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朝の記録 0219-0225

2月19日(金)のヘルシー自給自足

 翌朝、まだ夜が残っている。青白い光が澄み渡った空を薄らと侵食していく。おばあちゃんの足音は聞こえない。襖を開けていない、けれどもどこかで生まれている隙間から外の風が漂ってくる。お父さんとお母さんの寝息が耳の近くで聞こえる。ひなこは両親を起こさないように新潮に、少しも音を立てないように、といったように布団から出て、また襖を開けた。思わず目を細めるような光はまだどこにもなく、ほんのすこしの朝の光が細い線を部屋に描いて、そして音もなく閉じた。(どこかの汽水域 P46)

 この最後の襖を開けて閉じるそのときの描写がいいじゃないですかと自分で自分の文章を褒めていた。この短い部分に表記揺れが見受けられるのがとても残念というか推敲が不十分だったのが悲しみではあるのだけれどもそれでも、ほんのすこしの朝の光が細い線を部屋に描いて、そして音もなく閉じた、繊細な情景が浮かび上がり、情景が浮かぶ描写というのはつまり良いものだと思う。好きだ。自分の文章を素直に好きだと思えることは健康的だ。とてもヘルシーな自給自足。
 次に待っている「魚たちの呼吸」も独特の空気感、この文章、文体は私にとってあまりやったことがないタイプだったのだが書いているのが楽しかった。

 ミイロタテハは消えて、一青の手が同じ場所に寄せられて、河野はその指を迎え入れた。抵抗される可能性を一青もまた少しも考えていなかった。河野は本当は抵抗したかった。誰にも触れさせなかった場所にするりと一青の指が入り込んでくる。髪の毛で出来た珊瑚や藻の森を抜けて坂らがなめらかに泳いでくる。青と赤の強烈なコントラストは南国の魚のようで、一青に合わないと河野は思う。何故なら一青は一青なのだから。一青はずっと温度の低い場所で生きているからきっとこんなに指が冷たく感じられた。一青は耳の後ろでエラに触れた。河野の胸は裏側で竦む。やわらかな肌を撫でられて、その穴に爪が触れる。一青は拡げることも裂くこともせずにただ触れただけで、ここに河野の命が潜んでいるんだと漠然と理解した。(同上 P62-63)

 いいなあと私は自分を褒めたい。
 一番最初に初稿があがったのが「いつか声は波を渡る」で次に出来たのが「墨夏」だった、短編集を作るにあたりなにかもう一作くらいは欲しいと思った時に、この二作のラスト情景が似ているといえば似ているので(まったく空気は違うのだけれども)、そのときはこの短編集のテーマは「夜明け」にしようと思っていた。夜明けは私にとって大事な言葉で、作品を作っていくにあたって強くイメージしていることでもあるのだと思うし、私が好きな物語もまたどれだけ苦しくてもいつか夜明けがくるといったような最後の最後に少しでも光がそそがれるようなそういった流れが好きだから、夜明けにしようと思っていた。けれどもじゃあ何を書こうと思って書き出した「魚たちの呼吸」はなんというかまったく「夜明け」にはそぐわず、むしろ別の情景が本全体を形成していった。それが「汽水域」だった。三つの作品に共通して流れているのは太陽ではなく水に関する情景だった。作品集らしい連なりである。
「墨夏」は川沿いでの話が重要となり、「いつか声は波を渡る」は海へと近付いていく話だ。
 そして「魚たちの呼吸」では、河野という登場人物が主要となって、後半では海についての言及がある。「魚たちの呼吸」はそれ自体が全体の汽水域を成しているというイメージで世に送り出している、だから「魚たちの呼吸」は一番短いんだけれどもこの「どこかの汽水域」を完全に形作ったといっても過言ではなく、本全体の繋ぎ目としての役割もあるし、汽水域そのものでもある。他の作品はどういった作品集に入れたとしてもそれなりに独立した空気感を放つと思うのだけれど、「魚たちの呼吸」はこの位置にあること、この二作に挟まれていることがとても重要で、アルバムCDにのみ挿入されている曲のようだ。構成としての面白さがある。
 実験的な作品だったからどう受け入れられていくものなのか想像がつかなかったが、蓋を開けてみると何人か一番好きと言っていただけて嬉しい。実は奥の深い作品だと思っていて、裏話もあるからいつかそういう話もできたらいいのかもしれない。つまり「どこかの汽水域」は良い本だと思っていて、自分で良い本だと認めていられることって大事だ。
 そうして久しぶりにまともに自作品を昨日読んでみていた。楽しい夜だったけれども、精神的に非常に不安定になっておりゆらゆらとずっと不安が燻っている。だから夜は久しぶりにチャットに入ってみたりして友人となんでもない話とか創作の話とかそういったことをしていて繋ぎ止められた。今日は休日だから思いっきり休んで思いっきり読書をして、そして書かなければならない原稿の最終確認をしたりなどして、メールも送ったりして、なんとか生き抜きたい。寒くてかなわない。


