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クレアの前の前の前の彼

短編小説

◇◇◇


(問題はない。何も問題はないのだが……)

 エスカレーターの前方を見上げていたザネリは、顎に手を当てて俯き、とっさに思案のポーズを取った。上昇するエスカレーターは、階下のフロアからゆっくりと離れて、狭いチューブの中を進んでいるかのようだった。ザネリの隣にはクレアがいた。彼女はたった今購入したオーダーメイドのピローを、紙袋ごと抱きかかえてニヤニヤと笑っている。

 確認のためと思い、もう一度ザネリは顔を上げてみる。視線は、上りエスカレーターの、七、八段ほど前に立っているひとりの若い女性に向けたものだ。すらりとした形のいい脚が目に入る。タイツもストッキングも穿いていない生足だ。オレンジ色のコーデュロイスカートの丈が極端に短いのも、ついさっき確認した通りだ。短いだけなら、何も問題はない。

 しかし、前方にいる女性の、わずかに広げた脚の間からそのスカートの中が見えているのは由々しき事態ではないだろうか。ヒップを包んでいる下穿きが見えてしまっている。コーデュロイの生地とは明らかに違う水色の布地に覆われた若い女性の深奥部が、ダイレクトに目に飛び込んでくるのだ。

 ザネリは再び視線を落として俯き、顎に手を当てた。他人からスカートの中を覗かれる状況を、人間の女性たちは嫌う。それがわかっているので、ザネリは普段から視線の置き場所にはよくよく注意している。長い時間凝視するなどもってのほかだ。これは、人間社会に馴染むためのマナーでもある。であるならば、前方で下穿きが見えているミニスカートの女性を、自分はどう受け止めればいいのだろう。下着など他人に見られても構わない、見せても良い、と考えているのか。それとも、エスカレーターの角度とスカート丈の短さとそれを下から見上げている自分の視点の高さという三点による奇跡の組み合わせがもたらしたこれはご褒美なのか。ザネリは、スカートの中を見たいと思って見たのではなく、極めて特殊な条件下で見せられたのだ、という結論に落ち着いた。これは不可抗力だ。自分は人間社会の普遍的なエチケットを決して破ってはいない。

 ザネリは、隣に並ぶクレアの様子をちらりと窺った。上から下までモノトーンコーデの彼女は、抱えている大きな袋を上から覗き込むようにして、ショップで配布された安眠グッズのパンフレットを眺めてニヤニヤしている。よほど新品の枕が嬉しいのだろう。白昼の快眠は、我々にとっては永遠の若さを保持するための慣習であり重要なメソッドでもある。同じ吸血種族であるクレアの容姿が、今後も若々しいままに維持されることをザネリは本心から願っている。だが、今はそれよりも前方に立っている若い女性のことだ。水色の下穿きに、刺繍かレースの装飾が施されているように見えたのだが……見間違いだろうか。どんな意匠だったかも気になる。もう一度確かめねばなるまい。

 ザネリは再び顔を上げて、スカートの奥に潜む柔らかそうな水色の布地に目の焦点を合わせた。

「ちょい、ちょい」

 すぐ耳元で鋭く咎めるような声が聞こえた。

「さっきからチラチラ見てるよね。これで三回目だぞっ」

 強い力で耳朶を下に引っ張られて、ザネリは悲鳴を上げそうになる。続いてドスの効いたクレアの低い囁き声が耳元から流し込まれて、心臓が凍りついた。

「わたしの横で、みっともない真似しないでくれる。わかった? わかったのなら返事しろ」
「……っあ、……っあ、……はっ」

 万力で締め付けたかのような怪力が、ザネリの耳朶を扁平に圧縮している。もはや声にならない声を出すのが精一杯だった。千切れる、と思った瞬間、怪力は解かれ、ザネリは[óu]と発音した口の形のまま、両手で左耳を押さえて痛みをこらえた。

