ブラッディ・ザネリ
短編小説
◇◇◇
二十時に配達予定の宅配便を待っている間、ラジオから流れていたバラード曲をソファーに寝そべりながら聴いていた。宇多田ヒカルの「First Love」は出だしの歌詞が特に心に残った。
キスのフレーバー……。ああ、もちろん覚えているとも……。
シャツのボタンを全部外した格好のザネリは、体を起こしてソファーに座り直し、先日パパ活で知り合った若い娘の顔を思い出そうとした。しかし、集中力が続かず頭の中でうまく像が結べなかった。腹が空き過ぎているのだ。
ザネリは項垂れたまま、センタークリースの入ったきれいめの黒いパンツからすっきりと伸びている自分の素足を眺めた。毛足の長い絨毯に埋もれている裸足は、生気を失っているかのように青白かった。
ラジオでは宇多田ヒカルがサビのリフレインを切々と歌い上げていた。ザネリはパパ活で出会った娘との接吻を記憶に呼び戻した。顔は思い出せなかったが、キスのフレーバーだけは鮮明に覚えていた。若々しい鮮血の匂いだった。
娘の唇はぽってりと厚みがあった。特に下唇には量感があって、ようやく口づけを許してもらえるまでの親密なムードに持ち込んでからは、優しく唇を重ね、丹念にその感触を味わっていた。ところが、キスの興奮もあったと思うが、とろけるようなその下唇を吸っているうちに、いつもは歯茎に収納されている自分の糸切り歯が知らぬ間に伸びて、ザネリはうっかり娘の唇を傷付けてしまったのだ。
芳しい香りが口中に広がったと思ったときは遅かった。娘は、うっ、と呻いて口を押さえたあと、驚愕の表情でザネリの顔を見て、しばらくその場から動けなくなったようだった。
無理もない、とザネリはこのときのことを振り返って思う。おそらく娘は、目の前にいる中年男の口元に突如出現した二本の鋭利な牙を目にしたのだろうし、さっきまで琥珀色だった男の瞳が、知らぬ間に真紅の瞳に変わっているのに気付いて、心の底から恐怖と警戒を抱いたことだろう。
ザネリもこのとき、自らが招いた失態に狼狽していた。娘には、大事な用件で頼みたいことがあったのだ。傷付ける気などさらさらなかった。心から謝罪するつもりで優しく肩を抱き寄せようとしたが、怯えた顔の娘は身を捩り、腕を振り回して脱兎の如く玄関に向かい、引き留める言葉も耳に入れず、ハンドバッグも置き去りにしたまま、慌ただしくヒールを拾って裸足でドアの外へと飛び出したのだった。
ザネリは追いかけなかった。その気力もなかった。本来なら娘の額に手を当てて、自分と面会した今夜の記憶をすべて消去しなければならなかったが、そんな重要な処置すら失念するほど、ザネリにとってこの失態のダメージは大きかった。蒼ざめた顔でソファーに倒れ込み、憔悴した体に両腕を回してザネリは自分で自分を抱きしめた。唇にはまだ娘の血液の芳香が残っていた。罪悪感とともに舌で舐め取ると、束の間だがうっとりとするほどの幸福に、ザネリは包まれた。
宅配業者の鳴らすチャイムの音が、ザネリの回想を破った。時刻は二十時を五分ほど過ぎていて、ラジオの曲はスガシカオの『真夏の夜のユメ』に変わっていた。インターホンのモニターを確認すると、黒猫マークの帽子をかぶった若い男性の姿があった。ザネリは低音域の声で応対したあと、素早く身なりを整え、ドアを開けてサインをし、ウインクと笑顔で小包を受け取った。
心が浮き立ち、歌い出しそうな気分だった。ザネリにとっては数ヶ月ぶりの晩餐になる。軽くステップを踏み、踊るようにターンをしながら包装紙を破り、箱から緩衝材に保護された全血製剤の輸血パックを取り出した。食欲をそそる血液の色を目にして、ザネリの瞳の虹彩が真っ赤な色に変わった。にわかに伸びてきた糸切り歯でパックを食い破ると、ゼリー飲料を摂取するように、口の中いっぱいに吸飲した。