2月20日(土)のもや

 一念発起して原稿を一から書き直そう(締め切り二十日)と思って一気に初稿を描き上げたら夜中の一時半になっていた。自分のスケジュール管理がなってなさすぎて悲しくなりながら遅れるかもしれませんというお詫びのメールをいれそのまま秒で寝たのが昨晩のことだった。そして今朝起きたら七時を過ぎていていや確かに夜更かししたのでその分起きられなさそうだとは思っていたけれどもほんとうに起きれなくてむしろ仕事に間に合う時間に起きて助かった、そしてとりあえず夕べ作って余らせていた味噌汁を流し込んで打鍵している。

 昨日は「千の扉/柴崎友香」を読み切り、夫婦の絶妙な距離感を描いている一方で、友人である直人の経緯があまりにも苦しかったので最後のあたりで崩れ落ちてしまった。うわもう、つら、やめてあげてくれ、つらい。
「千の扉」は要所要所でわかりあえなさが差し込まれており、そして同時に完全にわかりあうこともできないのだということを特に後半でまざまざと突きつけられた。もっと話したい、書きたいが、割と切実に時間がない。少しぱらぱらと読み返してから書きたいところでもあるがそういった時間もない。ので、また「千の扉」の話をしたい。

 それから昨日はふと思い立ってポケモンの映画を観に行った。職場の福利厚生をほとんど使わないでいたがもう二月も終わりになるのでいい加減使わなければということでもあり補助金を使って実質無料で観た。劇場版ポケットモンスターココは、実質私にとって劇場版ポケットモンスターハスボーだった。ハスボーとは、私の最推しのポケモンである。群れの中にいるうちの一匹として描かれていたので声もついていないのだが、小さいが故にいつも最前にいたので見つけやすかった。終始ハスボーが画面のどこかにいるのではないかと探した。これがもしも自宅のテレビだったら何十何百分の一になるので見つけるにも苦労したかもしれなくて、スクリーンで助かった。スクリーンにハスボーがいる! と最初に気付いた時にはもう心の中は大興奮してしまい、ずっと楽しかった。ただ、物語自体には考えさせられるものがあり、いい話だとは思うのだけれども平均的というか、これを言ったらただの悪口になりかねないのだけれども、全体にものすごく既視感を抱き、「これ、ポケモンでやる必要ある?」と思ってしまった、公式に。なんかポケモンを使って大人の描きたいものを作られたみたいな映画だな……と感じてしまったのは私が大人になったからなのだろうか。私はポケモンはもっとエキサイティングなポテンシャルがあると思う、それを脇に一度置いておいても色々と浅いと感じてしまい勿体なかった。神は細部に宿ると言うが、細部まで意識を行き届けてほしかったように感じる。ある程度の大人の事情やご都合主義には目を瞑っても、うーん。私が考えすぎなのかもしれない。でも万人に良いと言ってもらえる作品なんてこの世にはないし。ポケモンって難しいジャンルだったんだな、と二十本以上もポケモン映画観てて初めて痛烈に感じた。俯瞰。
 なのでこの話はもうちょっとしたい。日記ではなく別の枠でネタバレ込みで書きたい。そうこうしている間にいつのまにか字数が膨らんでしまいちょっとほんとうに時間がまずい。


