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耳の婚活

短編小説

◇◇◇


 市の中心にある城址に作られた公園は全国でも名高い桜の名所になっていて、シーズンになれば外周を囲むように巡らされたお堀の傍に、春を思わせる色遣いのぼんぼりが立ち並ぶ。

 修介が公園に足を伸ばしたその日は、薄曇りの空に向かって伸び広がるソメイヨシノの枝を、充血したように膨らんだ蕾が紅色の点描となって飾り立てていた。朝方に降っていた雨のせいで空気も冷たく、明らかに花見を楽しむにはまだ早いはずなのに、堀割の南側に掛けられた古びた石橋の欄干に両肘をつき、流れているのか止まっているのかわからない水面を覗き込んでいる修介の後ろを、これまでに何人もの見物客が通り過ぎ、公園の中へと吸い込まれていた。咲いた花を愛でてこその花見だろう。そう考える修介にとって、開花以前の蕾を観賞する酔狂な人間たちの行動は理解の外にあった。蕾しかつけていない桜のいったいどこが面白いというのか。修介は先月四十歳になったばかりだが、近頃自分の感性に昔ほど自信が持てなくなっていることに気が付いていた。自分は若者ではない。かといって年寄りでもない。社会では中堅を担い、人間的にも中味が充実していなければならないとされる年齢だが、本音を言えば表向き大人のふりをしている実感が強く、何かとても大切なものを今日までなおざりにしてきたような気がしていた。自分には何か不足があるに違いなく、その不足しているという感覚が次第にネガティブな解釈を呼び込んで、自分には何か決定的な欠損があると考えるようになっていた。紅い蕾ばかりの桜の良さを理解できないのは、自分の感性のどこかに欠損があるからではないか。一度そう考え出すと、修介はその欠損という考えのサークルから脱けられず、あまつさえ自分の至る所に欠損が潜んでいるような思いにまで到達してしまうのだった。

 修介の耳に、背後で赤ん坊をあやしている声が聞こえた。さりげなく振り返ってみると、乳飲み子を抱いた三十代の夫婦とおぼしき男女が石橋を渡って公園内に入っていくところだった。男の方は上背があり、女の方は脚の形が綺麗だった。

——お花まだ咲いてないね、中に入って見てみようね。

 乳児に話し掛ける女の声が修介の耳に残る。もしも、この光景が日常のありふれた一コマだというのなら、これも修介の感性では理解ができないことだった。生後間もない赤ん坊が花見を楽しめるとは思えないし、蕾しかつけていない枝を見せたところで後々その子の記憶に残っているとも思えない。それなのに、なぜわざわざ空気の冷たい日に、あの夫婦は公園にやって来るのだろう。修介は納得のいく答えを見つけられそうになかった。

 公園を訪れる客は、男女二名の組み合わせが多かった。制服を着た高校生カップルに続いて、仲良く手を繋いだ老夫婦が修介の背後を通って公園に入っていった。普段はそんなことに意識を向けることなどない修介だが、彼らを横目で見送るうちに、次第に気持ちが落ち着かなくなるのを感じていた。この不安の出どころはわかっている。修介には、最近知り合った女性がおり、来週その女性と、初めてデートをする約束を取り付けているのだ。今日、修介がこの公園に訪れたのも、その下見のためだった。シネマコンプレックスで封切りされたばかりの最新作を鑑賞し、そのあと予約した創作イタリアンで食事、そして最後にこの公園で桜見物をする——そんな計画を自分なりに立てて、すでにその概容を修介は女性にメールで知らせていた。四十にもなってわざわざデートの下見なんてと思う。中学生じゃあるまいしこの念の入れようは何なのだとも思う。けれども修介にとって女性と二人きりのデートは実に二十年ぶりのことだった。しかもその女性というのが、先月開催された自治体主催のお見合いパーティーで知り合った相手なのだ。パーティーに参加したことも初めてならカップル成立の当事者になったことも初めてというこれ以上ないくらいの僥倖が結び合わせた縁であるだけに、修介は自分の気の済むまで下見をし、慎重に慎重を期して初デートの日を迎えたかったのだ。

 堀端に等間隔に植樹されたソメイヨシノの伸びた枝が、それぞれ水面に触れるくらいに垂れ下がり、遠くに目を向けるほどその連なりが重なって密になる。満開の頃にはおそらく桜色の城壁が構築されたかのような美しい眺望が現れることだろう。来週にも桜は開花し、見頃になっているはずだ。そのとき、この場所に自分がひとりで来ているのではなく、パーティーで出会った女性を伴って来ていることを思うと、修介は今でも信じられない気持ちになる。一緒に暮らす女性のいない遠い未来のことを想像して不安におののいたことはあったが、わずか一週間ばかり先の未来でも、女性と一緒にいることに不安というものがついて回ることを修介は初めて実感していた。

