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私の推理小説遍歴【エッセイ】

 小学生のときに学校の図書室に揃っていたポプラ社の『少年探偵団』シリーズから、推理物を読む喜びを知った人は多いと思う。おそらく、私もそうだった。おそらく、と書いたのは、シリーズ全作品を読破したわけではないし、だいぶ記憶も曖昧になっているからだが、明智小五郎、少年探偵団の小林君、怪人二十面相は、少年時代の私の心に原体験として焼き付いている。ある程度の年齢で推理小説をがつがつと読んできた人は、全員、この江戸川乱歩のジュブナイル作品を通過しているのではないだろうか。

 同じ頃、あかね書房から「推理・探偵傑作シリーズ」というものが刊行されていていた。私はこのシリーズで、海外の推理小説を初めて体験した。もちろん、子供向けにリライトされたものであるが、今日でも古典的名作とされる作品が揃っていた。最初に読んだのはアガサ・クリスティー『ABC怪事件』。一番印象に残っているのがウィリアム・アイリッシュの『恐怖の黒いカーテン』『あかつきの追跡』といった、サスペンスタッチの物語だった。タイトルに微妙な変更はあるものの、原作が何であるかは予想できると思う。エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』、エドガー・アラン・ポオ『モルグ街の怪事件』、ダシール・ハメット『マルタの鷹』、ガストン・ルルー『黄色い部屋の秘密』、はこのシリーズで読んだ。それ以降、私は読む本を選ぶときは推理小説を追いかけるようになっていた。


 中学生になって、私は同じクラスのT君と出会う。彼は十三歳にして、すでに横溝正史をたくさん読んでいた。しかも、角川文庫で。私は衝撃を受けた。

 どういうことかというと、彼は大人向けの小説を読んでいたということなのだ。先月まで小学生だった私は、読む本といえば、文章が読みやすく書かれ、活字も大きく、ところどころに挿し絵の入った、学校の図書室で借りられる単行本だった。けれども同級生であるT君は、活字が小さく、難しい漢字の多い、振り仮名もほとんどないような、大人が読むために作られた文庫本を、これまでに何冊も読んでいるというのだ。そういう同い年の人に私は初めて出会った。世の中が変わるほどの驚きだった。

 さっそく町の本屋に出掛けた私は、一人で文庫本のコーナーに足を踏み入れた。今まで子供が入ってはいけない場所だと思い込んでいただけに、立ち読みをしている大人たちに混じって文庫本を物色する行為は、背伸びをしているようでドキドキした。しかも、私が狙うのは角川文庫の横溝正史である。黒い背表紙に緑色のタイトルがずらりと並ぶ一画は、私には宝の山に見えたと同時に、女性の裸の絵が目に飛び込んでくる、たいへん危険な区域でもあった。一冊一冊、丹念に表紙を眺め、文庫カバーの見返しに折り込まれたそでの部分を確かめ、そこに印刷された本編のあらすじや紹介文を、舌なめずりをするように読んでいくのだが、横溝作品の表紙は不気味で恐ろしい絵柄が多いうえに、女性の乳房が露出した状態で描かれていることも珍しくない。私は周囲の大人にそれを見つかるのが恥ずかしかった。「子供のくせにもう裸に興味があるのか」「意外とエッチなのね」「色気付くのはまだ早いぞ若造」などと誰も思っていないのにそう思われているような気がして、そういう危険な表紙のときは中味も見ないで素早く棚に戻した。その日、私が選んだのは横溝正史の長編『女王蜂』だった。人面蝙蝠を頭に乗せた美女の顔が表紙絵である。これが、自分のお小遣いで初めて買った文庫本となった。


 中学時代は面白い本や作家を紹介してくれる個性的な同級生が多かった。一学年三百人以上、全学年合わせて千人超の在校生を抱えた大きな学校だったからだろう。その中の一人、同じクラスのH君は私に筒井康隆を教えてくれた恩人だが、手塚治虫と藤子不二雄を崇拝する漫画家志望であり、推理小説を数多く読んでいる読書家でもあった。彼とは合作で小説を一緒に書いたことがある。横溝正史の『八つ墓村』をヒントに、洞窟に入った男がギャーッと謎の叫び声を残して突然物語が終わる『悪魔の洞穴』というショートショートを大学ノートに書いたら、それを読んでくれたH君が、短い続きを書いてくれたのだ。そこから彼と私のリレー小説が始まった。スリラー小説が展開していつの間にか推理小説になり、殺人事件が起きて名探偵が登場した。探偵の名前は巣入馬志(すいりうまし)。H君が名付けたものだ。奇しくも二人の本名に共通する一文字が探偵の名前に使用されていた。今考えると彼の粋な計らいだったのかも知れない。リレー小説は完結したが、どんなストーリーかは忘れてしまった。ときどき、もの凄く上手な挿し絵を彼が入れてくれるので、ノートが返ってくることが楽しみだった。