2月21日(日)の大事なことたち

 二月十九日に放送された「高橋源一郎の飛ぶ教室」の序盤で、まだ無名だった頃の高橋源一郎が、詩人の吉本隆明に届けようと書いた小説をめぐっての当時について語っていた。聞き逃しで聞けると教えてもらってNHKラジオのアプリで聞いてみると、胸に迫るものがあった。詳しい話はラジオを聞いていただくのが一番だが、まとめると、当時三十歳の高橋源一郎が小説家を目指して文学賞に応募するようになるが落選が続き、自信を喪失する中、「どこかに誰か一人自分の書いた文章を読んで理解する人がいる」と考え、憧れである吉本隆明に宛てて書くように小説を書き、応募し、落選したものの、文芸誌「海燕」で吉本隆明が新しく始めた連載論評で取り上げられたという話だ。こうして書くだけでも涙が出そうになる。
 文章というのは、誰かに何か、伝えるためのもので、それは大衆の心を大きく動かすスピーチであることもあれば、他愛もない掃いて捨てられるようななんでもないこともあれば様々だけれど。
 今書いている文章は、誰かに宛てた文章で、明確にその「誰か」が明らかになっている文章だ。なんだかんだ十数年もウェブで小説を公開してきていて、「読まれないのが当たり前」というちょっと悲しい性根が形成されてしまって久しい。今では、それこそ世界のどこかには一人くらい自分の書いた文章を読んで理解してくれる人がいるということを信じていて、また「読まれないのが当たり前」精神は読んでくださる読者さんに対して失礼だということに気付いたので表立っては言わないように心がけているが、それでも心のどこかでずっとこの「読まれないのが当たり前」という、ある種のセーフティネットはずっとある。当たり前と思っていれば、実際に読まれなくてもまあ現実そういうものだよねと諦めることができるからである。でも、それはちゃんちゃらおかしい話で、「読まれないのが当たり前」ではなく「読んでもらえるよう・伝えられるように努力するのが当たり前」であり、読まれないということは様々な要因はあれど、まあそういうもんだよねと諦めていては文章がなっていないということに繋がる気がする。これは書きながらの自戒でもあるのだけれど。もちろん、書いている間はどうせ読まれないしとふてくされることは一切ない。誰しも心のどこかで読まれたい。読んでなんなら反応だって感想だってもらいたい。ただ、感想をもらいたいから書くのではなく、読まれたいから書くのでもなく、目の前にどうしても書きたいものがあるから書いている、という感覚に近くて、「読まれないのが当たり前」はできあがったその後の慰めみたいなものだ。
 思い返せば、私は文章を明確に「誰か」を意識しながら書いたことはほとんどない気がする。伝える、とは一体なんなのか、考える日々だ。
 一体誰に届いていくのかわからないまま。
 でももしかしたら誰かには届くかもしれないなと思う。
 高橋源一郎のエピソードは励ましにも聞こえて、まあそんな甘い世界ではないのだけれども、なんというか、頑張ろう、と思った。私は一体、誰に読んでもらいたいのだろうか。それを意識することは、また別の世界への広がりを見せるだろうか。
 ラジオ自体は穂村弘をゲストに迎えて、短歌というのは名前をつける行為なのでは、といった話題が面白い観点で、ずっと聞いていたかったけれどもあっという間に終わっていった。


 40過ぎて、というか30過ぎたあたりで気づくけど、若いころに読んできた本、映画、音楽、アート、いろんな場所で得た知識、経験があるおかげで助けられている。だから、若いうちはお金の貯金ではなくて、カルチャーの貯金をできるだけしたほうがいい。きっとそこで使ったお金は帰ってくる。(古本屋 百年 Twitter)