途中、ザネリの目が不自然なほど大きく見開かれた。口を押さえてキッチンに駆け込み、シンクにすべてを吐き出した。跳ね返った飛沫が顔やシャツに付着し、ザネリは低い唸り声を上げた。双眸が、昏く深紅の色で爛爛と輝きだしたのは、怒りのせいに他ならなかった。不味い。偽物だ。不味い。ひどく不味い。血走った目に涙を滲ませ、呪詛のように口の中でそう呟いたあと、ザネリは最後にあらん限りの声量で、こんなもの頼んでないぞ、と咆哮した。空腹と情けなさで泣きたい気持ちになったザネリは、まるで糸の切れた人形のように脱力し、キッチンの床に女の子座りの形でくずおれた。
◇◇
食べ物の恨みは恐ろしい。人間のあいだで古くから言い継がれているこの言葉が、自分たちの種族にも当て嵌まることを、ザネリは三百年近くこの世の中をわたってきた経験によって知っている。冷静沈着をモットーとするザネリだったが、輸血パックの取り次ぎを頼んでいるクレアにクレームの電話を入れたときは、いささか汚い言葉で彼女を罵ってしまっていた。
「いいな、すぐに注文通りのモノを届けろ。何が何でも今日中にだ。でないと、てめえのけつの穴に※※※※して、特大のミサイルを※※するからなっ!」
自分がそんな酷い悪態をつけるとはザネリ自身も驚きだった。だが、新鮮な血液の補給が遅れれば遅れるほど老化は進み、しまいには命にも関わるのだから、一時的に理性が吹き飛ぶのは致し方あるまい……。そんな風に自分に言い訳をして、ザネリはラジオのそばにある壁掛け時計の針が、二十時三十分の位置に差しかかるのを見つめていた。
インターホンのチャイムが鳴った。
さすがだ、早い。
モニターを確認すると、そこに人の姿はなく、一匹の蝙蝠がマンションの通路を旋回する様子が映っていた。
ザネリが玄関のドアを開けると、蝙蝠の姿は消えていて、代わりに上から下まで黒と白でまとめているモノトーンコーデの女性の姿があった。救急バッグを肩から提げているクレアだった。
「早かったな、クレア」
「あなたのために、私が直々に飛んできたわよ」
ドアを押さえていたザネリを押しのけるように、クレアは強引に体を割り込ませて靴を脱ぎ、華奢な体格のどこにそんな力強さがあるかというくらいどすどすと足音を立ててリビングへ進んでいった。ソファーに腰掛けた彼女は、救急バッグを肩から下ろすと、黒のチュールスカートから飛び出している形のいい脚を組んでザネリを睨みつけ、今届けに来たものを顎で指し示した。ザネリの耳には、小さくクレアの舌打ちの音が聞こえていた。
明らかに怒っている。先に電話での暴言を謝るべきだろうか、とザネリは思ったが、不味い偽物をつかませられたうえに、それを客先に発送した責任は、長く取り次ぎの業務をしている彼女の方にあるはずだ。まずは詫びてもらうのが筋だろう。ザネリがちらりと視線を向けると、組んでいた脚を下ろしたクレアが、神妙な顔で謝罪した。
「このたびは申し訳ありませんでした。……私の発注ミスよ。人造血液だったの」
「人造血液? そんなものがあるのか」
ザネリは救急バッグに入っていた輸血パックのラベルを確かめながら、驚いた顔でそう言った。
「ええ、まあ。……こちらの調査不足だったわ。……信頼のできない病院と新規契約を結んだのが間違いの元ね」
そう話すクレアに、何となく不審な様子をザネリは感じたが、そのとき、輸血パックがいつもより多くあることに気付いた。
「それは私からのサービス。とりあえずそれで許して」
「わかったよ。——ぼくの方こそ電話では強く言い過ぎた。怒ってるだろう。すまなかった」
しょげているクレアを見ていたら気の毒になり、ザネリも暴言の件を謝った。騙されて一番悔しい思いをしているのはクレアの方だろう。それに比べたら、自分は食事の時間が少し遅くなっただけのことだ、とザネリは思う。実のところ、このハプニングによって久しぶりに人間の血液をたらふく頂けるわけだから、むしろザネリとしては今回のミスに感謝を捧げたいくらいだったのだ。