 修介は改めて堀割の水面に目を落とした。そこには、欄干越しに下を覗き込んでいる男の姿が映っている。大きな耳が両側に張り出した、特徴のある輪郭の陰影は紛れもなく修介自身のものだ。

 耳男みみおだ。

 修介は小声でそう呟くと、自前の大きな耳を見ながら次第に腹の底からふつふつと自嘲の笑いが込み上げてきた。なんだ、ここに来ている中で一番酔狂なのは自分じゃないか。デートの下見に臆面もなく訪れ、浮かれた気分でいる中年の男。水面にくっきりと映り込む、並外れて大きな耳殻は、誰が見ても珍妙で滑稽だろうに。そんな見掛けをした男がこれから恋愛を始めようとしているなんて、これを酔狂と呼ばずして何と呼ぼう——。本当に声を出して笑ってやろうかと修介は自棄な気持ちを起こしそうになった。

「ウダジマ……ハヤコ、宇田島早子……」

 浮かれたついでにデート相手の女性の名前を呟いてみたら、修介は今になって彼女の顔をあまり覚えていないことに気が付いた。水色のスーツを着ていた全体の印象は記憶にあるのに、顔を思い出すことができない自分に修介は愕然とした。パーティーの最中、もっとも長く会話をし、話が弾んだ相手だったが、その間どれくらい目を合わせていられただろう。照れくささが先に立ち、また、目を合わせ続けるのも失礼だという思いもあって、面談中は左胸に下げられた名札と、口角の上がった唇から可愛らしく姿を覗かせる白い前歯だけを見ていた気がする。来週会ったとき、もしも、待ち合わせ場所に現れた宇田島早子に気が付くことができなかったら……そう思うと、修介はこれまで感じたことのない焦燥に胸を鷲づかみにされた気持ちになるのだった。

 堀割の水は、よく見ると足元に向かってゆっくりと流れていた。数羽の鴨が隊列をつくり、澪を引いて石橋の下をくぐろうとしていた。水鏡に並んで映る春色のぼんぼりが、鞭がしなうように渡ってきた波にぶたれて身悶えをした。

◇◇

 東京で学生をしていた二十歳のとき、芝居が趣味の女の子と半年間だけ仲良くしていたことがある。けれども、それから二十年間、修介は女性と交際する機会を得なかった。新しく恋人をつくらないまま大学を卒業し、美術系の出版社で働いて一年が経った頃、突然父が脳梗塞で倒れ、東北の生まれ故郷に戻ることを余儀なくされた。前職とは畑違いの電気工事会社に伯父の口利きで就職することはできたが、この職場には今も昔も女性は既婚者しかおらず、稀に職場の先輩や高校時代の友人から女性を紹介する話を持ちかけられたこともあったが、そのときは修介の方に誰かと付き合うという気が起きなかった。三十代の前半までは何かと世話を焼いてくれる人が現れて、合コンや女性が多く参加するイベントなどに誘ってくれたりしたものだが、しかし三十五歳を過ぎるとそういった話もぴたりと止んだ。あたりを見渡せば地元の同級生たちのほとんどは結婚を済ませており、独身者は自分を含めて数えるほどしかいなくなっていた。結婚の適齢期とされている年齢を過ぎてみれば、周囲は修介のことを、結婚を望んでいない男だとみるようで、今まで世話を焼いてくれていた人たちの関心は、他の若い独身者の方に移ってしまったようだった。病で半身不随になってしまった父は、一人息子である修介に早く身を固めることを望んでいたが、四年前の冬、それを見届けることが叶わぬまま今生を旅立った。いつ頃からだろう、修介は自分が「結婚」というものから取り残されたのではないかと感じるようになっていた。同僚の妹、行きつけの定食屋の娘、三ヶ月に一度歯石除去の処置を頼んでいるバツイチの歯科衛生士など、修介の数少ない独身女性の知り合いが結婚や再婚したという話を耳にすると、理由もなく落胆した。もしも、この落胆の理由が周りにいた女性が自分の元から離れていってしまったときと同質の感情によるものだとすれば、それは「寂しさ」以外にない気がして、修介は連絡を取り合える女性が一人もいないというのは、現在の自分に何かが欠けているからであり、どこか欠損があるからだ——という、いつもの思考の泥沼から抜けられなくなるのだった。思えば今年の元旦に修介はひとりで初詣に行き、雪のちらつく神社の境内の片隅で、誰かが書いた結婚祈願の絵馬を見ながら、自分に結婚は必要なのか、という問いを延々と考え続けたのだった。仕事とこの先の収入、高齢になっていく母親のことなどはひとまず脇に置き、結婚という社会制度の意味や、有性生殖によって子孫を残していくという生物学的宿命など、あれこれ理屈をこねくり回して考えてみたが、結局のところ人と人とが互いに求め合い年老いてもなお一緒に暮らし続けるのは、まったくの孤独というものに人は耐えられないようにできているからだという結論に修介は達したのだった。離婚して独り身だという人がいつの間にか再婚していたりするが、それはどうしてなのか。孤独が平気だという人もいるだろう。けれども子供もいない、生涯をかけて自分のことを愛すると誓ってくれた相手もいない、その思い出すらもまったくない真の孤独というものを考えたとき、修介はその寄る辺ない境遇にぽつんと独り置かれた際に襲ってくる虚無感にも似た寂寥と不安を想像して、底なしの戦慄を感じたのだった。自分が未だに独身なのは何かが不足しているからに違いなく、自分はその不足に気付くことなく四十になるまで生きてきたのだと修介は思った。結婚は慣例でもなければ義務でもないが、自分はこの先女性と縁がないまま、言わば孤独と添い遂げることになるのだろうか。ちらつく雪の合間からインクの滲んだ絵馬を見つめて、修介は伴侶とともに生きる人生、結婚のある人生を選びたいと思った。

