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朝の記録二〇二一夏 試し読み

朝の記録について

 二〇二〇年八月二九日から開始し、起床時に考えていることごとを日記形式で書きとめている記録。現在はg.o.a.t (https://umi-yoake.goat.me/) にて公開を継続。この冊子では、ネット上にて公開した文章を加筆・修正しまとめている。
 なお今年の三月末で退職し、小説を書いたり本を読んだり小さな畑を耕したりしながら、もろもろ、人生模索中。


七月一日(木)の謎めいた「○○ほー」

 プロ野球で巨人の山口投手がノーヒットノーランを達成しそうだという報せが自分の目に届いた頃にはもうホームランを打たれていた。
 試合が終わる頃、ネットに「○○ほー」と言葉が溢れる。ドラゴンズが勝てばどらほー、タイガースが勝てばとらほー、カープが勝てばこいほー、ソフトバンクが勝てばたかほー、などなど。最早ネット、特にTwitterの風物詩となっており気にしていなかったのだけれど、ふと、そもそも「ほー」とはなんぞや、と思い検索をかけてみたところどうやら「わんだほー」や「やっほー」の意味が隠されているらしい。
 純粋な感嘆詞というより一応意味があったことに驚きつつも、「やっほー」はともかく「わんだほー」はやや無理矢理ではないか。「やっほー」もなんなんだという気もしたが、やまびこのために高い山間で叫ぶ言葉といえば「やっほー」が定番となっていて、日本人は開放感に満ちると「やっほー」と叫びたくなる、そういうものなのかもしれない。この「やっほー」も一体どこから来たのか。
 共通言語としてのわかりやすい言葉は、応援歌と似たようなもので、たとえ離れていても一体感を得られる。つい口から出てしまうようなわかりやすさゆえに、大きく浸透し、私のような普段から野球の試合を見ないような人間でも言葉は目に入ってくる。
 元祖は何か調べてみると、本当かどうかは定かではないがソフトバンクの公式Twitterが「たかほー」と言い出したことが始まりだとするものがあった。それに乗じて恐らくは各球団のファンがそれぞれの「○○ほー」を言い出して、一番語呂が良いものが定着したのだろう。確かに「そふほー」よりは「たかほー」の方が叫ぶのに良さそうだ、「ふ」で口をすぼめるのは叫ぶのを邪魔しそうだし、「かぷほー」よりは「こいほー」もまた「ぷ」で口をすぼめる。「う」行があまり使われないのかな、と思ったけれども一覧を眺めているとジャイアンツは「うさほー」、ヤクルトは「すわほー」、日ハムは「はむほー」とあるので何も「う」行が嫌われるわけではないらしい。球団をイメージするいくつかの言葉にも限りはあるだろうから、語感でどちらが良いか選別されていく。日本のこういう音で遊んだり、音に対する感受性が高いところが好き。しかしジャイアンツは「うさほー」なのか、外野からしてみるとあまり「うさ」というイメージがないので、あまりしっくりこない。見かけない気もする。周りに巨人ファンが少ないからというのもあるけれど。「うさほー」であのマスコットキャラがうさぎであったと知った。世の中には知らないことが多い。
 それにしても横浜だけは「横浜優勝」なこと、すべてをすっとばしてはしゃぐ感じ、いつも豪快で好きだ。他も「○○優勝」とネットの大海で叫んだりしているけれども、横浜だけは頑なに「横浜優勝」で、「ほー」が存在しない。あまりにもなかなか勝てない暗黒時代が長く、勝った時のファンの喜びようがまるで優勝した時のようだったので横浜は「横浜優勝」らしい。なんだか切ないが、愛らしい揶揄というか、自虐というか。嫌いじゃない。
 一方の最近凄まじいことになっている大谷選手の「オオタニサン」はアメリカエンゼルスの実況が「Long-fly!! Ohtani-saaan!!」と叫んだことが由来だというのも昨日知った。何故そんなことまで知ることになったかというと「ほー」由来ではなく超ミーハーなので連日良い報告が止まらない大谷選手のWikipediaを読んだからであり、今もヤンキースとのライブ中継を観ながら打鍵している。彼は今日投げながら打席にも立っている。
 矛盾した報道を見るだけでくたばれと唾棄する日々だけれど、スポーツに罪はない。
 昨日は畑。致命的ミスを犯してしまったきゅうりだったが、なんとか生きてくれている。ミニトマトが少しずつ赤くなってきていてこれが実に美味しい。小説を書いてから、夜は『眠るフランシス』の続きとポケモンスナップをやりだした。感覚としては完全にアトラクションそのもので、柵のない車に乗ったサファリパーク、あるいはディズニーシーのトイ・ストーリー・マニアをやっているようだ。もう随分とご無沙汰。