 エスカレーターは上の階に到着し、先に降りたミニスカートの女性が今頃になって尻のあたりを手でサッと撫で下ろし、裾の乱れを気にする仕草をしながら売り場の通路を歩き去っていった。耳を押さえてそれを見送っていたザネリは、消え入りそうな声で「気にするなら……もっと早くから気にしておいてくれよ……」と呟いた。まだ左耳はじんじんしていた。

 ザネリたちが都内の百貨店に足を向けるのは、西の空に太陽が落ちたあと、閉店のおよそ一時間前に限られている。

 ここにある寝具売り場には先週も二人で訪れていた。クレアが前々から欲しがっていた高価な枕を注文するため、フィッティングの予約を入れておいたのだ。ザネリは付き添いで来ていただけだったが、クレアの生誕日が近いこともあり、「友人のぼくからお祝いということでプレゼントさせてほしい」と伝えた。それを聞いたクレアの喜びようはたいへんなものだった。店内で子鹿のように飛び跳ねたかと思うと、過度の興奮のためか瞳が真紅の色に変わり、ほんの一瞬だがコウモリに化身して売り場を旋回した。接客をしてくれたピローフィッターの紳士が、ちょうど背中を向けてタブレットにデータを入力している最中だったからよかったものの、一つ間違えば自分たちの正体に気付かれてしまうところだった。ザネリは冷や汗をかいた。

 そんなことが先週にあって、そのときはザネリがクレアにきつく注意を与えたのだ。「はしゃぐのはいいが、場をわきまえろ」とか「有頂天になって飛ぶやつがあるか」とか。クレアは自分が叱られるとそのことを根に持つタイプだ。彼女の性分をよく知っているザネリは、今、こうしてスカートの中を覗いたかどで自分が断罪されようとしているのは、先週の仕返しに違いないと思った。

「ちょっときて」

 クレアに腕をつかまれて、ザネリは高級文具が置いてあるフロアの通路を、つんのめりながら通り抜けた。端から見れば四十代とおぼしき背の高い男性が、二十代の華奢な女性から力任せに引き摺られている構図だ。途中、何人かの客に奇異な目で見られたが、それも当然だろうとザネリは思う。二人とも黒が主体のコーデで身を包んでおり、そんな外国人の二人連れはただでさえ目に留まりやすいからだ。

 クレアに連れて行かれた先は、人があまり立ち寄らない階段付近のベンチだった。背もたれがなく、座面が広く造られていた。そばに別館への連絡通路が見えているが、往来する客の目にここのベンチは死角に入るようだ。人目のつかないいい場所を選んだものだと感心しつつも、このあと、クレアからこんこんと説教を聞かされるかと思うと、ザネリは憂鬱で仕方がなかった。

「反省してもらうからね」

 ベンチにへたり込んで腕をさすっていたザネリの前で、早速、右手を腰に当てて立っているクレアが居丈高に凄んでみせた。もう片方の手には、さっき受け取ったピローの紙袋を提げている。ザネリはそんなクレアを睨み返し、呆れた声で言った。

「先週の仕返しのつもりか」
「何のことよ」
「言っておくが、ぼくには反省することなんて一つもないぞ」

 女性の下着に気を取られた失態を素直に認めて謝罪のひと言を示せば、この場が収まることはザネリもわかっている。だが、何となく腑に落ちないものがあった。覗こうと思って見たわけではないという弁明の気持ちがザネリにはあり、偶然見えたに過ぎないものにまで反省を強いられるのは納得できなかった。何より鋼鉄並みの握力を持つクレアにつかまれた腕が痛くて、このまま素直に謝ってたまるか、という気持ちがザネリの胸の内にふつふつと湧き起こっていた。