ザネリは両手で輸血パックを抱え、哺乳瓶を与えられた赤ん坊のように一心不乱に血液を吸飲した。本物はやはりうまい、とザネリは思った。青白かった足に血色が蘇り、全身が若返っていくようだった。そんなザネリに、まだ不機嫌な顔をしているクレアが訊ねた。
「あの血液さ、そんなに不味かった?」
「偽物のやつ? 不味いよ。飲んじゃいけない味だよあれは」
「少しも飲んでない?」
「全部吐き出したよ。ほら、このシャツの襟を見てくれよ」
ザネリは片方の手で白シャツの襟をつかみ、まるで紅梅の蕾のように点々と飛び散って付着している赤い汚れを示した。
「わかったわよ」
クレアはそう言って、不貞腐れたようにぷいっと横を向いてしまった。
ザネリはそんなクレアを見て不思議でならなかった。この国で食する血液、すなわち日本人の血液が一番美味しいことは、クレアだってよくわかっているはずだ。なぜ彼女はあんないかがわしい人造血液とやらにこだわっているのだろうか。ザネリは自分と同じ琥珀色の瞳を持つ彼女の横顔を、しばらく溜め息とともに見つめたのだった。
◇◇
クレアとは同郷だった。東欧のルーマニア、カルパティア山脈を擁するトランシルヴァニアの月夜の高原は、ザネリにとってもクレアにとっても郷愁を誘う共通の原風景だった。古いしきたりの蔓延る貴族社会と広い城館での退屈な暮らしに見切りをつけたザネリは、新しい知見と刺激を求めて旅に出た。長いあいだヨーロッパを放浪したあと、ザネリは東アジアでもっとも経済が発展している島国に辿り着く。一九六〇年のことだ。人口密度が世界一と言われていたこの国の首都は、ザネリの目には豊富な餌場として映った。日本に来て気付いたのは、日本人の血液は甘みがあって美味しいということだった。ヨーロッパと比べて大きな違いがあるとすれば、この国の水質が軟水で、国民がそれを常飲していることだろう。ザネリが半世紀以上もこの日本に滞在しているのは、他国では味わうことのできない血液の魅力ゆえだった。クレアは、そのザネリから少し遅れて日本に流れ着いた。貴族の家柄を捨てて、ヨーロッパからアメリカ大陸に渡り、六〇年代後半のヒッピー文化に乗じてバックパッカーに偽装した彼女は、ヒッチハイクをしながら北米大陸中の血を食した経験を持つ。そんな彼女が、七〇年代に日本にやって来て最初の血を頂いたとき、その角の取れたまろやかな味わいに衝撃を受けたのだった。東京でザネリと合流し、半年に一度の吸血だけで若々しい肌をキープしている彼の姿を見て、クレアはバックパッカーの旅暮らしをやめた。日本人の血液の味に魅せられ、この地から離れられなくなった同じ種族の仲間がいることを、彼女は知ったからだった。
◇◇
「クレアには感謝している」
ザネリはそう言おうと思っていた。
クレアが仲間内向けに輸血製剤の取次業を始めたのは、この国で安定した品質の血液を確保できるようにするためだった。それはザネリにとっても、吸血後につきまとうありとあらゆる後処理の煩わしさから解放してくれる、願ったり叶ったりのサービスだった。
吸血のために人間を襲うと、そのあとに傷口の処置、遺伝子書き換えの成分を含んだ唾液の中和、短期記憶の消去といった面倒な処理が必要になる。それを怠ると、人間社会に種族の存在が露見してしまうからだ。
輸血用の全血製剤の存在は、ザネリたち種族を救済してくれる革命的な発見だった。献血によって作られる血液製剤は、人間の頸部から直接啜る鮮血に勝るとも劣らないほど美味しいものだったのだ。このことに最初に気付いたのはクレアだった。厳しく管理されている貴重な輸血製剤をうまく融通してもらうことで、人間との無用な対立も避けられる。この発見は彼女が種族にもたらした大きな功績だった。
