徒、教職員、保護者、来賓たちの視線を一身に浴びて、正樹は今、必死で闘っているのだ。

 走れないわけではない。怪我もしていないし、どこかが痛いわけでもないだろう。
 ただ、正樹は今日、「走ることを止めて歩く」と決めたのだ。 

 私は子どもたちに交じって、ゴールのすぐ側に立った。
 トラックを歩き終えて、急遽張り直されたゴールテープを切る、たった一人の私の息子を力いっぱい抱き締めるために。
 生温かな風が、私の頬を掠めていった。

                    了



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