 筒井康隆、星新一、眉村卓らのSF小説に傾倒しつつも、推理小説は読み続けていた。高校時代は赤川次郎がブームになっていて、書店に行けば棚は赤川次郎で溢れるほどだった。当然、私も読んだ。人気シリーズがたくさんある中で、私のお気に入りは大貫警部が活躍する四文字熟語シリーズだった。デリカシーに欠ける主人公に魅力があり、推理小説を読みながら何度も声を出して笑ったのはこれが初めてだった。

 わずかな描写だけで性格や特徴を伝える巧みな人物造形、テンポ良く進む会話、スムーズな場面転換、興味を惹くように物語を組み立てる構成の妙。赤川次郎の小説が多くの人に読まれたのは、たくさんのテクニックに支えられたあの驚くべきリーダビリティーの高さにあるのは間違いなく、それによって、これまで読書を苦手としていた多くの人に、一冊の本を読み切る快感というものを与えることになった功績は称えられるべきものだと私は思う。膨大な赤川次郎の作品群からすれば、私が読んだのはわずかな数だが、『マリオネットの罠』『裁きの終わった日』『女社長に乾杯!』は、今でもすぐにタイトルが思い浮かぶほど、強く印象に残っている。


 十八歳以降、私は周囲の影響で、純文学に魅せられるようになった。読書の幅が広がり、結果的にその後何年も推理小説から遠ざかることになった。


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 ある年、私の身内で唯一の読書家である叔母から、一冊の文庫本を頂いた。島田荘司の『御手洗潔の挨拶』という推理物の短編集である。聞いた覚えのある作家だった。御手洗潔(みたらいきよし)とは変わった読み方だが、それが探偵の名前であることも知っていた。(多分、『ダ・ヴィンチ』などの雑誌で知ったのだと思う)

 その短編集に収録された『疾走する死者』というのが面白そうだったので、試しに読んでみた。読み終えてから、私の体に懐かしい興奮が蘇った。優れた推理小説を読んだときの、常識をひっくり返されたような感覚、見事に騙された際の爽快感、そして何よりも、強烈な個性を放ち、電光石火の如く事件を鮮やかに解決する御手洗潔という人物に、私はすっかり心を奪われてしまった。私の中で御手洗潔ブームが始まったのだ。

 すぐにデビュー作の『占星術殺人事件』を読んだ。だが、これほど冒頭から手こずった小説もなかった。延々と続く読みにくい「手記」。読み飛ばしたくなるのを我慢してなんとか手記を読み終えると、御手洗潔とその友人石岡の会話場面が始まるのだが、そこからこの小説は、信じられないくらいに面白くなっていくのだ。四十年以上も未解決の、これ以上ないと思うくらいの不可能犯罪が、最後は本当に解明されていくことの驚きは、私がこれまで読んできた推理小説の中でも群を抜いていた。

 それからは、『斜め屋敷の犯罪』『異邦の騎士』『暗闇坂の人喰いの木』『水晶のピラミッド』『眩暈』『アトポス』と、巨大な長編作を立て続けに読んだ。島田荘司が仕掛けるのは、いくつもの伝説や事象を導入して組み上げた厚みのある物語と、そこに違和感なく組み込まれる3Dという表現が当て嵌まりそうな大掛かりなトリックである。事件は不可思議で難解なものばかりだが、読者の裏をかいて、いち早く事件の真相に辿り着いている御手洗潔のキレッキレの頭脳に、私は熱狂した。

 私は〈三人目の名探偵〉ということについて考えたことがある。日本のミステリー史上、代表的な名探偵を三人あげよ、と言われたら、人気、知名度、分野への貢献度、映画やドラマが制作された作品数などからみても、明智小五郎と金田一耕助の両名がマストなのはまず間違いないだろう。では、三人目は? と訊かれると、多くの意見に分かれる気がするのだ。そこには皆それぞれ自分が贔屓にしている「名探偵」の名前を入れたいと思うはずである。そのように考えたとき、私が三人目として真っ先に浮かぶのは、やはり「御手洗潔」の名前なのだ。