 このツイートが流れてきたのは昨日のことではなくて十九日のことだ。
 カルチャーの貯金をできるだけしたほうがいい、というその言葉が励ましになっていて、ずっとぐるぐると回っている。文化に対してお金を使うことを躊躇いたくないな、というのはずっと思っていて、私の場合は主に書籍に関して。でも、書籍に限った話ではなくて、もっと、もっといろんなことに触れたくて、それは単に気分が心地良くなる方向ばかりではなくて、真逆の方向にも進んでみたいし、斜め上、あるいは他の次元へ飛ぶように、触れていかないと、いつまでも枠は広がらないばかりだ。
 話は少し変わるのだけれども、先日Youtubeで、声優三ツ矢雄二が「ワールドトリガー」に出てくる小さな役柄の声優オーディションを行った様子を撮った番組を観た。参加したのはいずれも新人であり、内容は多岐に渡る。普通の面接でも見るような自己PR、複数人でのアドリブ演技や、状況に応じた「ありがとう」の演技分け、喜怒哀楽の演じ分けなどなど。的確な指摘をしていく三ツ矢さんに鳥肌が立ったり、ゲスト審査員で入った関さんのアドリブ演技やコメントもとても良かったのだけれども、全体に考えさせられたのは想像力だった。皆さん経験はまだまだということもあるけれども、演技をするということは、表面的なものではなく、どれだけ言葉や状況の裏にある深みへと潜っていけるかということが本当に大事なんだなというのが、声というただその一点でも伝わってきて面白かった。これから人生経験を積み重ねていって彼等が生き残っていけるかどうかは解らないけれど、演技の世界で生き残るということはどういうことなのか、片鱗を見せつけられたような番組だった。
 ただ、演技に限らない話だよね、想像力というのは、という。目の前にいる人への理解、自然、昨今の政治、世界情勢、あらゆる年代の人間が入り乱れているこの世界、知らないことも多くある、その知らないということをわかっていながら知らないままでいいやとあぐらをかいたりだって知らないもんと開き直ったりそうしたことはものすごく格好悪い。どれだけ関心を持ち、疑問を抱き、想像力を養えるのか、何事でもきっと大事なことだ。
 ブーメランが深々と突き刺さる。
 知らないことが多すぎて、いかに狭小な世界で生きてきたかを、ずっと感じている。田舎に住んでいた頃の都会との圧倒的カルチャー格差はもう仕方ないとはいえ、都会に出た大学生からはせめてもっといろんな文化に触れてこればよかったなあと思ったりもして、すごく遅いな~今更そんなことに気が付いたってな~と思ったりする。自分の枠の狭さ、想像力の足りなさ、語彙の足りなさ、からっぽさ……。
 でも過去を嘆いていてもしょうがない。それは放棄。
 いつかは田舎に帰りたいと思いながらも都会にいようと考えているのは、まだ生身の身体で学びたいこと、受け止めたいことが都会にあるという思いをぬぐいきれないからなのだと思う。就活時期に、地元にいる母校の先輩から「まだやりたいことが少しでもあるなら都会に残った方がいいと思う」と言われたことを今でも覚えている。金銭的にも社会的にもそれが許されるうちは(誰が、許し、許さないと判断するのだろう?)、満足するまでは(満足なんて、くるのか?)(諦め、ではないのか?)、少し足を伸ばしたら様々な刺激を受けられる場所で、簡単に電車に乗って遠くまで行ける場所で、カルチャーの貯金、粛々と続けて、知らないことがらを探究しよう。遅いことなんてないと。いつ死ぬかなんて、わからないけれど。それがきっといつかなにかに繋がっていく。そうして書いていたい。
「千の扉」の話をしようと思っていたけれども延長戦。