かつてザネリは、クレアとこんな話をしたことがあった。
「ザネリはどう思ってる? どうして私たちってさ、日本人の血を美味しく感じるのかしら。軟水だけが理由じゃないと思うのよ。アメリカだって、サンフランシスコやニューヨークは軟水よ」
「たしかにな。日本人でも血が美味しくない奴はいたよ。昔、ぼくの容姿が外国人に見えるから、侮蔑的な言葉を投げてきた男がいた。そいつの血はどろどろで飲めたもんじゃなかったな」
「私がサンフランシスコでヒッチハイクをしていたときもそうだったわ。急に車を止めて襲いかかってくるから、逆にねじ伏せて血を吸ってやったけど、おしなべてそういう男は全員どろどろでクソ不味いの」
「なあクレア、血が美味しい理由って、そこに善意があるからじゃないのか」
「善意?」
「日本人って、困っている外国人を見ると親切にしてくれる人が多いだろう。近寄らない人もいるけど、それは外国語ができないからで、心の中ではすみません、なんて思っている」
「うん、日本人っぽい」
「どちらの反応もやはり善意なんだよ。考えてみなよ。血液製剤って献血で集められたものだろう。あれ自体、善意の固まりだ。美味しくて当然だったんだよ」
「善意かあー。何だか雲をつかむような理由ね。もう少し科学的な理由はないのかしら」
「フッ、科学なんて、ぼくらには一番縁遠いものだぜ」
「あはは、それもそうね」
本当に人間の善意が美味しさに影響を与えるものかはザネリもわからない。だが、そうであると信じるに足りるくらいの善意というものを、この島国に住む人間たちからザネリが感じているのは確かなのだった。
◇◇
そういったこともあって、ザネリは全血製剤のパックをわざわざ届けに来てくれたクレアに、これまでのことも含めてお礼の言葉を伝えようと思ったのだ。
クレアには感謝している、と。
しかし、ソファーに座り、不貞腐れたように横を向いていたクレアは、その視線の先に若い女性が使うハンドバッグを見つけていたのだった。
「何? このハンドバッグは」
「ああ、誰かが忘れていった物のようだ」
「若い子をこの部屋に連れ込んだの?」
「え? ああ、先日のハロウィンで知り合ったんだ」
「女性がハンドバッグを置き忘れるなんて、只事じゃないんだけど?」
「えっ、ああ、ううん……」
クレアが急に立ち上がり、おいっ、こらっ、隠すなっ、正直に言えっ、とものすごい剣幕で詰め寄るので、ザネリは耐えきれなくなりパパ活で知り合った初対面の娘のバッグだと白状した。さらに締め上げられて、事の顛末まですべて吐かせられた。ただ、まるで浮気をしたかのように強く詰られていることには、内心腑に落ちないものがあった。ザネリはずっと独身で、特定の恋人もいない。そもそも、クレアとはそういう関係になったこともないのだ。
「キスをしていて、傷ものにしたなんて呆れたわ」
「傷ものじゃなく、傷を付けてしまった、だ」
「おまけに、記憶を消す処置もしないで帰したってどういうこと?」
「自分でもショックで、そこまで頭が回らなかった」
「それがどんなに危険なことだかわかってる?」
クレアから自分の失態を責め立てられて、ザネリは意気消沈した。神経に刺さる言葉ばかり聞かされたせいで、背中に冷や汗が流れていた。そこへ、インターホンのチャイムの音が不意に響いて、ザネリは飛び上がった。
壁の時計はあと五分で二十一時になるところだった。こんな時間の来客に心当たりはない。ザネリはモニターを確認した瞬間、心臓が止まりそうになった。
「誰なの?」
クレアに訊かれて、ザネリは答えた。
「ハンドバッグの持ち主だ」
◇◇
勇敢な娘だ、とザネリは思う。
あんな怖い目に遭ったにも関わらず、こうして再びこのマンションの部屋に訪れるのは、よほどの勇気が必要だったろう。