◇◇

 修介はまだ石橋の上にいて、物思いに耽っていた。女のことを考えていると、時間はあっという間に過ぎていくようだった。

 冷たい欄干から体を起こし、古びた石橋を後にして、修介は公園の中に入ってみることにした。足を踏み入れてみればソメイヨシノだけでなく、様々な樹木の植生が豊かだった。城址公園らしいのは、内部にも水の流れる内濠が廻らしてあり、あちこちに土塁が築かれた小高い盛り土の跡がみられることだった。芽吹いた桜の木々の下を歩く見物客たちの姿がちらほらと目に入る。修介はアスファルトに湿り気の残る小径を辿って、かつて本丸のくるわがあった一際小高い場所に上ってみた。ざっと全方位を見渡したうえでやはりまだ開花した幹が一本もないことを確認すると、ふと先ほど見かけたあの乳児を抱いた夫婦のことを思い出し、彼らの姿を探してみることにした。周囲に目を配るように歩を進めながら、自分もあんな風に妻を連れて、運が良ければ子供も授かり、三人で出掛ける日が来たりするのだろうか……と、修介はまたもや気の早いことを考え始め、浮かれついでにそのとき連れている女性が「宇田島早子」であることをイメージし、子供ができたということなら当然二人は生殖行為を完遂させているであろうこともイメージした。正直なところ、修介はお見合いパーティーでカップルが成立したその日から「宇田島早子」とのセックスを何度か想像していた。一度しか会ったことがない見合い相手の女性を、性的な目で見ることの無礼さやはしたなさは修介もわかっているつもりだが、一度エロチックな空想を始めてしまうと、次からはその場面を頭の中に呼び出すことに躊躇いがなくなってしまうのだった。

 やはり、自分は宇田島早子に会いたいのだ、と修介は思った。会って話をしたいし、彼女の話を聞きたい。セックスとか自分のことを好きになってもらいたいとか、そういう願望は最後の最後で構わない。今は彼女と会話をし、彼女のことをもっと知りたい、と思うのだ。

 しばらく公園内を散策してみたが、そぞろ歩きの見物客たちの中にも、花壇の前と木陰に配置されたベンチやなだらかな傾斜を持つ芝生の上にも、あの赤ん坊連れの夫婦は見当たらなかった。おそらくもう公園から出てしまったのだろう。桜が咲いていなければここに長くとどまる理由はないし、さっきの石橋以外にも公園に出入りできる経路はいくつもあるのだから。そう考えて自分も公園をぐるりと一巡したら帰ろうと修介が思ったとき、二十メートルほど先の池の端に建つ木造の東屋が何気なく目に入り、その中でぽつんと一人で佇んでいる女の顔を見て思わずあっと声が出た。どうしてなのかはわからない。けれども修介は一目見てその女が宇田島早子だとわかってしまった。先月のパーティーのときと違って青いフレームの眼鏡を掛けているし、後ろで綺麗にまとめ上げていた髪はすっかり下ろされている。にもかかわらずさっきまで想い描くことすらできないほど曖昧だった顔の印象が、急に細部まで補填され、はっきりと色がついたように蘇ってきたのだ。