「わたしが気付かないとでも思った? 下着を覗いていたよね、三回も。恥ずかしいったらなかったわ」

 クレアが顎をつんと上げて見下したような眼差しを作り、右手の指を三本立てて前に突き出した。それに対して、ザネリも言葉で抵抗する。

「待て。それに気付いたということは、君もスカートの中を見ていたんじゃないか。見たから下着だとわかったんだろう? 君も同罪だ。ぼくだけ責められるのはおかしい」
「わたしは女子だからいいの。中年のおじさんに三回もチラチラ覗かれたあの女の子の気持ちを考えてみなさいよ。気持ち悪いでしょう」
「女性同士だから覗きが許されるということはないぞ。仮にぼくだったら、自分のズボンが破けてお尻が見えていたとして、それを同性のおじさんにじっと見られたら嫌だよ」
「そんなの屁理屈だわ」
「それにだな、あれは特殊な状況下で起きた偶然の出来事なんだ。覗いたんじゃない。目に入ったんだ。不可抗力なんだよ」

 クレアがふんっと鼻を鳴らして、三本指を立てた手をさらにザネリの顔面近くにかざした。

「その場で三回も覗いたくせに、不可抗力とはお笑いぐさね。わたしはしっかり数えていたわ。あなたが顔を上げたり下げたりしてるのを」
「……一回だ」
「何?」
「それはぼくの長い瞬きだ。だから見たのは一回だけだ」

 苦しい言い逃れだとザネリもわかっている。だが、今ここでクレアに口で負けたくはなかった。

「反省する気がないみたいね」
「一点の瑕疵もぼくにはないからね」
「ザネリ、さすがにそれは言い過ぎだと思うわ。一緒にいたわたしに、恥ずかしい思いをさせた自覚はないの?」

 急にクレアが、自分の顔を右手で覆い、鼻をぐすんぐすんと鳴らして肩を小刻みに震わせた。ザネリはそれを見て、ごめんと謝りそうになったが、すぐに思い留まった。指の隙間からこっそりとこちらを覗いている彼女の目に気付いて、嘘泣きだとわかったからだ。

 リアクションのないザネリを見て諦めたのか、クレアがあっさりと泣くのをやめ、素の表情に戻って訊ねた。

「わたしさ、前から疑問だったんだけど、どうして世の男どもって、女の子のパンツを見て喜ぶの? 何が楽しいのかわからないよ。ただの布だよ?」
「……ただの布なわけないだろう」
「布じゃん。布だよ。ただの布じゃないっていうなら、何なの」
「クレア、君は知らないのか? 男は関心のあるものにはイマジネーションが発動するようにできているんだ」
「だから?」
「ついでに大概の男はスケベにもできている」
「何が言いたいの」
「つまり、男は女性の下着を目にしながら、頭の中ではその向こう側にある桃源の世界を幻視しているんだよ、一瞬のうちにね。そのイマジネーションは、ただの布では発動しない。特定の意味が付与された布、普段は人の目に隠されている布であることが重要なんだ」
「それが男どもは楽しいわけね。変態」
「待て、クレア、これは人間の男の場合だ。誤解するな、ぼくは違う……」
「どスケベ」

 クレアは口を横に広げて、いーっ、と歯を見せたが、そのあと、打って変わってにこやかな表情になり、座面の広いベンチにへたり込むように座っていたザネリの横に腰をかけてきた。そして、すぐ間近で黒いタイツに包まれた形のいい脚をひたりと組んでみせる。

「ふーん。人間の男の場合? 今、そう言ったわね……」

 クレアは宙に浮かせた黒いヒールのつま先をくるくると回した。ザネリは、にわかに漂ってきたクレアからのセクシーな波動に警戒した。

「じゃあザネリ、人間の男に詳しいあなたに訊くけど……わたしはね、女の子の下着が見えているのに気付いたら、そのあとは目を逸らして、見ないのが最低限のマナーだと思うのよ。男だったらね」
「そうだね。……そのマナーは、ぼくも知ってるよ」

 ザネリには、目の前でくるくると動いているヒールのつま先がだんだんと凶器に見えてきた。

「でも男の人って、何度も見たがるでしょう。それはやっぱり……スケベだから?」
「……いや、そうとは限らないよクレア。ぼくはね……ぼくは、これまで人間の男を観察してきて気付いたことがあるんだ」