七月二日(金)の小さな焦燥

 午前中に小説を少しだけ書いてスケッチをしてぼんやりとしている間に本を読んだりゲームを囓ったりして、家を出た。
 雨が降るだろうからと地下街で昼食をとろうと声をかけ、集まった友人と丼を食べる。相手もまた退職したばかりだったから、平日は大体空いているというわけだった。平日の昼間は人がまばらで、混んでいて店に入れないということはほとんどない。適当に入ったカフェのランチは丼がメインで、普段あまり食べない海鮮系を頼む。炙りサーモンとアボカド。
 待ちつつ、食べつつ、最近について話を聞いては喋る。時流に押し流されそう。それからお金の話とか。思い返せば、随分とお金の話をした。保険に年金、雇用保険の制度について、夏のボーナスについて。さっさと転職した方がそのあたりは楽は楽で、会社がやってくれる。雇用保険も再就職が早いと多めに貰えるのだから、お金のことを考えれば早く就職するに越したことはない。
 あまりにも人と会わないのでストレスが溜めこまれているのではないかと危惧していたが、人と会うのは今やや疲れるタイミングだったかもしれない、案外それは微々たるものだったのかもしれない、けれどもやっぱり何か気が楽になったような逆に焦るような複雑さを抱えたまま家に帰って暫くは身体を伸ばした。ぼんやりと天井を眺めていると、不意に『読書の日記』のどこかで阿久津さんが、自転車に乗って通勤している人の様子を見ながら、数年前の自分もそうだった、と回想する場面があったと思い出して、ページを捲ると、あった。案の定付箋が貼られている。たぶんこれは随分前に日記でも引用している。

 夕方に外を歩いていたらスーツ姿で自転車で多分カレンダーと思しきものを入れたノベルティ的な大きめの紙袋を前かごに置いた男性とすれ違って、彼はおそらく営業マンで、知らないけれど年末の挨拶回りをしているところだった。それを見てふと自分が会社員で営業をやっていた時分を思い出して、なんというか、「生存」と思った。かつて僕は仕事をとにかく我慢するものとしてやっていて、今僕は仕事を生存を懸けたこととしてやっているんだな、と思った。会社員のときは、営業成績がどれだけくだらないものでも(少なくとも短期的には)自分のもらう給料は変わらなくて自分の暮らしは一ミリも変わらなくて、決められた枠の中で働くことだけがやるべきことだと思っていたというかそういう感覚で働いていたというか目をつむって耳をふさいでやり過ごしていたのだけれど、今は当然、売り上げですべてが左右される暮らしをしているわけで、お客さんが一人増えればその分ぼくの暮らしはよくなるし一人減れば貧しくなる。仕事に対する感覚は本当にまったく違うんだよな、と思った。もちろん、もちろんこれは極めて短期的な話であって、会社員だってリストラ等の可能性はいつだってつきまとうわけだし、僕だって店を閉めることになったとしてもそれで死ぬというわけではまったくないのだけど。(阿久津隆『読書の日記』NUMABOOKS P.207-208)

 阿久津さんが比較的最近どこかでされていた、自分に正直に仕事をできている、といったような話と頭の中で被らせる。自分に正直に仕事をする。生存のための仕事、確かに、労働は生存するのに重要だけれども、ほんとうにそうか、と疑問を抱くような企業も仕事もこの世には無数にあって、でもそれがなんであれそれぞれ個々の人間が生存しようとしている、明日の生活を担保するためにお金を稼いでいることには変わりないから全部を否定はしないししたくもない、ままで、天井に向けて浮遊しつつ、我慢するものとしてやるよりは正直に生きていたくなるのは別段特別な感情ではない。
 ぱらぱらと捲っていると読みたくなって少し読んだ『読書の日記』の楽しさ。日記はどこから始めてもいいし、どこで閉じてもいい。
 そして落ち着いてきた頃に『沈むフランシス』の続きを読むとずんずんとのめりこんでいく。表紙が犬なのでフランシスとは犬なのかと安直に想像していた阿呆さは突き抜けたまんまでどこかに霧散した。盲目の御法川さんの“あなたとわたしはたぶん、遠い遠い親戚なのよ(松家仁之『沈むフランシス』新潮社 P.100)”という言葉が途方もなくも、不思議な親密さで迫ってきて強く惹かれて胸が大きく膨らみ、本を閉じた。止め処なくすいすいと進むことも良いけれど、どうにも立ち止まってしまう、立ち止まらざるを得ない瞬間に出会うと、もう少し生きていたいと思う。