 修介にとって宇田島早子はすぐにでも会いたい存在ではあったが、今ここで会いたい存在ではなかった。来週この公園で桜を見物する予定であることはすでにメールで宇田島早子に伝えてあるが、その公園に今、修介はこっそりとデートの下見に訪れているのだ。そんなところを見つかるのはあまりにも恥ずかしいことだった。身を隠したい、このまま気付かなかったことにして立ち去ってしまいたい。そう思ったが、すでに宇田島早子はこちらに気付いて目を大きく見開いている。修介はどう反応したらいいのかわからなくなり、耳ばかりが燃えるように熱くなっていった。不意に宇田島早子の姿が見えなくなった。しかし、その場にしゃがみ込む動作が、ほんの一瞬見えた気がした。四方が吹き放しになっているとはいえ、東屋と修介との間には背の低いこんもりとした植え込みがあり、低く屈んだとしたらちょうど死角になるのだ。訳がわからず数歩ばかり近寄ると、植え込みの向こうで隠れるように東屋の床に蹲っている宇田島早子の背中が見えた。まさか本当にかくれんぼをしているわけではあるまい。修介は熱くなった両方の耳を手で押さえ、回れ右をして来た道を戻ることにした。軽い拒絶を受けた気持ちが修介をさらに急ぎ足にさせた。たぶん彼女は見合い相手と今ここでは会いたくなかったのだ、自分と同じように……。修介は立ち去る足を速めながら、宇田島早子の気持ちを斟酌した。悪いようには考えたくなかった。

◇◇

 耳が熱い。

 修介は公園の駐車場から車を出して、何の当てもないまま、町の幹線道路を走った。いつも利用しているビデオレンタル店の前を過ぎ、ファミリーレストラン、自動車販売店を通過し、紳士衣料品の店、牛丼チェーン店、セルフのガソリンスタンド、そして大きな交差点を直進した。記憶通りに建物が現れる見慣れた街路を、一定の車間距離を取って自動操縦の車のように修介は走らせた。ハンドルを握って前を向いてはいるが、心は上の空だった。修介は、もしも宇田島早子と二人きりで会うことになったら、そのとき自分の耳のことをどう思うか訊いてみたいと考えていた。大きなサイズに生まれついたこの耳を見て、一人の人間の個性として許容できるかどうか、正直な意見を聞いてみたかった。これは、相手に負担をかける質問になる怖れがあった。自分が一番気になっている点を相手に確かめることが、果たして正解なのだろうか。相手に優しい嘘をつかせてしまう可能性もある。修介は悩んでいた。だが、その悩みも空回りに終わるだろうという気がしてきた。自分は宇田島早子と遭遇したあの気まずい場面から逃げ出してしまった。それは致命的な失敗に思えた。どうしてあのとき、余裕のある態度を見せることができなかったのだろうか。宇田島早子をその場に隠れるようなことをさせてしまったのは、四十にもなって女性を安心させることすらできない自分のせいだと修介は思った。

 耳が発熱している。

◇◇

 東京世田谷区の千歳烏山にあるアパートで一人暮らしをしていた二十歳の頃、修介は仕送りとアルバイト代で学費と最低限の生活費を捻出した後は、自由に使えるお小遣いのほとんどを芝居を観ることに費やしていた。きっかけは友人に誘われて観に行った自転車キンクリートという劇団の公演だった。修介はこのとき初めて小劇場の芝居に触れ、生身の人間が躍動する舞台ならではの面白さにすっかり嵌まってしまったのだった。それからは劇場で配布されるフライヤーや「ぴあ」などを拾い読みし、面白そうな劇団を物色しては一人で劇場に足を運ぶようになっていた。中でも当時爆発的に人気のあった劇団ゆめ遊眠社ゆうみんしゃの『贋作がんさく・桜の森の満開の下』という芝居は、修介にとって忘れられない演目になった。

 この芝居は坂口安吾の『桜の森の満開の下』という小説が下敷きになっているのだが、それだけでなく、安吾の別の小説『夜長姫よながひめ耳男みみお』も大きくこの台本の素材に使われているのだった。むしろ、『贋作・桜の森の満開の下』という演劇の主役は耳男と夜長姫であり、『夜長姫と耳男』の方が、この芝居では本筋に扱われている印象が強いのだ。