 ヒールを履いている足が、今度は振り子のように前後に揺れ始めた。気付けばザネリの片腕は、クレアが絡めてきた腕によってがっちりと固められていた。

「何に気付いたのかしら。わたしにも教えてくれる?」
「だから……つまり……女性の衣服からチラリと見えている下着は、男にとっては猫じゃらしのようなものなんだ」

 ヒールの動きがぴたりと止まった。

「よくわからないわ……。もう少し、詳しく話して」
「……ぼくは昔、ペットの写真を撮るスタジオで撮影助手をしていたことがあるんだが……ああクレア、近いよ、こんなのは友達の距離じゃないよ……」

 蠱惑的な動きをする足に気を取られている間、すでにクレアの手はザネリの胸元に伸びていて、シャツのボタンを、一つ、二つと外し始めていた。

「カメラマンの助手? あなた……いろんなことをやってたのね。初めて聞いたわ……それで?」
「……元気盛りの猫は、棒の先端にフサフサしたものが付いているあの猫じゃらしを見せると、物陰からチラリとかざしただけで喜んで飛びかかってくる……あんな感じでさ、女性の胸元やスカートの奥にチラリと見えている下着を、男は目敏く見つけてしまうんだ。スケベとか関係なく、本能でロックオンしてしまうんだよ……っあ」

 ボタンを外されたザネリのはだけた胸の上を、ブラックのネイルが施されたクレアの細い指が這い進み、左側の大胸筋の下部に潜んでいた乳首を探り当てていた。

「……あなたはどうなの、ザネリ。さっきのエスカレーターでロックオンしてたんでしょう? 正直に言ってみて。何回ロックオンしたの……」
「っあ……っすは……三回」

 指先で乳輪をスワイプされ、乳首をタップされる攻めを受けていたザネリがそう告げた直後、クレアの太腿が顔面と胸部の二箇所に落ちてきて、あれよあれよという間に絡め取られていた腕が内側を上に向けて引き伸ばされた。完璧な腕ひしぎ十字固めを決められて、ザネリはベンチの上で苦悶の表情を浮かべる以外に為す術がなかった。

「ようやく認めたわね。ごめんなさいは?」

 クレアが力を解くまで、ザネリは無限にごめんなさいを言い続けた。

◇◇

 ザネリは、先刻通り過ぎた高級文具がある通路に戻り、万年筆のショップで本来の目的だったロイヤルブルーのインクを購入した。クレアも一緒に付いて来ていたが、血の色にそっくりな赤のインクボトルをうっとりとした顔で眺めていたので、ザネリは彼女の腕を引っ張って、急いでその場を離れなければならなかった。

 間もなく閉店の時間だった。クレアの提案で、別館の方も見ながら帰ることになった。連絡通路を渡っているとき、設置されたスピーカーから、レイク・ストリート・ダイヴという男女混成バンドの『Hypotheticals』という曲が流れていた。

「百貨店って楽しいね。夜八時までの営業なのが残念。ザネリ、また一緒に買い物に来ようよ」
「無理言うな。君と来ると正体がバレそうで、ぼくは気が気じゃない」
「何でよ。今日はコウモリになってないじゃない」
「ぼくに、あんな催眠術みたいな色仕掛けまでして、そのうえ関節技……おっそろしいな」
「わたしはただ、嘘をつかれるのが嫌なだけ」

 ザネリは、横でピローの入った紙袋を大事そうに抱えて歩いているクレアの様子を窺った。こうやって憎まれ口を叩き合えるのも、遠慮なく嫌味を言い合えるのも、二人が故郷を同じくする者同士だからだとザネリは思う。ルーマニアのトランシルヴァニアを生誕の地とし、二百年前までは貴族として振る舞いながら種族の掟を守ってきた。だが、あの時代の古臭い暮らしは自分たちには退屈過ぎた。お互いに時期は違えども由緒ある家柄を捨てて出奔し、北半球を放浪の果てに日の出る国に流れ着いた。そんな偶然をザネリたちは絆と呼んだり、腐れ縁と呼んだりしているが、どのような形になるにせよ、クレアとは今後も関わり合いを続けていくのは間違いないと、ザネリは確信しているのだった。

「ところで、今日買った綺麗な青いインクは何に使うの?

