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掌編小説

◇◇◇


 夏が終わって学校が始まると、顔に薄い膜がかかるようになった。

 わずかに息苦しい気がするのはこの膜のせいだろう。一度も言葉を交わしたことがないのに、顔見知りばかりやたらと増えるのが学校という場所だ。私の顔に貼り付く膜のことが学校中で噂になっていたとしても、私がそれを知ることはない。

 膜は簡単には取れてくれない。半透明のまま、肌にしっかりと食い込んでいる。帰りの電車の中で、顔に爪を立てて膜を剥がすように掻き毟ってみたが、膜はびくともしない。頬をつねり、顎を引っ張り、額を引っ掻き、鼻筋をこすり、眉間をつまむ。私が乗降扉付近で繰り返していたこれらの行為を、偶然乗り合わせた同じ高校の生徒に見られてしまった。よりによって男子に。

 私は俯いた。耳が燃えているみたいで恥ずかしい。彼はまだ見ている。まだ見ている。まだ見ている。居た堪れない。苦しい。

 一昨日、私は町のスーパーマーケットで妊娠している女性を見た。隣でショッピングカートを押している背の高い男性は旦那だろう。そう思ったとき、この二人はセックスをしたのだという事実が私の心を占めた。セックスしたことを恥ずかしげもなく、公の場で宣言をしながら買い物をしているのだと思った。

 同じ日に、私は駅の改札付近で体を寄せ合っている高校生の男女を見た。ただの友達関係でないことは、腰から下を密着させていることからも明らかだった。あの二人はセックスを経験済みだ。あの高校生たちは、自分たちがたった今発情していることを公衆の前で見せつけているのだ。

 学校には通い続けている。けれども、私は一日の大半を俯いて過ごす。誰かに見られないためではなく、自分の視界に誰かを入れないためだ。

 傘がさせる秋霖の季節が終わった。

 私の顔を取り巻いていた膜は徐々に広がり、全身にまで及んでいる。他人に私はどう見えているのだろう。半透明で不明瞭な姿だろうか。膜は日々成長し、厚みを増しているようだ。もう剥がせないところまで来ているのかも知れない。いっそのこと、このまま膜に飲み込まれてしまおうか。

 オフホワイトのパーカーと洗い過ぎて色が落ちたデニムのスカートで散歩に出る。河原の遊歩道を散策していたら、土手に腰掛けていたカップルがキスするのを目撃した。その先では、リードに繋がれた犬同士が交尾の体勢を取り、飼い主たちが慌てていた。目の前で秋のトンボが二匹、お尻が繋がったまま飛んで、私の鼻先を横切っていった。

 彼らは見られても構わないのだろうか。私に見られているというのに、彼らや彼女らは発情し、接吻し、性交をしている。こんなに恥ずかしいことを、人前で臆面もなく披露して平気でいる。

 遊歩道の向こうから、自転車に乗った男子が二人、こちらに近付いてくる。学校指定の運動着と紺色のウインドブレーカーは私の見慣れたものだ。向かって右側の生徒の顔に見覚えがあった。電車の中で私のことを見ていたあの男の子だ。

 顔が熱くなって、私は歩調を緩めた。急に手と脚の動きがぎこちなくなる。だが、私は俯かなかった。俯かずに、道の左側に体を寄せて彼らとすれ違った。私は後ろを振り返る。男の子は私に気付いていなかった。遠ざかる自転車を見送りながら、私の中で腑に落ちるものがあった。彼の楽しそうにしている顔が目に焼き付いた。

 一人で部屋にいるとき、私は恥ずかしながら発情する。散歩の途中であっても、通学の最中であっても、誰にも言えないが密かに発情している。セックスのことを考えては、それを全力で隠している。羞恥よりも欲情を優先することなどあり得ないと思い、頑なに清廉でいようとしている。

 部屋に戻った私は発情したまま服を脱ぎ、発情したまま下着を取った。発情したまま靴だけを履いて、平気な顔でまた表へ出る。私はあの人たちのように振る舞えるだろうか。わからない。でも大丈夫だ。だって見えるわけがない。私は膜で覆われている。

(了)


四百字詰原稿用紙約四枚(1588字)


※この作品は自作の詩で同名タイトルの『膜』を、掌編のスタイルに改めるというひとつの試みを志向したものです。(作者)



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