 しかし、当時の修介は知らなかった。予備知識がゼロの状態で観客席に着いた修介は、芝居が始まってすぐに自意識が過剰反応する事態に直面したのだった。耳の大きな男が主人公として登場したからだ。その耳男を演じているのが劇団の主宰者である野田秀樹だった。脚本を書き、演出をし、役者もこなす野田秀樹は当時から有名人だったが、大きな付け耳を装着した彼を見た修介は、その瞬間から舞台に目が釘付けになってしまった。耳男の野田秀樹が舞台上を所狭しと駆け回り、跳ね回り、早口で台詞を言いまくるのを見つめているうちに、修介は自分の耳が熱くなっていくのを感じたのだった。

 台詞に言葉遊びを取り入れているのは、この劇団の特色だった。女奴隷が手にした懐剣によって耳男の片耳は切り落とされてしまうが、耳男の切り離されたその左耳に、鬼たちが逆人工呼吸と称して死の息吹を吹き込むシーンがあった。蘇生した耳に向かって「耳に心が入った」と鬼たちがどよめくと、擬人化した耳が「余計なことをしてくれたな。がついたところでって言われるだけじゃないか」と言って観客を笑わせていた。けれども修介にはその台詞が自分に向かって真っ直ぐに突き刺さり、体全体から脂汗が滲み出るようだったのだ。

 カーテンコールが終わり、客電がついて周囲が明るくなると、修介は席に座ったまま手元にあったアンケート用紙に芝居の感想を記入した。発熱していた耳の火照りは取れたはずだが、何となく熱いと思ってふと脇に目をやると、後ろの席に座っていた女性が身を乗り出して、修介の手元を覗き込んでいるのに気付いた。

「あの、書き終わったら、私にもそのペンを貸してもらえますか?」

 修介と年齢が同じくらいの女性だった。髪の色が明るくて、肩まである毛先が波打っていた。修介は頷くと、急いで自分のアンケートを書き込んだ。その間も、ずっと女性から見られているような気がして、耳が赤くならないことを必死に祈り続けていた。

 女性の名前は月待画奈子つきまちかなこといった。女性から話しかけられることが珍しかったので、修介はしばらく緊張していた。芝居の感想を話しながら一緒に劇場を出ると、喫茶店でお茶をすることになった。画奈子は偶然にも同じ大学で学年も同じだった。年齢だけが修介よりひとつ上だった。修介としては初対面だったが、画奈子はキャンパスで修介のことを見かけたことがあると言った。

「だって目立ってるよ。あなた、存在感があるもの」

 修介は耳のことを言われたのだと思った。

 画奈子と電話番号を交換し、一緒に芝居を観る約束をして、実際に二人で観に行くようになった。二人とも劇団の嗜好がミーハー路線だったことは共通していて、野田秀樹の「夢の遊眠社」と同様に当時人気があった鴻上尚史率いる「第三舞台だいさんぶたい」、渡辺えり子が座長を務める「劇団3○○さんじゅうまる」、“ランドセルをしょったら日本一”の高泉淳子による「ゆう機械きかい/全自動シアター」など、名の知れた劇団の公演に片っ端から足を運んだのだった。画奈子はどこかにつてでもあるのか、チケットを取ってくるのがうまかった。しかも前列中央という、役者たちの汗が飛んできそうなシートを取ってきてくれるのだ。感激した修介は、お礼の気持ちとして画奈子のチケット代まで支払うようになっていた。

 それにしても修介は不思議だった。演劇に興味がある学生なら他にもいそうなのに、どうして画奈子は自分のことを相手にしてくれるのだろうか。

 画奈子と三度目の観劇を終えたあと、新宿駅に向かうついでに新宿中央公園を通り抜けることにした。夜の公園はベンチで身を寄せ合うカップルが多くて、目のやり場に困った。その夜、修介は千歳烏山のアパートに初めて画奈子を泊めた。

 画奈子が芝居のチケットを取り、修介が二人分の代金を出す、というのが慣例になっていた。芝居のあとは、修介のアパートで必ずセックスをした。

 画奈子は修介の大きな耳に執心していた。愛撫の際は修介の耳を可愛がることを好んだ。指を使って柔らかくほぐしたあと、耳朶を噛み、息を吹きかけ、穴と溝に舌先を這わせ、耳全体を口に咥えてねぶり続けた。行為の最中も画奈子は大きな耳に触れたがった。