娘は、雉端茉里伊と名乗った。先日のハロウィンの晩に会ったときは、ナースのコスプレ姿だったが、今夜は単色のニットにサロペットというカジュアルな服装だった。ザネリは先日の失礼を詫びて、娘に忘れ物のハンドバッグを返却したが、彼女がここを訪れたのはどうやらそれだけではないようだった。切羽詰まった様子で「お話を聞いて頂けませんか」と言う。ザネリは娘をリビングへと通した。天井の隅にちらりと目をやると、小さな蝙蝠に化身したクレアが、監視の目的で逆さにぶら下がっていた。クレアは何かあったらすぐにでも娘に記憶消去の処置を施すつもりなのだ。
「ザネリさん、率直に訊ねてもいいですか?」
ザネリは娘に紅茶を淹れてやり、自らも同じものを飲みながらじっくりと話を聞いていた。彼女の話しぶりはきちんとしており、使っている言葉も丁寧なものだった。パパ活をしているのは、金銭的な面でどうしても都合をつける必要があったからだという。しかし、今夜、彼女がザネリに会いに来たのは、お金の無心のためではなく、ザネリ自身の能力を見込んでのことだというのだ。
ザネリには心当たりがなかった。娘は何の能力のことを言っているのだろうか。もしも種族である自分の正体が気付かれてしまったのであれば、その瞬間、天井にいるクレアが娘の額に飛び付き、脳内の大脳皮質と海馬から、直近の記憶を抜き取る手筈になっている。ザネリは頷いたあと、少し緊張しながら娘が訊こうとしている言葉を待った。
「では、率直に伺います。ザネリさんは手品師ですよね?」
予想外の言葉に、ザネリは持っていた紅茶カップを落としそうになった。
「あのときのザネリさんの早替え、見事でした。あまりにも見事過ぎて、私、声が出ませんでした」
ザネリは混乱した。
「ちょっと待った。あのときの早替えって、何のことだろう。ごめん、ぼくは忘れっぽいんだ」
「キスをしていたときです」
娘はわずかに頬を紅潮させてそう言った。だが、ザネリには怪我をさせた思い出しかない。
「ごめん、唇、痛かったろう。本当にすまなかった」
「それはいいんです。もう治りましたから。それよりも、どうやったんですか。キスをしているときにどうやって牙に交換できたのですか……あれは早替えのマジックですよね?」
「……えっ」
「目の色も、赤のカラコンに変わっていました。見事なテクニックだと思います!」
ザネリは、娘の美しい誤解をどう受け止めていいものか判断に迷っていた。奇跡的にバレていないと受け取っていいのだろうか。天井の隅っこでぶら下がっているクレアに、ザネリはちらりと視線を向けたが、蝙蝠の彼女は待機の姿勢でじっとしているだけだった。
「ザネリさんの、その確かな能力を見込んでお願いがあります」
娘から真剣な眼差しを向けられて、ザネリは思わずこくりと頷いてしまった。
「父と私を助けて下さいませんか。私たちが経営しているマジックバーのお店を、救って頂きたいのです」
◇◇
娘を安全に駅まで送り、終電に間に合うように帰した。ザネリがマンションに戻ると、女性の姿に戻ったクレアが、にやにやしながら「経営の立て直しなんて、引き受けちゃって大丈夫なの」と訊いてきた。
「経営の立て直しなんてぼくにはできないよ」
「でも引き受けたんでしょう?」
「ああ。ぼくが引き受けたのはマジックショーの方だ」