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 私が「本格」「新本格」という言葉をよく耳にするようになったのはこの頃である。しばらくミステリーから遠ざかっている間、次々と新人の作家が世に出て、どんどん実績を積み、新感覚のミステリーが創作されていた。「館シリーズ」と呼ばれる綾辻行人の著作も自然と目に入るようになり、私はその中の一作、彼のデビュー作でもある『十角館の殺人』を読んでみた。びっくりした。犯人が判明するシーンで私はあっと声をあげた。こんなトリックが世の中にあるのかと、心の底から驚愕した。

 綾辻作品に心をつかまれた私は、刊行順に『水車館の殺人』『迷路館の殺人』『人形館の殺人』『時計館の殺人』『黒猫館の殺人』と読んでいった。文庫本を開いたとき、事件の舞台となる建築の平面図を見ることが、これほどワクワクするシリーズも他にはないように思う。考えてみれば「館」というのもひとつの制約であろう。その中で繰り出される作者のアイディアやトリックには、ミステリーの枠を広げるような新しさや工夫があり、読者を喜ばせようというサービス精神が隅々まで行き渡っていた。何よりもこのシリーズで重要なのは、建物の構造と、視点を持つ人物の現在地と進む方向を正確に伝える、描写力だと思う。私はこのシリーズを読んでいて、一度も「館」で迷子にさせられたことはない。何気に凄いことではないだろうか。


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 ミステリーのマイブームは、いつもゆっくりと収束していき、歳月を置いて、また突如始まるようである。

 森博嗣の『すべてがFになる』は、その評判の高さから至るところで名前を目にする機会が多く、前から気になるタイトルのミステリーだった。とにかく「F」が何のことだか知りたくてたまらなかった私は、講談社ノベルス版を購入したが、しばらく積んだままにしているうちに講談社文庫から森博嗣の作品が刊行されるようになってしまった。出遅れたことを反省しつつ読み始めたのだが、噂に違わず驚きの内容とトリックだった。

「理系ミステリ」と呼ばれているように、森博嗣の作品は、主に工学系の大学や研究室などが舞台になることが多く、そのため、小説内でコンピュータや科学的な用語が頻繁に使用されるが、かといって専門的すぎるわけでもなく、無知で無教養な私でも、文脈から十分にイメージができるものだった。ある意味、非常に親切に設計された文章だと感じた。デビュー作から登場している主人公、犀川創平と西之園萌絵という助教授と学生の師弟コンビは、そのまま“探偵と助手”という古典的な役割を演じ、ミステリーの安定した楽しみ方を供給してくれるが、シリーズを重ねるにつれて、二人のもどかしくてやきもきするロマンスの要素も(いい意味で)前面に出てくる。読者は、本格的な理系推理を堪能すると同時に、少女漫画テイストのラブロマンスをも味わえることになり、その二つを楽しむことが、犀川と西之園の活躍(S&Mシリーズ)を追いかけるファンの醍醐味となっている。私はシリーズ四巻目の『詩的私的ジャック』の文庫が新刊で発売される頃にようやく読むのに追い付いたのだが、それ以降も、毎度、文庫の発売日が待ち遠しかった。五作目『封印再度』で、二人の仲が大きく跳ねた印象を持ったのを覚えている。実を言うと、シリーズ最終刊『有限と微笑のパン』は、購入したままもったいなくて読んでいない。綾野剛・武井咲主演のドラマも、その回の録画分だけは未視聴なのだ。


 さて、長々とここまで書いてきたが、これでも短くまとめようと端折った部分が多くある。紹介できなかった本も作家もある。とはいえ、がちのミステリーファンからすれば、私など推理小説を読んだうちに入らないほど読書量は少ないはずである。その通りだと思う。大きな顔をして語る事柄など何一つない。私にあるのは、子供の頃から楽しませてくれたミステリー小説への感謝だけである。

 殺人とは、物騒なものだ。住んでいる地域で実際に殺人事件があったと聞くと、怖くて震えてしまう。けれども、本の中では違う。人間は、殺人事件を娯楽に変えて楽しむことができる。これは、恐怖を克服したということではまったくない。共感能力が麻痺したということでもない。フィクションという約束事を理解したうえで、殺人という決定的な愚かしい行為から、人間は人間を知るのである。少なくとも、私はミステリーからそのことを学んでいる。

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