七月三日(土)の沈没

 夕べから雨音が激しい中で『沈むフランシス』を読み切った。『泡』でも感じた松家仁之の文章に感じる好ましさがなんなのか考えていた。ひらがなと漢字のバランスが全体にまるい雰囲気を作り出しているのはある、のだけれどそんな表面的なことではなく。日常的な、時間の流れを描くのが、早すぎず遅すぎず、滞りなく流れていくのが気持ちがよい。『沈むフランシス』は季節と共に歩んでいく物語でもある。北海道での時間の経過、季節による風景の変化をつぶさに伝える。その時間の変化に合わせて、村に入ってきたばかりの物珍しい東京の女性への周囲の変化も、町のはずれ、川の近くに住む男性との関係性の深掘りも、進んでいく。季節は気が付けばいつの間にか次の段階へ進んでいるものだけれど、変化の境界も掬い取る。そうした大きな時間の流れに乗って、登場人物たちは生きている。そしていつか死ぬ。時間の流れる中で、生きている中で、誰か、なにかが死ぬ。御法川さんの台詞が概ね語ってくれている。

 ほんとうは誰でもただ流れてるだけでしょう。なにかに連れ去られるようにして、いつのまにかたどりついたころに、ひとは立っているの。風にはこばれる種と同じ。どこであっても旅先みたいなものなのよ。(松家仁之『沈むフランシス』新潮社 P.99)

 御法川さんがやっぱり好きで、後半に出た時もほっとした。
 文章に対する好ましさをうまく言葉にできない、他の作品も読みたい。

 夜、ベッドに入っても雨の音は鳴り止まなかった。雨はますます膨張し、駆けたまま留まることをしらず、やがてスマホからの避難警告を示す音で目が覚めた。窓を開けてみると、すぐそこが水面だった。どこかの川が氾濫したというレベルを越えて、町は水没していた。どこからか漏れている太陽の光は水の中から目覚めるはずもなく、遙か遠く地球の向こう側から顔を出そうとしていた。町をまるごと呑み込んだ水面は泥を含んで水面下もろくに見えないのに、太陽の光がちらついていると何故だかとてもきれいなように見えた。子供がおもちゃを浮かべて遊んでいるのを、母親が諫めていた。身体の沈んだ電柱のてっぺんに立った鳥がそれをぼんやりと眺めていた。水面はあっという間に下がり、今、太陽が強く照りつけ、変わらぬ町が広がっている。囀りは重なり、虫が鳴いている。夏の声がする。



七月四日(日)の水と油

『沈むフランシス』を読んで松家仁之への期待が高まり間違いなく期待を裏切らないと確信したので、外出の最大の目的は松家仁之の既刊を出来る限り揃えることだった。所有欲もあるが図書館には『沈むフランシス』しかなかったという切実な理由もある。とりあえずわかりやすそうなところからと各大手新刊書店の在庫状況をネットで検索したところ、電車も含めた足の届く近辺では置いていないところが多かったので古本も見てみる必要があるだろうと勇んで外出した。本屋は荷物が重くなるので最後に回すとして、打鍵や読書をするつもりでいたのでポメラと本を持って出る。選んだのは滝口悠生『茄子の輝き』と小川洋子『夜明けの縁をさ迷う人々』だったが、実際に読んだのは『茄子の輝き』となった。どこへ行っても湿気で空気がどんよりとしていて、梅雨が明けても多湿高温の日本ではこの湿気と完全におさらばできるわけでもないので辟易するが、店に入ると空調がほどよく効いていて快適。ほどほどに打鍵して、移動して、移動した先でおいしいサンドイッチを食べてコーヒーと共に読み始めた。
 滝口悠生は去年『高架線』を読んだきりで、他の小説も読みたいとは思っていたのだけれどなんとなくだらだらと間延びしてしまった。紫紺の皮にまばゆい光沢が印象的な表紙が平積みされていて目に入ったのは、『花束みたいな恋をした』でどうやら登場したらしくて本屋で特集が組まれていた時のことだ。映画は結局観に行かなかったし、本もその時買ったわけではなく、そもそも買ったのでもなく図書館で何を借りようか探している時に目に入って「今」と手が吸いこまれていったのだった。
 延々と読んでいたくなる文章だ。小さなことを細かく描写して、それが何かしらの明瞭な結果に行き着くわけではないのだけれど、些細な行動を文章で拡張する。街の様子、電車の路線も、こまやかに描く。作中では音楽のことが取り上げられるのだけれども、なんだか音楽をじっと聴いているように読んでいた。主人公の行動は一見するとかなり異端ではあってそれを指摘する人もいるのだけれど、それを顕著に馬鹿にするような人は出てこない。それはこの小説が一人称で、そしてその一人称である「私」が覚束ない足取りの、暢気で、自分の時間をゆっくりと歩く必要のある人で、強い言葉は多分記憶されていないからでもあるのかもしれない。ただそういった、全体が許容するような空気感は『高架線』でもじくじくと感じていたので、主人公がそうというよりは作家の意志のようなものだろうか。とにかくどこか嫌な思いをすることもなく、ただずっと読んでいたい穏やかな音楽の中にいた。福島と島根の原発を繋げた瞬間に、納得は強くなった。

