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ワニ炎上問題とナラティブ

去年末のラジオ番組で「ナラティブ」というキーワードを中心になにか変化が起きてるという話をした。


この「ナラティブ」という言葉を考えてみると、最近のワニ炎上問題にも関係している気がするので、ちょっと補足しておきたい。


※ちなみにラジオでは十三機兵防衛圏についてふれている。神ゲーです。


▼ナラティブとはなにか

ナラティブは欧米ではほぼストーリーと同じ意味で使われている。
ところが最近、マーケティングやらゲームやらいろいろな業界でこの言葉を見かけるようになった。うーん、どうも「ストーリー」というだけでは足りないものが「ナラティブ」という単語で補完されているようだぞ……というあたりから始まっていろいろ読んでいくうちに、中川大地さんにこういう論文があると教えてもらった。

「ナラティブを分解する——ビデオゲームの物語論—— 松永 伸司」
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/243574/38daecd3b17498c26ff1b89983533fef?frame_id=726294

これはすごくよくまとまっていて、ゲームで使われている「ナラティブ」についてのだいたいの疑問はここで解決する。
要は「ナラティブ」という言葉が独り歩きして、みんなが勝手な定義をしている。それが何を意味しているのか理解するためもうちょっと厳密に考えようと。
確かに、ナラティブゲームを語るとき、ここで言われるように「プレイヤーによる(by)物語」「プレイヤーについての(about)物語」の両方が混在している例が多い。
みんなが考えているナラティブに違いがありすぎるのは確かで、それを交通整理するための材料としてこの論文は非常に有益だ。

とはいえ、すでにナラティブという言葉はゲームに限らずいろいろな場所で流通している。その背景には、「ストーリー」や「群像劇」など、既存の言葉では語り足りないなにかがある、という実感があるんじゃなかろうか。ぼくはそれがなにかを知りたい。
そして、このナラティブとストーリーの違いが、「100日後に死ぬワニ」炎上問題とも関係している気がする。

▼結論からいうと

多くの人が使っているナラティブという言葉のなかには、物語・相互変化というキーワードが含まれている。

比喩表現をするなら、「ニュートン力学」と「量子力学」の差にとても近い。
従来のストーリーは、観測者と観測対象をわけていた。それに対して、ナラティヴは両者をわけない。相互の影響で変化する物語が「ナラティヴ」だ。
対人間のナラティブを考えてみると、AとBが出会って、お互いが持つ物語の前提が変化していく、これをナラティブと呼んでいる。

しかしパッケージ型のゲームや完結しているマンガなど、片方がすでに完成されているコンテンツにおいては、どうあっても受け手しか変化しない。しかし、受け手は送り手の送ってくる情報を、「解釈」によって変化させることは可能だ(こういった場合もナラティブに含んでいいのかは微妙だが……)。
固定されているはずの送り手(コンテンツ)が、まるで自分のために変化したかのように思えるメタフィクションは、擬似的なナラティブを発生させているとも言える。

▼ナラティブ用例

わかりづらいので、最近読んだ本のなかで、具体的に「ナラティブ」という言葉が使われている箇所を見てみよう。

佐々木俊尚『時間とテクノロジー』において、「ナラティブ」は、

マーケティングの分野では終わりのない開かれた物語であるというニュアンスで使われている。

とあったんだけど、この本で引用されるのがここ、

ジョンヘーゲルは2013年にネットの記事でこう書いています。
「ナラティブはストーリーに関連しているが、同じものではない。ストーリーは自己充足的で、始まりと終わりがある。一方でナラティブには終わりがなく、開かれている。結末にいたっても物事は解決されない。ストーリーは私というストーリーテラーについての物語で、あなたの物語ではない。それに対してナラティブは、あなたがとった選択や行動によって結末は変わる。あなたが結末を決定するがゆえに、あなたはナラティブの重要な要素の一つなのだ」

ナラティブはぼくらも要素であるといっている。
さらに、以前、

この本を読んだときにとっていた読書メモをみていたらこういうのがあった(引用が不正確ですまん……)。

ナラティブ:お話
お話であってストーリーではない ストーリーはみんなが同じ体験をできるもの。ナラティブはみんながそれぞれのプレイのなかで採られた行動パターンで得られる体験でお話がかわるもの。
断片からつくりあげていくもの。
ボスを一回で倒したひとと数回で倒した人はちがう。