 ザネリが手に提げている万年筆ブランド紙袋を見て、クレアが興味ありげに訊ねた。

「大切な顧客に手書きの礼状を出すためさ。最近、新しいビジネスを始めたんだ。蜜蝋を使ったスキンケア商品の実演販売。君はさっき、しっとりとした肌触りを体感したはずだぜ」

 そう言って、ザネリはシャツの上から自分の乳首を指差して見せたが、すぐさまクレアから尻に蹴りを入れられた。

 蜜蝋とは、蜜蜂が巣を作るときに体から分泌するワックスのような天然成分のことで、古くからキャンドルや保湿剤、食用に使われるなど、その用途は広い。

「わたし、ルーマニアにいた頃、魔除けだとか言われて、ニンニクや薬草を混ぜた蜜蝋を顔に塗りたくられたことがあったわ」クレアが言った。
「それは災難だったな。しかし、おまじないが信じられていた時代は終わり、今や天然成分という言葉自体が、現代人を惹きつける魔力的な意味を持つようになっている」
「まあね。だからわたしは、二百年前から蜜蝋の良さは知っているの。吸血しなくても、しばらく肌の調子がよかったもの」

 別館は下りのエスカレーターを使った。前方に女性客がいても頭頂部が見えるだけで目のやり場に困ることはない。ザネリはそう思ってほっとした。だが、いったい自分は何に気を遣っているのだろうとおかしな気持ちになった。そして、自分はさっきまで、何のためにあんなに意地を張ったのだろうとも思うのだった。隣で紙袋を胸に抱えているクレアに目をやる。彼女の眉間に皺が一本立っているのを見つけてザネリはぎょっとした。この皺はクレアがもの凄く不機嫌なときに出現するサインだったからだ。

「ちょっといい? わたし、パンツで思い出したことがある、あーっ腹立つ!」
「いきなり何だ。パンツの件は謝ったぞ」
「あなたのことじゃないよ、ザネリ。わたしの前の彼」
「前の彼?」
「あ、違う。前の前の彼。いや、前の前の前?」

 君の恋愛遍歴なんか知るか、とザネリは思ったが、どんどん不機嫌になっていくクレアを見て、これは話を聞いてあげるしかないなと覚悟した。

 クレアが外国人相手の高級ラウンジでホステスをしていたのは、日本にやって来て五年ほど経った頃のことだという。小柄だがスタイルが良く、美人でマルチリンガルの彼女はずいぶんとその店で重宝されたらしい。そのクレアの彼というのが、あとから来てバーテンダーとして採用された二十五歳の若者だったという。

「腕はいいのよ。曲芸のようにカクテルを作る世界大会に出たことがあるらしいの。今でいえば華があるイケメンだったわ。流行に敏感で話題が豊富な人。わたしはそれまで、人間の男を捕食の対象にしか見ていなかったけど、彼のことはそんな風に見ることができなかった。好きになっていたのね」
「このあとも、惚気話は続くのか?」
「いいから聞いて」

 彼はクレアに優しかったという。女性を上手にエスコートするマナーを身に着けていて、彼と会っているときは何も心配がいらなかった。スマートという言葉は彼のためにあるのではないかとクレアは思ったらしい。

「そんな完璧な彼の何がいけなかった?」
「あるとき気付いたの。彼はわたしのことを大切に扱っているけど、わたしのことを全然見ていない。つまり、彼の関心はわたしではなく他にあったのよ」
「他に? まさか、君の正体がバレたのか」
「その逆。まったく正体に気付かないの」

 界隈では広く知られていることだが、吸血種族は日光に弱いため夜しか活動できない。明かりの下に立っても影ができない。鏡に映らない。水が流れているところを跨ぐことができない。これらの特質により、人間であれば当たり前のことが、ザネリたちにとっては身バレの危険性を孕むウイークポイントになる。