娘が父親と二人で経営しているというマジックバーは、千代田線沿線の下町にあった。イベントタイムにクローズアップマジックを披露して、カウンターやテーブルのお客様を楽しませる形態の飲食店である。しかし、昨年から売り上げが落ち込み、オーナーからは違う経営者に店舗を譲る計画があることを仄めかされている状況だった。娘の父親はプロのマジシャンだった。かつては大きなステージで、大掛かりなイリュージョンを披露していたらしいが、アシスタントでありパートナーでもあった娘の母親が病死したのを機に、第一線から退いてしまったのだという。バー開店当初はネームバリューもあってたいへん繁盛したらしいが、歳月とともにマジックのネタが古くなり、人気に翳りが出始めてから経営が傾くまではあっという間だったようだ。娘も手品の修行をしていて、筋もいいと言われているのだが、最新のマジックを取り入れても思うように集客に繋がらないのが現状だった。全日本マジック協会という大きな団体が主宰となり、二年に一度、奇術のプロたちが集まって最新のマジックを披露する大会が開かれているらしい。娘と父親はその大会に出場し、上位の成績を収めることを条件に、契約の延長をオーナーに申し出た。オーナーは、三位以内であれば延長すると約束したという。ただでさえ店舗の家賃が払えず、父親に内緒でパパ活をしてこれまで持ち堪えてきたが、もはやこの大会に賭けるしかなくなってしまったと娘は話す。
「彼女は切羽詰まっているんだよ。必死なんだ。だからぼくのことが手品師に見えたんだろう」
ザネリは二杯目の紅茶を沸かしながら、ソファーで寛ぐクレアに言った。改札口で見た娘の思い詰めた表情が、まだ脳裏に焼き付いていた。
「でもザネリ、あなたって、手品は素人よね」
「ああ、ど素人だ。だが、昔からマジックには興味があったよ。日本で最初にショーを観たのは、引田天功。初代のね」
「知ってるわ。私が日本に来た頃、大ブームだったから。でもまあまあ古いわよ」
「遡れば、パリで放浪していたときに、ロベール・ウーダンの劇場に通い詰めてよく生で観ていた」
「ロベール・ウーダンって、十九世紀の奇術師じゃなかったっけ。ふっる!」
「近代奇術の父とも呼ばれているロベールさんに、古いは失礼だろう」
「ていうかさあザネリ、あなた本当に何歳なの?」
大会には、観客のすぐ目の前で行うクローズアップマジックの部門で出場しようと娘は考えていたらしい。だが、ザネリはもっと大掛かりな「イリュージョン部門」で出るべきだと主張した。父親が得意だったという、大きな舞台をめいっぱいに使ったショーの方が、インパクトが大きいからだ。アイディアがあるから任せてくれとザネリは娘に伝えた。
「大丈夫なの?」
ザネリから打ち合わせの内容を聞かせてもらったクレアが、呆れ顔で言った。
「大丈夫だ。必要な舞台セットはすべてこちらで準備すると娘にも伝えてある。これも、ぼくなりの償いだ」
「私が心配なのは、新作のイリュージョンをお披露目する大会だってことなの。肝心なトリックは考えてあるの?」
「トリックはいらないんだ」
「どういうこと」
「ぼくの体を使えばいい。ショーにはあの娘と一緒にぼくが出る」
ザネリは熱い紅茶を啜った。
◇◇
人間たちは勘違いをしている。
ザネリは常々、人間たちのあいだで流布している自分たちのイメージに違和感を覚えてきた。化け物。悪魔。妖怪。鬼。伝説。正直、げんなりしている。本当であれば、自分たちは人間と関わり合いたくない。ザネリの先代の中には、人間を敵に回したせいで、白昼の寝ている隙に心臓に杭を打たれて亡くなった者がいたという。これこそ、自分たち種族の不幸である、とザネリは思う。
人間たちは、ザネリたち種族が灯りの下に立っているのに影ができないのはおかしいと言う。鏡に姿が映らないのは異常なことだと言う。夜しか活動しないのは不気味だと言い、歳を取らずに何百年も生きているのが怖いと言う。だが、ザネリたちからすれば、これらはすべて当たり前であり、何も不自然なことではないのだ。