2月22日(月)の覚書はずいぶん長くなって

 昨日ふと気が付いたのだけれど、もうすぐこの「朝の記録」を書き続けてまるっと半年になるらしい。八月二十九日に書き始めたこの文章は、当初は三千字を目安に毎日書いていたが、途中からはそうした字数的な拘りもどうなんだろうというか結構毎回三千字読むのも大変かなあと思い字数制限を取っ払った。本当に短い時には千字もないし、長い時には七千字くらいあったりするし、そのあたりはまちまちなので最終的には何字くらいになっているのか想像できないが、ちりつもで三十万字くらいには余裕でなっているんじゃないかと思う。先日作った「どこかの汽水域」が全文で六万字くらいだったはずで、それでA6126Pとなった。単純に計算するとたとえば文庫本換算すると600Pくらいになる。笑った。
 そう、もともとはたまったら本にするつもりだったのである。そもそもは、昨年十一月に開催された東京文フリにそうして出すつもりだったのだが、文フリに関しては入金忘れで流れ、今度こそと思った京都文フリはコロナの影響で中止となった。世間がばたばたとしている間も淡々と飽きもせずに毎日書いていて、朝起きる時間はまちまちなのだけれども書くということだけは毎日なんだかんだ続いている。
 紙の本にしたいという思いは今もある。何しろ読み返しづらいのである。最初の頃、読み返しづらいので毎日印刷しては手帳に貼っていた時期があったが、そうなる気はしていたがあまりにも面倒臭いのでやめた。なので基本的には電子上での文章しかないということになり、電子書籍の欠点とも合致するのだけれどもふとしたときに読み返せない。そんなしょっちゅう読み返したくなるわけではないのだけれど、こういうなんとなく節目になると今まで何書いてきたかな、と見事に忘れているからぱらぱらとでも全体的に読みたくなる。
 それにしても本当に見事に忘れるものである。一体今まで何をしてきたのか、節目節目の大きな出来事や、たとえば何を読んだのか、といったことはぼんやりと記憶しているのだけれど、それがいつだったのか、どんな感情を抱いていたのか、そうした輪郭はぼやけている。それでも、完全に消えたわけではなく、きちんと保存されているのである。他愛もないことごとが宇宙のどこかに保存されていてほしいと言ったのは、岸本佐知子の「死ぬまでに行きたい海」だった。今のところ宇宙のどこか、地球のネットワーク上に保管されていていつでも見られる状態になっている。ネットワークというのは不思議だな、インターネットというのは、ワールドワイドウェブというのは。はっきりとした物理的な重みを持たないのに、目に見えるようだ。
 紙の本にすること自体はいいのだけれど、問題はそれが販売するほどのものかという問題だった。
 A6で600Pならば単純にA5で300Pとなり、なんのオプションもつけずに適当に紙を選択して5部とか10部くらいで見積もりを出してみたりなどした。
 金銭的価値は難しい。
 たとえばこの文章を書いているうちになにか大きな目標を達成したとか、大きな困難にぶつかったとか、そうした何かドラマ性があればエンタメの一種としても面白さがあるかもしれないが、基本的には温度低めのなんでもない、読書をしながら創作をしながら毎日楽しみながら迷いながら過ごしているそうした日常である。私にとってはなが~くなるかもしれない人生の一片なのでそれなりに価値がある、宇宙のどこかに保存されていてほしい記憶の欠片だけれども、他者から読まれて面白い読み物になっているかというとそれは疑問。
 延々と続きながら、なんとなく読んでいたら楽しい、たまになんかハッとする、と他者が思えるような文章になっていたらそれは十分で、それ以上は望んでいない。それ以上は、というが、それでほんとうに十分で、普通の文章であってもその「なんとなく」を掴めたらすごいことだ。
 あと、何を今更、と苦笑必至だが、日常的すぎて恥ずかしさは否めない。何も私という人間を知ってくれ!!という強い思いがあるわけではさらさらないのである。ならば何故日記を書いてそれをネット上にあげているのだろう。他の人がやっていて楽しそうだからだろうか。単純に文を書くのが楽しくて、どうせ書いたならば出しておこうというケチくさい考えが生まれているのだろうか。いや、どうせあげるものなので、どうせならさっき言ったみたいに「なんとなく読んでいたら楽しい」ものになっていたらいいと思ってはいる。私個人としては毎日書く、という習慣を作るためのものだった。それ自体は機能している。
 紙の本にはしたいし、もしかしたら世界のどこかには紙で読みたいという人もいるかもしれない。広くも狭いウェブの片隅の世界に生きているので、紙にして表に出すことでまた違う出会いがあるかもしれない、そんなことを考えたりもする。影でひっそりと書いているくらいがちょうどいいような気もする。ただ紙にしたいという思いを完全には捨てきれない。なにが自分にとってちょうどいいのか、なにが自分にとって心地良いのか、どういう形にするのが一番良いのか、きちんと考えたい。ああ、百円くらいのものでいい、さすがにそれは赤字すぎてやれない。
 ところで今日は、ずっと書いている小説がたぶん十二周年ということになる。めちゃめちゃ休んでいるのでおめでたいとあまり思えないのがつらいところである。書きたいなあ。忘れてしまう、その前に。