 修介の耳は情動に敏感だった。実のところ、子供の頃からそれが修介の悩みの種だった。羞恥や辱めを感じたとき、赤面するよりも先に耳の方が真っ赤になった。それが人目を惹き、赤くなるたびに周囲に囃し立てられたことから、耳の感度はますます敏感になり、ひどいときは女の子がそばに寄ってきただけで顔の両脇に火がついたような状態になった。言うなれば修介の耳は、自意識のアラームなのだった。

 画奈子はそれを面白がった。

「おまえは大きいくせに、恥ずかしがり屋だね」

 そう言って修介ではなく修介の「耳」に話しかけた。そして明かりが灯ったように赤くなるのを眺めては喜んでいるのだった。

 画奈子は興奮すると修介の顔に跨がって、自らの秘所を耳にこすりつけた。粘液で潤わせたとろとろの両耳を、今度はバイクのハンドルを握るようにつかみ、「ブン、ブン、ブーン」と言いながら、アクセルのように回して遊ぶのだった。

 修介は画奈子が初めての相手だったが、これが普通の愛され方だとは思わなかった。

「あなたの耳は兎のようでもないし、馬とも違うわね」

 ある夜、うつ伏せになった修介の背中に馬乗りの体勢でいた画奈子が、いつものように耳をもてあそびながらそう囁いた。

「どういう意味だい?」修介は体の重みで潰された肺から声を絞り出して訊ねた。

「あなた、まだ坂口安吾は読んでない? 耳男のことよ。耳男の耳は、兎みたいに頭よりも上に飛び出ているの。でも、あなたの耳は上ではなく横に突き出ているみたい」
「横?」
「そう。あなたの耳は牛なのよ」
「牛……」
「だから食べたくなるのかも」

 画奈子はそう言って笑いながら、発熱して赤くなった修介の耳をぎゅっとつまみ上げた

 修介はアルバイトの帰りに、京王書房で坂口安吾の『夜長姫と耳男』の小説を見つけて読んだ。たしかに画奈子が言っていたように、耳のことが描写されていた。そして修介は、画奈子と初めて会ったのが、夢の遊眠社の『贋作・桜の森の満開の下』を観た日だったことを思い出した。あのとき、画奈子はすぐ後ろの席だった。芝居の間、前に座る自分のことがいやでも目に入ったはずだ……。

 修介は突然、冷水を浴びたような気持ちになった。考え過ぎだとは思うが、近頃、自分の耳に対する画奈子の執着がひどくなっているのを感じていた。芝居の中でも、小説の中でも、耳男の耳は、女に切り落とされている。女は後ろに回って背後から耳をつまみ一瞬で切り落とすのだ。修介は本のページを開いたまま、しばらくその場から動くことができなかった。

 画奈子には修介の方から別れ話を切り出した。芝居を観るためのお金が続かなくなったと伝えたのだ。画奈子の反応はひどくあっさりとしたものだった。

「そう。わかった。また私と観に行きたくなったら教えてね」

 修介はそのあと三日間、学校とアルバイトを休んだ。

◇◇

 今の気持ちは、あのときに似ていると修介は思った。

 婚活パーティーで出会った女性とデートができるなんて、そんな幸運はそうそうあるものではない。自分のような外見にコンプレックスを抱えているものにとっては千載一遇のチャンスで、これは神様が自分のために結婚をする人生の通路を開いてくれたということなのだ……と修介は先週までそう思っていた。自分は浮かれていた。浮かれると人は必ず足元をすくわれるものなのだ。

 修介は宇田島早子にメールを送ったが、返信はなかった。電話をかけてみようかとも考えたが、しつこい男だと誤解され、怖がられるのも悲しいので、そこまでする気になれなかった。

 二日経って宇田島早子からの返信がないとわかったとき、修介は諦めることに決めた。やはり、自分は何かが欠損しているのだと修介は思った。いつになっても女性の心がわからなかった。自信がなくなり、気付けばマイナスの思考ばかりが頭の中を巡っていた。修介は、黙って映画のチケットを払い戻し、創作イタリアンのお店にキャンセルの連絡を入れた。初デートの日を控えた三日前のことだった。