「彼はナルシストなところがあって、鏡を見つけると自分の身だしなみを直す癖があったわ。わたしはそれを知っていたから、鏡のそばにいないように気を付けていた。でも、自己愛的な人って街を歩いていても鏡の存在に鋭敏で、わたしが気付くのに遅れたことがあったのよ。彼はわたしを前に置いて平気で前髪をチェックしていたわ」
「君が見えていないのか」
「そう、見えてないの。見えないのは当たり前なんだけど。あら、ややこしいわね。つまり、わたしが見えていないことに彼は気付いてなかったのよ」

 彼に対する疑惑が決定的になったのは、彼の二十六回目の誕生日を祝う一週間前のことだった。以前、クレアは自分の誕生日のときに彼から五十本の赤い薔薇の花束を贈られていた。感激したクレアは彼の誕生日にお返しがしたいと思い、その旨を申し出た。彼はクレアに口づけをしたあと、照れくさそうにこう言ったという。プレゼントはいらないから、ひとつだけお願いを聞いてもらえないか……。クレアはこのあと、彼の口から驚くべき台詞が発せられるのを耳にしたという。

「『スカートの中を写真に撮らせてほしい』」

「はあ?」ザネリは大きな声を出した。

「本当よ。彼はわたしにこう言ったの。『君のスカートの中を写真に撮らせてほしい』って」クレアは男の声色を真似て、わざと低い声で言った。

「驚くべき変態だな」
「そうなのよ。今ならわたしもそう思うわ」
「当然、断ったんだろう」
「でもね、わたしにはまだ彼を信じたい気持ちがあのときあったの。だから、いいよ、って返事をしたんだ」

 クレアに承諾を得た彼は、すぐに閉店間際のカメラショップに駆け込んで、高価な一眼レフカメラと36枚撮りの高感度フィルムを二十本購入した。そして、夜間でも明るい地下鉄の駅の階段にクレアを案内し、人の気配がなくなったあと、彼女に一人で階段を上るように命じたという。

「君が階段を上っているとき、彼は何をしていた」ザネリは訊ねる。
「途中で振り返ったら、階段に這いつくばってわたしの方を見ていたわ。わたし、このときミニのフレアスカートだったから、パンツを覗いていたんだと思う。両手の親指と人差し指の二本を合わせて四角形を作り、『ピクチャレスク!』とか叫んでいた気がする」

 クレアは彼に命じられて、地下鉄の階段を何度か上り下りした。最初は彼女も、彼がとても喜んでいるし、自身も覗かれるという行為にこれまで感じたことのない性的興奮が潜んでいることを密かに期待して、容認する気持ちがあった。けれども、実際にはそんなものは潜んでいなかったし、セクシーな気持ちが訪れてくることもなかった。そのうち、パンツを見せている自分に腹が立ってきて、一人で楽しんでいる彼のこともだんだん恨めしく思えてきたのだった。そして、決定的だったのは、いざカメラを取り出して彼がファインダーを覗いたときに起こった。

——あれ、おかしいな!

 クレアが振り返ると、彼がそう言ってレンズをあちこちに向けてカメラを振り回している。

——いない、どこにもいない!

 彼は完全にパニックを起こしたように騒ぎ始めた。ファインダーを覗いて、レンズの前に自分の手をかざし、そのあと、ファインダーから目を離してクレアの方に目を向ける。

——なんで? なんで?

 クレアには何が起こったのか皆目見当がつかなかった。彼は焦ったようにカメラのダイヤルをいじり、そのうち、あり得ないようなことを叫び始めた。

——パンティーが見つからない! パンティーを撮りたいのに、クレアが消えてる! なんで? パンティーは? パンティーはどこにあるの!