人間の多くは、自らが信じている常識というものを持っていて、それから逸脱している存在に出会うと恐怖を感じるらしい。ザネリからすれば、どうしてぼくたちをその常識とやらに組み込むのだろうか、と常々不思議に思っている。見かけは似ているけれども、同じに当て嵌めてはだめなのだ。なぜなら、自分たち種族と人間では存在におけるコードが違うからである。たとえば、抽象に光を当てたら影ができるだろうか。音楽や言葉が鏡に映るだろうか。この世に存在するのに、両者は違うコードでできているとはそういうことなのだ。自分たち種族の不幸は、違うコードである人間の元へと越境し、彼らの血を吸わないとこの世に生存ができないというこの一点に尽きる。何という呪われた運命だろうか。
ザネリたちが、永遠の命を授けてくれる人間という存在に、特別の愛着と敬意が湧いてきたのは実は最近になってからだ。美味しい血液のために、一肌脱ぐのはむしろ当然のことなのである。
大会当日、ザネリが考案したイリュージョンは大成功を収めた。
ザネリと奇術師の娘、雉端茉里伊の演技は、二枚の大型の板を、向かい合わせに配置した中で行われた。ステージの奥に設置された大型のボードは全面が鏡張りになっており、向かいにあるもう一枚はそれよりも小振りな化粧ボードだった。化粧ボードはステージの手前に置かれることで死角にもなり、そのため、観客はステージ奥に設置された鏡の鏡像をメインに鑑賞することになるのだ。
ザネリたちの演技は、観客たちの反応を著しく引き出すものだった。ステージに現れた黒のタキシード姿の外国人紳士と赤いドレス姿の可愛らしい女性が、気品のある舞踏を始める。くるくると踊る姿は優雅でうっとりとした気分を誘うが、そのまま手前の化粧ボードに移動して二人の全身が隠れた瞬間、ステージ奥の幕が落とされて大型の鏡が出現する。しかし、その鏡に映っているのは赤いドレスの女性だけで、タキシードの紳士の姿は見えないのだ。女性は鏡の中でも、まるでそこに透明なパートナーがいるかのように踊り続けている。やがて連続のターンをしながら手前の化粧ボードから現れた実体は紛れもなく消えたはずの紳士で、その動きは背後にある巨大な鏡に映っている鏡像と、完全にシンクロしていた。だが、鏡には女性の姿は映っていても、紳士の姿は映っていないのだ。観客席からどよめきが起こった。今度は赤いゴムボールが弾みながらステージ上に転がってきて、それを紳士が拾い上げた。ボールの軌道は鏡像とシンクロしていて、間違いなく本物のボールだった。しかし、鏡像だけ見ていたら、ボールがひとりでに垂直に持ち上がったように見える。紳士の姿だけが鏡から綺麗に消失しているからだ。次に紳士の姿が化粧ボードに隠れると、観客の目は鏡像に誘導されるが、鏡の中に紳士の姿はない。しかし、そばにいた赤いドレスの女性の体が、次の瞬間、何の支えもなく空中にふわりと浮き上がるのである。この人体浮揚のイリュージョンには観客から特別の歓声が沸いた。もちろん、化粧ボードの陰から、女性を抱きかかえた実体の紳士が登場することを期待しての歓声であった。
このあとも鏡像を使って眩惑させる演出がいくつか続き、最後は鏡張りの小さな箱を使った脱出のイリュージョンが披露された。一部が透明な箱の中に、手錠を嵌めた紳士が窮屈そうに身を縮めて閉じ込められている。女性が上から蓋を開けた瞬間、箱は解体され、中から紙吹雪が吹き上がり、紳士の実体までも消えて演目は終了となった。
舞い上がった紙吹雪の中に小さな蝙蝠が紛れ込んでいたのを、果たして何人の観客が気付いただろうか。
この演目は、この日のイリュージョン部門の中で、一番多くの喝采を浴びた。
◇◇
「三位に入ったのだから、頑張った方だよ」
「嬉しいです。ありがとうございます。父が泣いて喜んでいました。今度、食事をご馳走したいと言っています。ランチにぜひ来て下さい」
「気持ちは嬉しいが、ぼくにランチは無理だよ」
「どうしてですか?」
「あ、いや、何でもない」