 そして今、修介は魂の抜けたような顔で、夜桜が満開の城址公園に一人で訪れていた。本当なら、二十年ぶりに女性とデートをしている場所のはずだった。他に行くところがなくて、つい未練がましくこの堀割に架かる古い石橋に立ち寄ってしまった。冷たい欄干にもたれ掛かり、暗い水面にぼんぼりの明かりが滲んでいるのを眺め、イメージの中にある女性の姿を虚しく投影した。今の気持ちは、あのときに似ていた。二十歳のときに、芝居好きの女の子に別れを告げて、そのあと、寝込んでしまうくらいひどく後悔をしたときの気持ちだ。修介は別れる理由に、芝居を観るためのお金が続かなくなったことをあげたが、それは嘘だった。彼女の愛情が怖くなったのだ。腹を割って本当の理由を話せばよかった。女性の前で正直にならなければ、最後には傷つけてしまうことになる。修介はあのとき、それを心に留めたはずだった。それなのに、自分は背中を丸めて蹲る宇田島早子をその場に残して、立ち去ってしまった。発熱して赤くなっていく耳が恥ずかしいばかりに、女性を思いやることを蔑ろにしてしまったのだ。修介は何も映っていない真っ暗な水面を見つめながら、激しい後悔に何度もため息を吐き出した。

「修介さん」

 満開の桜は地面に設置された数基もの照明でライトアップされていた。堀割に沿って植樹された幾本もの桜が、まるで篝火の炎を映した城壁のような景観を作り上げていた。ぼんぼりの明かりに照らされた歩道を大勢の花見客が行き交い、その賑わいとざわめきは、修介のいる石橋の上にも流れ込むように届いていた。若い女性や子供らの嬌声も、当然、修介の耳は拾っていた。

「修介さん」

 二度、同じ声を修介は聞いた。欄干から体を離し、弾かれたように声がする方に視線を向けた。

 石橋の袂に立って、こちらを見ているのは宇田島早子だった。見間違いはない。修介は震えそうになった。

「よかった。今日は会えないかと思っていました」

 そう言って、宇田島早子は近くまで来て笑顔を見せた。髪を下ろし、ベージュ色のトレンチコートを着て、青いフレームの眼鏡を掛けていた。

 修介は震えていた。感激による震えだった。

「ぼくもです。ぼくも、もう会えないと思っていました」

 宇田島早子を見て、修介は一瞬にして察した。そして、自分の途方もない迂闊さを悔いた。どうして一言も断らず、払い戻しやキャンセルをしてしまったのだろう。

「映画館でぼくを待っていたんですか」
「はい」
「二時間も?」

 宇田島早子はにっこりと笑って頷いた。

「イタリアンのお店にも?」
「はい、行きました。修介さんのメールに予約時間が書いてあったので、そこでなら会えるんじゃないかと思って」

 修介は事情をすべて打ち明けたあと、直角に腰を折って謝罪した。

「ごめんなさい!」

 修介は耳が発熱しているのを感じたが、今はそれどころではなかった。

「いいんです、あやまらないでください」宇田島早子が慌てたように顔の前で手を振った。「私の方こそうまくお返事できなくて。今日、お会いしたときに話そうと思っていたんです。ごめんなさい」

 二人で互い違いに頭を下げているのがわかったら、何だか急に可笑しくなってきた。

 修介は宇田島早子を誘って、二人で公園の中を歩くことにした。適度に花見客がいて賑わいがある方が、却って二人きりでいる緊張が和らいだ。

 訊ねてみると、先週この公園に訪れていたのはやはり宇田島早子だった。彼女もこっそりとデートの下見に来ていたのだという。修介を見てひどく驚き、思わず隠れてしまったとのことだった。すべて正直に話してくれる彼女に、修介は改めて好感を持った。

 先月のパーティーのとき、彼女が三十三歳で、保健所に勤めていることは聞いていた。短い面接時間だったが、修介は彼女が「歴史好きな女子」であることを知り、人物では坂本龍馬が一番好きだと語ったのが印象に残っていた。修介が、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を学生時代に読んだと話すと、急にキラキラした表情になり、今度語り合いましょうねと彼女は言ってくれたのだった。それが、修介は嬉しくて、彼女をパートナーとして選んだのだった。

「婚活って不安しかないですよね」

 アスファルトの小径を歩きながら、彼女がぽつりと言った。

「私、あのとき思ったんです。このパーティーに集まっている人は、すべて私の類友るいともなんだ、って」
「……類は友を呼ぶ、の類友のこと?」

 修介は、先月の婚活パーティーを思い浮かべながらそう訊ねた。

「そうです。偶然に人が集まって接点が生まれたわけですよね。年齢も、職業も、年収も、すべてかけ離れているのに、どこかに共通するものがあるから引き合わせられた。私はそう思うんです」
「たしかに、普通に暮らしていたら、ぼくと早子さんの間に、接点は絶対生まれなかったような気がする」
「ですよね。だからあのとき、この中に気に入った人がいたら、その人を選ぶことは、決して大きな間違いではないと思ったんです。そんな風に考えたのも、やはり不安があったからなんですけど」