 駅構内で「パンティー」と大声で叫ぶ男も異常だが、彼がカメラを向けたときの意識に「パンティー」しかないのも異常なことだとクレアは思った。そして悟った。この男は、やはりわたしに関心がないのだ。わたしではなく、パンティーとやらに関心があり、女の下穿きに興奮する男なのだ。わたしを写真に撮りたいのではない。わたしが穿いているパンティーなるものをフィルムに残したいだけなのだ。

 クレアの中で我慢していた糸がぷつりと切れて、煮えたぎった腹立たしい気持ちが一気に噴出した。口腔内に格納されていた二本の糸切り歯がメリメリと伸び始め、瞳は深紅の色に爛爛と輝き出した。愛が冷めれば、男はただの捕食の対象に成り下がる。クレアは喉を鳴らして飛びかかった。

◇◇

「まあ、重度の変態のようだし、結果的に別れて良かったじゃないか」ザネリは慰めるようにそう言った。
「わたしがさっきからパンツのことでムカついていたのは、このときのトラウマが原因だったかも知れないわ」クレアもそう言って、前に抱えていた紙袋をぎゅっと抱きしめた。

 別館のエスカレーターには、あまりお客が乗り込んでくることはなかった。おかげで声の音量も気にせずにおしゃべりができた。

「そうだ、さっきの話で、ひとつだけわからないことがあるんだけど」

 クレアが思い出したように言う。

「わたしの前の前の前の彼……っていうか、あのパンティー男が突然パニックになったのはどうしてだと思う? カメラが故障したから?」

 クレアは、撮影スタジオで助手をしていたザネリなら、何かわかるのではないかと期待したらしい。

 ザネリは顎に手を当てて、思案のポーズを取った。

「そもそも、君がその彼と付き合っていたのはいつ頃のことだ? 最近じゃないよな。昭和だろう」
「だいぶ昔。八〇年代」
「おい、四十年も前じゃないか。それで『前の前の前の彼』って本当かよ」
「本当よ。こう見えても交際人数は少ないタイプですが何か?」

 クレアの眉間に皺が浮かびそうになったのを見て、ザネリは咳払いをした。

「さっきの話を聞いた限りで言えることは、まず、彼が購入したのは一眼レフのフィルムカメラ。時代を考慮すると、ファインダーは光学式だと思う。ここから先は仮説だが、たぶん彼がパニックになったのは、カメラの背面にあるファインダーを覗いても、クレアの姿が映らなかったからじゃないかな」

 クレアがもう少し詳しく教えてくれと言うので、ザネリは説明を続けた。

「レンズで捉えた光は、真っ直ぐ目に届くわけじゃなくて、カメラの中にある鏡とペンタプリズムで数回屈折させてからファインダーに届く。我々は鏡に映らないから、当然、ファインダーで見ることはできない。目の前にパンチラの女性がいるのに、ファインダーを通すと姿が消える。彼がパニックになったのは、おそらくこれが原因だと思う」

 この仮説が正しければ、クレアのパンチラ撮影は、運が味方をして阻止されたことになる。ザネリはそのことを心の中で喜んだ。そして、自分が内心ほっとしていることは、クレアには知られたくないと思った。

 店内に閉店音楽が流れ始めた。クレアが、急にキョロキョロと辺りを見回す。

「ねえ、何でわたしたち、上りのエスカレーターに乗っているの? 下に降りていたんじゃなかったっけ?」

 ザネリは笑いだした。

「気付いてなかったのか。君の思い出話を聞くために、六階から一階までを、このエスカレーターですでに三往復しているんだが」

 ザネリは、おしゃべりに夢中になっているクレアを巧みに誘導して、エスカレーターが下まで着いたら上へ、上まで着いたら今度は下へと、際限なく乗り続ける悪戯をこっそりと仕掛けていたのだった。

 クレアは本当に気付いていなかったようで、えーっと声を出して驚いたあと、ひとしきり笑い転げた。

「百貨店、やっぱり楽しいよ。また来ようよ」とクレアが言う。

「今度は君の『前の前の前の前の彼』の話でもぼくに聞かせようというのかい。勘弁してくれ」ザネリは遠慮のない嫌味で返答する。

 クレアの蹴りを尻に受けている間にエスカレーターで一階に着いた。ザネリは逃げ足を装う巧みな誘導でクレアより前を歩き、今度は本当に出口へと向かった。

(了)


四百字詰原稿用紙約三十一枚(10,944字)



■引用楽曲と参考動画

『HYPOTHETICALS』LAKE STREET DIVE

◇◇◇◇


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