ザネリの部屋に、娘が訪ねていた。久しぶりの来訪だった。入賞した賞金についての相談だというが、ザネリはそちらで全部使ってくれて構わないと伝えた。舞台セットの費用などかかっていないも同然だった。そこらにあるがらくたを、有用なものに変えるくらい、ザネリには造作もないことだった。
「それよりも——」
と言ってザネリは、ソファーにちょこんと座っている娘を見つめた。ぽってりとした厚い唇は、濡れたようにつやつやとしていた。
急に自分の下衆な考えが表情に表れていないか、ザネリは心配になった。娘は頬を紅潮させて、ザネリの次の言葉を待っていた。完全に信頼しきっている顔だった。それを見て、ザネリは思った。大丈夫、娘はたぶん、今のぼくに惚れている。絶対に惚れている。
「実は、最初に君に会ったときから、頼みたいことがあったんだ」
「嬉しい。何でしょう」
「初めはちょっと、驚くかも知れないけれど……」
ザネリには、前から検証してみたいことがあった。日本人の血液が美味しいのは、善意の心があるからではないか。もしもこの仮説が本当なら、血液をもっと美味しいものにする方法があるはずだ。善意を上回るもの、それは好意に他ならない。
娘とは、一度キスをしている。うっかり傷付けてしまったが、あのときの血は最高に甘かった。今、彼女の血を吸うことができたら、それは極上の甘さになっているのではないだろうか。
「あのね、茉里伊。君の首をちょっと見せてくれないかな。変なお願いだよね。ごめんね」
そのとき、何かが急に近寄ってくる気配を感じたザネリは、いきなり耳を引っ張られて悲鳴を上げた。鍵をかけていた玄関のドアを通り抜けて侵入してきたのはクレアだった。
「はいっ、終了」
耳を押さえて悶絶しているザネリを横に、クレアは愛想良く娘に話しかけた。
「うちのザネリがたいへんお世話になりました。これまでの記憶を少し失いますが、生活には支障がありません。ザネリから聞きましたが、お店の方は新しいお客様が増えてきたそうですね。これからも頑張って下さいね。それでは御免下さいませ」
怯えたような顔をしている娘の額に、クレアは冷たい手をそっと伸ばした。
ザネリがようやく口を利けるようになったのは、玄関の扉がバタンと閉まる音を聞いたあとだった。
「何てことをしてくれたんだ」
「仕方ないでしょう。いずれは消さなければならないんだから」
「次に茉里伊に会っても、変な外国人のオジさんだと思われて、きっと相手にしてもらえない」
「そのときは私が相手をしてあげるから」
クレアはそう言うと、口元をぎゅっと結んで視線を足元に落とした。
「あー、ひと口でいいから、味見をしてみたかったな。もし、仮説が実証できたら、モテ男になれるようにぼくはこれからも頑張れる気がするよ」
「そんなにあの子の血を吸いたいなら、私のを味見すればいいじゃない」
「何を言ってるんだい、クレア」
ザネリはけらけらと笑った。種族同士はお互いが吸血しないように、遺伝的に不味く感じるように血液が作られている。クレアがそれを知らないはずはない。種族同士で吸血することがあるとすれば、それは婚姻関係を結ぶときに限られる。もちろん、それもクレアが知らないはずはない。
ザネリは笑うのをやめた。クレアの不審な様子を見て、不意に記憶が蘇ったのだ。彼女が発注ミスだと言っていた、いつぞやの不味い人造血液。あれは本当に人造血液だったのか。ザネリは何か言おうとして顔を上げたが、いつの間にかクレアの姿が消えていた。
「クレア」
名前を呼んで辺りをぐるりと見回すと、天井の隅に翼で顔を隠している蝙蝠がぶら下がっていた。
(了)
四百字詰原稿用紙約三十五枚(12,442字)
◇◇◇
■引用楽曲と参考動画
・『First Love』宇多田ヒカル
・『真夏の夜のユメ』スガシカオ
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