 彼女にどんな不安があったのか、修介は気になった。しかし、今それを詮索することはさすがに憚られた。

 わざと小径から外れて、短く刈られた草むらを歩いた。急な斜面に木枠で囲んだだけの階段が拵えてあり、そこを二人で上って小高い場所に立った。

「ここから俯瞰で見る桜も綺麗だな」修介は思わず声が出た。初めてのデートなのに、いつの間にかリラックスしている自分に気付いて修介はハッとした。

「今私たちが立っているのは土塁の跡ですね。敵の侵入を防ぐ目的で造られた盛り土です」彼女の口から滑らかに言葉が飛び出した。

「さすが歴女。城の構造に詳しいんだね」
「この下を見てもらえますか。細い路があって、土塁を割るように中へ続いていますよね。元はこれが城への入り口なんです。虎口こぐちと呼ばれています。虎に口と書いて」
「虎?」
「はい、虎です。私、ある人から、君は虎口みたいだね、と言われたことがあるんですよ」
「どういう意味でその人は言ったんだろう」
「人の侵入を許さない。つまり、警戒心が強いと言われたようなものですね。まあ、でも当たってます」
「ぼくはそういう印象を早子さんからは受けなかったなあ。ぼくのことを警戒してる?」
「そうですね、じゃあ、今から警戒しましょうか?」

 彼女は笑った。修介も笑った。

「早子さんが虎なら、ぼくは牛だと言われたことがあるよ」

 修介はほんの少し緊張しながら切り出した。

「どの辺が牛ですか」
「ぼくの耳は生まれつき大きくて……。頭の上から飛び出していれば兎か馬だけど、横に突き出ているから牛だそうだ」
「牛、可愛いじゃないですか。私は牛、好きですよ」

 修介はライトアップされたたくさんの満開の桜を遠くまで見渡した。どこまでも満開の桜が続いているようだった。

「修介さんが牛で、私が虎。丑寅うしとらですね。面白い」
「丑寅。なんか聞いたことがあるぞ。鬼門かな」
「そうです。北東の方角は鬼門と呼ばれて、昔から忌み嫌われていました。平安京や江戸城も、風水を元に造られているので、鬼門の方向に京都だと比叡山延暦寺、江戸城だと上野の寛永寺が鬼門封じのお寺としてあるのは有名ですよね」
「詳しいね。さすがだ」
「お城を造るときは真似をすることが多いので、この城址も、北東の方角に……」

 彼女はスマホを取り出して方位アプリを起動させた。そして片足を軸にぐるりと回転し、北東の方角に体を向けたようだった。

「あそこに稲荷神社が見えますね。たぶん、このお城の鬼門封じです」

 修介はそうやって楽しそうに話す彼女を見つめて、心から愉快な人だと思った。もっと長くこの人といたい、もっとたくさん、この人のことを知りたいと思った。修介は彼女に提案した。

「じゃあ、丑寅コンビの記念として、今からあの神社でお参りをしよう」
「賛成です」
「それから、お腹が空いたので、居酒屋でよかったら一緒に行きませんか」
「賛成です!」

 飛び跳ねるように喜ぶ彼女を見て、修介も嬉しくなった。

「修介さんは、お酒は強いですか」
「ぼく? ぼくはザルだけど。早子さんは?」
「うわばみです」

 花見客が振り向くのも構わず、二人で笑った。修介は耳を真っ赤にさせながら笑った。お腹が痛くなるほどこうして女性と笑い合っていることが、修介には信じられないことだった。通路が開いたのかも知れない。修介は目の辺りを拭いながらそう思った。

(了)



四百字詰原稿用紙約三十八枚(13,900字)


◇◇◇

■参照・引用 図書リスト

『贋作・桜の森の満開の下』 野田秀樹 新潮社

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『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』 坂口安吾 岩波文庫
・「桜の森の満開の下」
・「夜長姫と耳男」

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■参考動画

NODA・MAP 「贋作 桜の森の満開の下」(2018)
(通し稽古)


※筆者より

本文で語られている夢の遊眠社『贋作・桜の森の満開の下』は、1989年初演、1992年再演の2バージョンがあります。
このときの「耳男」は野田秀樹が演じていました。

動画でご紹介したのは2018年版の『贋作・桜の森の満開の下』です。
このときの「耳男」は妻夫木聡が演じています。
野田秀樹は「ヒダの王家の王」の役で登場しています。

(筆者は1989年の初演を鑑賞しました。話の内容はよくわからなかったのですが(当時)、最後はなぜか感動しました)



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