最初の論文に則ると、これはbyのほうかな?
さらにもう一冊。

経営学の本だけど、「ナラティブ」という要素が出てくる。
この本のナラティブっていうのは医療や臨床心理の場で研究されている「ナラティブ・アプローチ」という方法に近いらしい(参考資料にも、こういうのがあげられてる)。


さて、この『他者と働く』で書かれているナラティブとはなにか? すごく単純にいうと、
”それぞれの視点に立ってその立場を理解する”
えっ……そんな単純なことなの? 単に「人の立場になって考えましょう」とか「相対的な視点でものごとを見る」とかってことじゃないの? と思われるだろうけれど、それとはちがう。
なにがちがうのか?
話をする専門家も「専門家」という自分の物語をこわして関係を結ぶのがナラティブ・アプローチだという。重要な点は、特権的立場に自分をおかない、という部分だ。

よく「相対的に見る」、というと必ず「相対的にものごとを俯瞰している私」が存在することになる。このとき、自分もまたそのネットワークの中にいるひとり、として観察されていることを忘れがちだ。この本のなかで言われる「ナラティブ」というのはそうしたことを含意する言葉である。

ナラティブとは視点にとどまらず、その人達が置かれている「一般常識」のようなものなのです。

つまりいったん相手の世界に完全と同化して、自分も変化するというのが前提であって、決して「ストーリー」の傍観者ではない。観察者と主体をわけないことがナラティブなのだ。こうした主張はすこし既視感がある。近年再評価されつつあるベイトソンの哲学なんかは近いかも。ベイトソンの再評価は、それが現代的な世界観にマッチしているからに他ならない。

ポスト・トゥルースやフェイクニュース、ヘイトスピーチ。「正しくない物語は本当に正しくないのか」そのストーリーを信じている人とわかりあうにはどうすればいいのか?
ストーリーではない、ナラティブ的なモノの見方こそ、今ぼくらが必要としている視点だ。

▼まとめ

話は最初に戻る。こうして見てきたことをまとめると、ナラティブというのは、

”自分自身をその物語の一部として含み、相互変化する物語の場”

ということになろうか。うーん、より面倒な定義をくっつけただけかな? 整理できているような気もするし、また例外もあるような気もする。

最初に言ったワニ問題をこれにあてはめてみると、ワニというコンテンツはとてもナラティブだったんだけど、マーケティングという強固なストーリーによってそれがぶち壊された……とみんなが感じてしまったことにあるのかもしれない。
今後、またナラティブなアプローチをすることでもう一度調和を取り戻すと良いなと思う。


▼以下、いろいろ考えたいこと

・ナラティブをワニ問題にからめて書いているこの文章はストーリーなのかナラティブなのか? 

・ゲーム作る側から考えると、やっぱり「自分で発見する物語」のほうがわかりやすいし、プレイ体験に近い気がする。

・小説書く側においては、従来の「メタフィクション」で良いかも。信用できない複数の語り手の誰を信じるか、といった物語を読んだあとでそれについて語ることはナラティブか?

・人間関係や現実で発生する複数の主観をひとつにまとめると群像劇になるが、それをまとめないとナラティブになる?

・臨床心理におけるオープンダイアローグがある種のノーマライズを目指すのに対して、ナラティヴ・アプローチは必ずしもそうではない?

・アナログゲームの「マーダーミステリー」は純粋なナラティブに近いのかも。TRPGもそうだけど、両方人間同士のコミュニケーションがベースのゲーム。ナラティブゲームであり、ナラティブコミュニケーション。

・プラスだけではなく「マイナスのナラティブ」もあるのでは?

そんなわけで引き続き、「ナラティブ」という言葉がどうなっていくのか追いかけていきたい。



追記 2020/03/31:
宇田川先生よりFBで「そうなんです、ベイトソンなのです。」というコメントをいただく。

菊崎さんにワニの話をされて、そういえばワニ問題も関係あるかもな……と思ってこれかいた。


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