ライフイズビューティフル
路上ですれ違った三歳くらいの男の子が、か弱い声で泣いていた。
右手にウサギのぬいぐるみを抱き抱え、左手はママの手に預けている。俯き加減で泣きながら、それでも立ち止まらず、駄々をこねたりもせずに、一歩一歩足を運んでいた。
ほんの一瞬すれ違っただけで、私はもう胸が詰まって苦しくなって、今にも自分が泣き出しそうになる。
全然、面識のない母子なのに。
背景もわからないし、泣いている理由も知らないのに。
きちんとカットされた髪と、よく似合うサイズの合った服。そして、大事そうに抱き抱えているウサギのぬいぐるみ。
この子はきっと、大人たちから愛されて育っているに違いない。
——目の前の光景に、私は一体、何を、誰を、投影しているのだろう。
そう言えば、子どもたちがまだ幼かった頃、私はしょっちゅう、こんなふうに胸を詰まらせて、涙が溢れそうな衝動に駆られた。
それは息子が、小さなレゴブロックを填めようとしている時だったり、娘が、絵本の中の「おばけ」に目を見開いている時だったり。
あるいは、テレビの教育番組に合わせて、ぎこちなく体を動かしている時だったり、大好きなウインナーをフォークで突き刺そうとして、コロコロと転がってしまった時だったり……。
それらは何気ない毎日の、ほんの一コマなのだけれど、幼い子どもたちはいつも一生懸命で、そうして大抵、いろんなことがうまくできない。
幼くて、未熟で、無知で、浅はかであることは、子どもなんだから当たり前だ。それなのに私は、その姿がどうにも悲しく、苦しくて、やるせない思いに圧倒されていたのだ。
「ちえさんは、お母さんのことを「かわいそう」だと思うことで、繋がってこられたんですね」
と、カウンセラーが指摘する。
私が物心ついた頃にはすでに、母は病床にいた。
やがて少しずつ回復すると、今度は信仰にのめりこみ、ようやく病気が寛解すると、まるで現実逃避するみたいに、園芸と手芸に没頭していった。
平均寿命まで二十年以上を残して、母は急逝した。
思えばずっと世事には疎いままで、難しい言葉も、難しい漢字も知らず、メモ書きはいつもカタ仮名だった。
だから、「かわいそうな女性として一生を終えた」という印象は否めない。
甘えたり、笑い合ったり、ふざけたり、時には拗ねたりといった、ごく普通の母子の繋がり方を、私はほとんど知らない。
だからなのだろう。
恋しく思う気持ちと、「かわいそう」という感情とが、心の中で混線してしまっているらしいのだ。
母との繋がり方を、今度は自分が母になって、子どもたちとの間で再演してしまう。これもまた、よくある話なのだそうだ。
カウンセリングルームに、背丈15センチほどの人形がある。ふわふわと柔らかく、手足を動かして座らせることも、立たせることもできる。
不思議なことに、見る側の私の感情次第で、笑っているようにも、悲しそうにも、泣き出しそうにも見える。
その日、カウンセラーに促されて、両手に包むようにして持つと、人形は、とてもとても優しい顔をしていた。
——あ、かわいそうじゃない。
私はごく自然に、人形の頭を撫でた。撫でる度に人形は、まるで頷いているみたいに頭をコクンコクンとさせた。
カウンセリングの帰り道、弱々しい声で泣いている女の子を見かけた。
やはり三歳くらいだろうか。パパに抱っこされて、その広くて大きな胸に顔を埋めて泣いている。
時折、何かに気を取られては泣き止むけれど、また思い出したように、小さな声で泣き続ける。
パパも女の子も汗だくで、だけど二人とも、どこにも悲壮な感じがしない。
私はふっと、笑みがこぼれた。
そして、いいなぁ、と思った。
子どもたちが幼かった、あんな頃に戻れるなら、いつまでも抱っこしていたいなぁ、と。
その日の予定や、ご飯の支度なんて気にしないで、ゆっくりと、子どもが気が済むまで抱っこして、泣きたいだけ泣かせてやるのだ。
そうするうちに子どもは自分で、降りて遊びに行くかも知れない。
もしかしたら、泣き疲れて眠ってしまうかもしれない。
そんな経験を一度もせずに育った私は、やはり、そんなふうに子どもと接することができなかった。
久しぶりに、あれこれ食品を詰め込んだ「実家便」を送ろうかな。
故郷の味なんかじゃなくて、どこでも買える物ばかりだけど。
お米や缶詰、レトルトに、子どもが好きだったお菓子やジュースも入れて。
私は今、子どもたちの笑顔を思い出すことができる。
幼児の頃、小学生、中学生、高校生、家を出て行く頃、どの時代にも、笑顔の瞬間があった。
これからの日々で、笑顔の記憶をどんどん上書きしていけばいいんだ。
私自身も、笑顔の写真をたくさん撮ろう。
人生はもう、笑い合うターンに入っている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。