2月23日(火)の楽しいことをまんなかにしたいよね

 途中からは眠たい目をこすりながら、昨日の夜はなんだかずっとぺちゃくちゃと喋っていた。三十分くらいこっそりと配信をしてささやかに長編小説の十二年目の誕生日(来年は中学生だと思うと感慨深さを通り越して恐怖を覚える)を祝ったのち、夜はまた別で通話をしていると最終的に二時間半ほど続いていた。どれだけ喋りたいことがお互いぽんぽこ生まれてくるのだろうと思って笑いながらも布団に入ってからはおやすみ三秒で寝入っていった。一時半とか、そのくらいにはなっていた気がするけれど曖昧だ。
 似たもの同士なら話が合うとは限らない。対極とすら思う時でも楽しい時は楽しい。合う合わないって、一体どういう波長が響き合ったり響かなかったりしているのか。
 なんだか久しぶりに服の話とかしていたら服を買いたいような気分にも少しだけなりながら、寒いと服を買う気になれない、それは何を着たところで結局のところコートに覆われているせいか。寒くなくても、自粛ムードが漂ってからはずっと服を買う気にはなっていない。たまに必要だからと買ったけれども、それは洗剤が無くなったから買い足すのと同じ温度でなされる買い物で、身なりを整えて少しでも人間らしくあろうという意志のもとで行われた買い物だ。だけれども、ちょっとお気に入りの一張羅があると休日の華やかさが違う。自分の外見に気を遣ってあげるということで、自分の内面に気を遣うことにも少なからず繋がる時がある。私にとっては世間体を保つためという部分も大きい。だから私は髪を切りたい。
 電話をしながら、通勤中に思いついた企画を口にしてみるとそれはやっぱり世間的になんの意味があるかと問われるとなんの意味もないのだけれどそれでも私は楽しそう面白そうと思っていたことがやっぱりすごく楽しそう面白そうだということを自分勝手にわくわくして、通話しながら練ったりなどしていた。文章や創作を巡って楽しいことをするのは幸せだった。それが一体何に繋がっていくかとか、そんなことを考えると動けなくなってしまう時があって、そうではない、生産性も価値も考えない、楽しそうだからやってみたとかそうした踊るような原動力で生きることに憧れがある、それは甘いと言われるかもしれないけれども、少しでも心地良く生きることや好きでずっと続けていることをまんなかに置いて生活してみたいと考えた時に真っ先に切られたのが私の場合労働で、あと三週間ほどで実質的に退職とそういったこととなる。転職先のことを聞かれる、そのたびに笑いながらちょっと休んでから考えます、と言う、いいと思うよと言われるけれども実際のところどう思われてるかなんて解らない。ちょっと休む、避難なのか逃避なのか軌道修正なのか名前をどうつけたものかといった行動は、一体どこまで続いていくのだろう。どう続いていくのだろう。
「朝の記録」がもうすぐまるまる半年になって紙の本にするかどうか問題は、今のところは個人的な思い出として読み返すように一冊。一冊から作れる印刷所に頼んで作ろうかなと思っている。読書関連のところだけ抜粋するとかも考えたけれども、毎日書いているその途切れのない流動が日記の良さなのであって、抜粋は、その流れが少なからずやはり途切れてしまう。それは望むところではない。もしも何か本として世に出すのであれば、それは誰でも読めるようにしている「朝の記録」ではなくて別枠で、何か違う文章を寄せ集めたいような気が今はしている。小説だってまた現在進行形で書いているわけで書きたいものがまたずんずんと増えていって、どうして加算して考えてしまうのだろう。いつもそうして最終的にすべてできるわけでもない。でももしかしたら本にするために読み返していたらまた気が変わるかもしれない。少し風向きが変われば真逆であっても追い風を掴んで飛んでいくかもしれない。とりあえずやってみよう、というのが迷いそうになったときの合言葉だ。とりあえずやってみて、まず身体で味わってみる。それは少々乱暴かもしれないが、考えたところで考えた通りにはたいていならない。動くより先に考えるべきなのは、その物事がほんとうに重要であるものの時だ。極端なことをいえば、命を除けば大半のことがらはほんとうに重要ではない気がする。命は人生とも言い換えられる。それぞれ、人生があって、そこには自分しか責任を持てない。
 とにもかくにもなんだか面白いことが走り出しそうな気がしていて今日も暖かいそんな休日。先日ポケモンの映画を観たが、他にも観たい映画があって観に行こうかと考えている。まだ朝は始まったばかりで、始まったばかりの時間に起きているのはけっこう幸せなことだ。ちゃんと考えよう、何が自分にとってさいわいなのか。