 千絵ちゃんの頬や、アロハの袖から出る二の腕を見れば、そこには柔らかな表面の内にため込まれた水溶性の時間がある。(滝口悠生『茄子の輝き』新潮社 P.120)

 柔らかな表面の内にため込まれた水溶性の時間。最高だなあ、とそこで確実に一段上がって、気が付いたらコーヒーは無くなっていたし、本は終わっていた。松家仁之の本を買いたくて外に出たけれど滝口悠生の新刊の『長い一日』も買おうと思った。
 古本を確認しつつ大きめの新刊書店へはしごしたら松家仁之の既刊小説は一通り揃い、都会の有難さを噛み締めつつ、『長い一日』に留まらず思いがけず大量の本が鞄に入ることとなる。夕方になる頃には様々な幸福な疲労に湿気と気温のダブルパンチがクリーンヒットし、電車のやわらかな倚子に鞄を抱えて座り込むともう一歩も動けないような気分になった。周囲が入れ替わり立ち替わりしながら身体は運ばれていく。一〇冊はゆうに入った鞄にひきずられながらどうにか家に帰宅した。非水溶性の時間が家に流れていた。湿度が高いんだからむしろ空気は水を多く含んでいてそれは水溶性のようであったけれど、纏わり付く感覚は水というより油だった。人間が油で、湿気が高くて、水と油状態のような、なにを書いているのかだんだんとよくわからなくなりながら身体は身体として当然独立していて水に溶けるなんてことはなくますます死に近付いていく。でも本が生きているから文章を読むとひきずられるように起き上がる。なんとなく新刊情報を見ていたら八月頭に川上未映子の『夏物語』がおそらくこれは文庫本になるということでたいへん待ち望んでいた文庫化なので嬉しい。夏、だ!
 ポジティブにひきずられながら夜が通り過ぎてそしてまた朝が来た。雨が降っている。強い雨音や土砂に怯えて夜を過ごした人たちに少しでも早く穏やかさが戻ることを願っている。



七月五日(月)の革命

 畑仕事は朝の六時半に終わらせるものだ、それに言い返す気力もなかったのだけれども、暑いのなら暑くないうちに行けというのは間違いなくて、だんだんと真昼でなくとも湿度気温の重みは増している、であれば比較的楽な時間帯に行くべきだというのは至極真っ当だし、朝は野菜にとっても大事な時間帯であって、だから無意味な抵抗はせずにとりあえず朝一で出発してみることにした。頭痛が残っていたので簡単な朝ごはんののちに鎮痛剤を流し込んだ。曇った空はまだ太陽が昇りきっていなくてすこし暗いから、なんだか今すぐ雨でも降りそうだけれども天気予報としては午前中は降らないらしい。畑は雨が降っていたら手が出せない。
 移動中にスマホでちまちまと書いている。ちまちまと読んでいる人たちの日記に『長い一日』が積極的に出てくる。朝が早いと一日は長い。最近、一週間も一ヶ月も一年も短く感じられる。
 僅かしか残っていなかった交通ICカードをチャージして払って最終的な残高は一七九四円になり、一七九四年について考えた、江戸時代だ、そしてフランス革命だ。世界史に疎いのにフランス革命が反射的に出てきたはずがなく、一七九四年で検索したら出来事が一覧で出てきてその中に含まれていた。革命。二〇二一年のたとえば昨日からそして今日にかけて、東京都議選において特に革命らしいことは起きなかったけれども、あんまり極端な結果になって良いことに繋がった覚えはないので、順当というか、迷いが出ていた、でも希望が持てる。淡い希望って、大事だ。そうしている間に大谷選手が三一号ホームランを打った、松井選手に並ぶ日本人メジャーリーガーのシーズン記録、あと一本打ったら三二号で、越える。革命。ミャンマーにこそ軍事クーデターがひっくり返って民主政への革命が起きて欲しい、起きるはずだった、なぜなら選挙に勝った、でも選挙の結果は暴力的に破壊された。香港も弾圧された。革命。個人的人生の周囲に革命は起きない。朝早くから犬の散歩をして、ジョギングをして、出勤して、登校して、寝て、畑へ向かった。苗が伸び始めて間もない頃に強い雨が降って葉が傷んでしまった茄子が育ち、ついに収穫された。心配をはねのける、俺を誰だと思ってんだ、と言わんばかりの、それはまさに茄子の輝きだった! 紫の皮ではなく白い皮だけれども、たしかにみずみずしい光沢を放っている。革命!


『朝の記録二〇二一夏』A5二段組/128P/200円
 8/26文学フリマ大阪 A-11「hass books」にて頒布予定。
 上記内容以降、2021年8月31日まで収録。
 通販(下記リンク)では8/25 23:59までに予約していただいた分は200円+送料、8/26発送予定です。
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