アン・タイラー『アクシデンタル・ツーリスト』《砂に埋めた書架から》55冊目
アメリカ、メリーランド州最大の都市、ボルティモアに在住する作家、アン・タイラーは、1988年に『ブリージング・レッスン』という長編小説でピュリツァー賞を受賞する。『アクシデンタル・ツーリスト』(1985)はその前作にあたるもので、著者にとっては十作目の長編小説である。この作品はピュリツァー賞の最終選考に残り、アメリカでベストセラー、そして映画化されている。
私がこの小説を知ったのは、文芸誌『すばる』1989年7月号の書評欄に取り上げられていたことがきっかけだった。レビュー記事の執筆者が《おもしろい。ぐいぐい読ませる。笑わせる。しんみりともさせる。これぞ、小説中の小説》と手放しで褒めていたのである。《しかも、小説本来の役割だった情報の提供もふんだんにおこなわれていて、これを読むと、水道の直しかたも旅先での洗濯のしかたもイヌの訓練法も、いやはや、いろんなことが分る》《生活の知恵袋としての小説。生きていくのに、あると便利な小説》とこのような調子でずっと大絶賛しているのである。猛烈に興味が湧いた。当時の私は、海外小説を読み慣れていなかった。けれども、この本はすごく読んでみたくなり、衝動的に購入したのである。今になって思うのだが、アン・タイラーの作品は、酸いも甘いも噛み分けた大人が読んでこそ、人生の機微を味わえてより深く楽しめる性質がある。けれども、そのようなことは当時の私は知る由もなかった。私は若すぎた。喜び勇んで買い求めたわりには、小さめの活字と一ページ二段組の見えない圧に辟易し、最初の方を読んでぱたりと閉じ、早くも積ん読の憂き目にあわせてしまったのである。
歳月が経って大人になり、昨年、ふとした気まぐれから背表紙の色褪せた『アクシデンタル・ツーリスト』を手に取って読んでみた。中年の夫婦が、海辺で一週間滞在する予定を早く切り上げて、車で帰宅する場面からこの小説は始まっている。雨のハイウェイを走る車の中で、夫婦の会話がすれ違い、静かに険悪な雰囲気が漂う。そして助手席の妻が以前から決心していたように「離婚したい」と切り出すのである。冒頭からわずか四ページだが、説明的な記述は一切ない。自然な会話と最小限の的確な描写で、この夫婦がそれとなくうまくいっていないことを薄々感じさせ、何が原因なのか、二人の性格や価値観がどういうものかが、明確にではなく、じんわりとほのかに伝わってくるのだ。うまい。
この一章を読み終えて、どうして自分はあのとき読むのをやめてしまったのだろう、と思った。抑制された筆致、さりげなく施された数々の技巧、その見事さ。若い頃の自分はアン・タイラーの良さに気付けなかった。だが、大人になった今ならわかる。中年夫婦の別居から始まる小説なので、さぞかし暗い話だろうと思われるかも知れないが、まるで違う。先のレビュアーが絶賛するように、取り立てて大きな事件が起こるわけでもないのにこの小説は、すっごく面白いのだ。
主人公はメイコン・リアリー。ボルティモアの旧市街にある一戸建てに、妻のサラと暮らす四十代の男性である。メイコンの仕事は旅行のガイドブックを書くことだが、ただのガイドブックではない。ビジネスでやむなく旅をしなければならなくなった人々のためのガイドブックなのである。その都市に観光目的で訪れたわけではない人々の一番の関心事は、どうすれば旅先でも家にいるのと変わりなく過ごせるかということにつきる。メイコンの本は、そのようなやむなき旅人(アクシデンタル・ツーリスト)たちに特化した仕様になっているのだ。彼の日頃の暮らしぶりも、自分で決めたシステムに従い合理的にできている。サラが離婚を切り出したのも、そのような性格に嫌気が差したこともある。だが一番の原因は、一年ほど前に、十二歳になった一人息子のイーサンが、キャンプ先で強盗事件に巻き込まれて命を落としたからだった。愛するものを失った喪失感が、夫婦の歯車を狂わせてしまったのである。
このように、深刻な事情が夫婦の背景にはある。しかし、何度も言うようだが、この小説は暗くならない。
メイコンが生まれ育った実家であるリアリー家には、メイコンの妹ローズが住んでいるのだが、長兄のチャールズ、そして、次兄のポーターが、それぞれ離婚をして戻って来ている。独身のローズは兄たち二人の身の回りや食事の世話をしており、そこに自宅の地下室で骨折したメイコンも、身を寄せることになるのだ。まず、このリアリー家の兄妹が風変わりな人たちで面白い。メイコンが連れているエドワード(ウェルシュ・コーギー)がなんともやんちゃな犬で、人に襲いかかったり咬んだりする癖があるのも面白い。同居するチャールズやポーターやローズの手を焼かせ、怯えさせることになる。困ったメイコンは、犬の調教を若い女性の訓練士ミュリエルに頼むことにするのだが、これをきっかけに彼女と大きな関わりを持つようになっていくのである。そのミュリエルがまたすこぶるユニークなのだ。
この小説は、恋愛、結婚、子育て、成長など、普通の人々の暮らしを扱ったファミリー小説である。登場人物たちをとても身近に感じてしまうのもそのせいかも知れない。アン・タイラーは、ちょっとだけ出てくる人物でも印象が残るように書くことに長けていると思った。メイコンの留守を心配する近所のおじさんや飛行機で隣に乗り合わせた乗客など、そこにしか出てこないのに記憶から離れない。このような人物を造形することは、簡単そうにみえて実は難しい。
私はこの小説を、およそ一年掛けてじっくりと読んだ。リアリー家とそれを取り巻く人々に親しみが湧き、本のページが残り少なくなるのを惜しんだ。メイコンは最後に大きな決断をするが、読み終えた直後、私は「本当にそれでいいのかメイコン」と言いたくなった。だが、しばらく経って、きっとそれで正しかったのだと考えを改めるようになった。
全部で1~20まで章がある。私は、メイコンが姪のスーザン(ポーターの長女)と二人で、フィラデルフィアに出掛ける十章や、メイコンと一緒に飛行機に乗ったミュリエルが、「わたし、飛んでる!」とはしゃぐ十二章、クリスマスにミュリエルの両親と会う十三章、家族が勢揃いする十六章、をとても気に入っている。読んでいる間、私はこの素敵な本の中を旅する紛れもない旅行者だった。ずっと逗留していたいほど、今もここを離れがたい。
最後に、先の『すばる』のレビュアーが、この『アクシデンタル・ツーリスト』に寄せていた言葉を引用したい。
《夢がなくては生きてはいけないが、夢だけでも生きてはいけないという生活の原理をきちんと抑えたような、そんな小説》。
2022/02/14
書籍 『アクシデンタル・ツーリスト』アン・タイラー/田口俊樹[訳] 早川書房
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■参考資料
『すばる』1989年7月号
文春文庫 〈アン・タイラー コレクション〉
文春文庫の〈アン・タイラー コレクション〉。
いつか読むつもりで集めていたが、5番目に刊行された『あのころ、私たちはおとなだった』が抜けているのを今頃になって悔やんでいる。
アン・タイラー作品は、傑作の呼び声高い『アクシデンタル・ツーリスト』を含めて絶版が多い。もっと読まれて欲しい作家だ。
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今回の書評(感想文)は新作ですので、いつもの【追記】はありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
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