2月24日(水)のヤクザと家族

「ヤクザと家族」を観に行った。主演が綾野剛なので安心しながら。彼のインスタで放映を知ったのだけれどももともとはとても興味があったというわけではなくて、良かった、涙した、といった評判を小耳に挟んだのでふと思い立ち。そうしたら途中からは涙も鼻水も止まらなくなり、マスクがこれほど鬱陶しいことはなく、いちいちマスクを外してはしずかに拭いてそれでも出てくるのでまた拭いて、繰り返していた。
 1999年、2005年、2019年、とそれぞれの出来事を描くこの映画は、題名にもある通り反社会勢力に焦点をあてた物語である。その間二十年、この短さの間にヤクザへの取り締まりは厳しくなり、大きな変化を見せる。ヤクザものなので当然ながら暴力描写はえげつないが、添えられた「The family」が語るように、この映画はヤクザの物語であると同時に家族の物語だった、むしろ家族というところが大きく印象に残った。
 煙草が常に漂うような煙臭い描写と、工場の煙突からもくもくと立ちのぼる巨大な煙の描写を何度も行きかえしたのが非常に印象的だった。それから空の色味がやわらかく、光の印象が優しかったこと。そうした風景の中で、ヤクザとして生きる主人公、山本賢治。美しい空や巨大な工場と共に描かれるカットは、なんだか地に這いつくばって生きている人間との差が浮かび上がるようで、遠い場所からは一人一人の姿なんて、生活なんて、見えないし、どうでもいいんだろうな、というそういったことを思った。ヤクザは人間扱いされない、足を洗っても五年はレッテルを貼られ続ける、ようやく手にしたと思った幸せも、ふとしたことで全てが水泡に帰す……。
 義理や人情は金には勝てないってことかね、といった台詞を柴咲組の頭が言った、それが印象的である。彼は基本的には温和な人間だが、ふとした時に見せる凄みが印象的で、舘ひろしが演じる。渋くて実に良かった。2019年には末期癌を患い、組を畳もうかとも思いながらもヤクザの道でしか生きていけない人たちを守るために頭を張り続けている。
 崩壊の一途を辿る2019年は、ネタバレになるので詳しくはいえないけれども多くの胸を引き裂かれるようなドラマがつぎ込まれる。クライマックスの綾野剛の表情、そして予想を遙かに超えて良かった人間味溢れる市原隼人、男たちの様子を見守り続けた寺島しのぶの強かさと温かさ、そして待ち受ける最後のシーンの切なく悲しい痛み……挙げればきりがないのだが、魂が込められたフィルムで良かったなあ……良かったなあ……と呻くようで、観たあとはのぼせて頭が痛くなってしまった。ヤクザものというかヒューマンドラマという印象が強い。この監督の作品は「新聞記者」も観たけれど、この渋さがとても良いなあと思う。年を経て渋みを堪能できるようになってきたのなら、嬉しいことだ。
 現実として、果たして自分が、近くに元ヤクザの知り合いがいたら。ヤクザだって人間だと解っていても……。そんなことも考えながら観ていた。暴力・流血シーンが嫌いでなければおすすめしたい。

 映画の他にはまた本屋に行き、何冊か買い込む。「水の聖歌隊」をおすすめされたので買おうかとも思ったが、他に読みたい・買いたい本があり今回は流す。ずっと読みたかった「パリの砂漠、東京の蜃気楼/金原ひとみ」の在庫があることがネットの検索でわかっていたためそれと、Twitterで見かけてちょっと読んですごく良さそうだった「いつかたこぶねになる日/小津夜景」、発売前から絶対読もうと決めていながら何度も本屋で見かけながらもなかなか手にとらずにいた「つくるをひらく/光嶋祐介」といったところ。そのうち必ず読むと決めている本は買ってしまう。
 それで帰って小説を読もうかエッセイを読もうか評論を読もうかとうろうろと読みながら閉じてを繰り返して、なんだかうまく頭に入らず本を読むタイミングではないのかもしれないし、「ヤクザと家族」で心がいっぱいになっているのかもしれなかった。ゆるりと延々と続いていく日々の中ならいい感じの気がしてちまちまと夜に読んでいる「プルーストを読む生活」を夕方に読んでみるとちょうどよい感じでじっと読んでいると外が暗くなっていった。
 昼ご飯が遅かったこともありあまりお腹がすいておらず、六時を回ってぼちぼち夕食かという時間でポメラを開き、書きかけている文章にとりかかる。そこでスイッチが入った。横では延々とアジカンが流れていて、文章を書く時は日本語歌詞が気になってしまうのだけれども、曲調だけを拾っていた。推敲を重ねていると画面の光にやられて目がしばしばして、ようやく顔を上げて時計を確認すると二十三時を過ぎていた。時間が圧縮されたかのようで目を瞬かせる。疲弊した身体を休ませるように風呂に浸かりながら「新潮」の日記特集の続きを読む、その流れが定番となっている。原稿はほとんど完成に近付いていた。このままの勢いで送ってもいいかもしれないとも考えたけれども、かなり削ったり加えたりしたのでもう一日置くことにした。もっと客観的な目で読みたい。小説も書きたい。


2月25日(木)の余裕がなさそう

 言葉って難しいな。
 ついつい強気の言葉を使ってしまったり断定的な文になって、言葉の圧が大きくなる。必要以上に大きくなったり強くなったり、そうしたことはあまり良くない。特にネットを介した匿名でのやりとりというのは、言葉がすべて、なところがある。面と向かってだと伝わるジェスチャーや表情や声のトーンは排除され、そこには言葉だけが存在する。削ぎ落とされた場所だからこそ誠実に伝わることもあるだろうし、足りないこともあるだろう。文しかない、そうであれば、余計に言葉を尽くすこと、伝えようとする意志を容易に捨てたくはないし、捨ててはいけないよな、と思う。私は言葉だけの方が大切なことをきちんと大切なまま、ごまかさずに伝えられように思うのだけれど、かといってじゃあ声での、身体をつかったコミュニケーションが雑かというとそういう話でもなく、何を手段として用いていたとしても、相手への思いやりとか自分の伝えるべきメッセージのことをぼやかしたり思わせぶりのように匂わせたりしていると思わぬ方向に話が転がっていくかもしれない。それは望むところではない。真摯でいたい。

 退職後の保険や年金について真面目に調べてみるといかに自分が世を知らないか、世どころか自分の収入の詳細についても知らないかを思い知る。最終的に引かれていった税金についてよくわかっていないままだった。しかしそれにしたってものすごい、ものすごい額だなと思って、これに加えて普段買い物をするにあたって消費税やらなんやらがついていくわけで、生きているだけでお金は次々と徴収されていって、そのおかげで世間は成り立っていて、弱い人を助けるために使われたりする。皆がみんな完璧に楽しく生きていくことなんて無理だけれども、弱きを助けることは大事で、でも、この税のいくらかが何に使われているかというともしかしたら開催されるかもわからない五輪の源になっているかもしれないし、あまりにも莫大すぎないかというような予算編成をされたGoToに使われるかもしれない、国会中に寝ている議員の財になっているかもしれない、コロナ対策を差し置いて。そんなことを考えるとなんか嫌になる時がある。でも税収による公的事業の恩恵は普段確実に受けていて、それはたぶん何も起きない平和であるということがその証明であるはずであった。でも、何も起きてないなんてこと、ない。翻弄されまくっている。複雑だ。
 せめて自分とその周囲だけでも、大きいものばかりを見てこまかなところを見過ごさないようにしたい。
 読書がどうも進まない。かなしい。今日は牧場物語の新作が発売されるらしくて昨日ぼんやりと情報を見ていたらなんだか楽しそうでとてもやりたくなってしまった。いいなあ。







たいへん喜びます!本を読んで文にします。