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やけ食いするなら村上春樹 『村上さんのところ』

アメリカ映画における失恋女は、車を運転しながら、涙といっしょにドーナツをやけ食いするみたいだけど、この本もやけ食いのように買った。

2018年夏、大阪は驚くほど電車が止まった。地震のとき、大雨のとき、台風のとき。「JR私鉄各線全線運転見合わせ」なんていう冗談みたいなことが起きて、職場から帰れなくなったことが2度ほど。そのうちの1回、復旧した電車をパズルのように組み合わせて、半日かけてギリギリ徒歩圏内まで帰ってきたときのこと。疲れとイライラを抱えて本屋に突進した。文庫のくせに600ページ以上、どうしてこんなときに重たい本買ったんだろうと自分にまた腹を立てながら家に帰った。で、読むと、非日常にザッパンザッパン波立っていた心が少しずつ凪いできた。

この本は、村上春樹が読者の質問にこたえた問答集。
17日間の募集期間のなかで、読者から寄せられた3万7465通すべてに3か月以上かけて目を通し、そのなかから1割、3716通を選んで返事をしたという。
「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪を、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいでした」とまえがきで語る。そりゃそうだろう。

なんだか、村上春樹って、おそろしく普通の人だ。(15歳で『海辺のカフカ』に連れ去られ、17歳で『ノルウェイの森』に大人を見つけたかつての少女にとっては、『職業としての小説家』ではじめて村上春樹の顔写真を見てしまったときのがっかり感はすごいものがあった。ふ、ふつうのおじさん…)

返事の内容は、言っちゃ悪いがひじょうに地味。胸がすくような、アクロバティックな大技みたいなものはない。
生きるのがつらいですという人には、「掃除でもいいです、身体を動かしましょう」。メッセージを伝えるときに意識していることは問われれば「親切心」と即答する。身体を動かせ、親切でいろ。小学校で聞くような道徳だ。

村上春樹の普通さって、平凡ということではない。究極の普遍、みたいなものを人間のかたちにしたらああなるのではないかと思う。無印良品的と言えばいいか。
この問答集を見ていると、「THE SHOP」という定番品だけを選り抜いたお店を思い出す。コップならコレ、ハサミならコレ。奇抜なことななにもなく、一見きわめて普通なのだけど、細部まで考え抜かれた「THE」と呼べるようなプロダクト。徹底されたタフな用の美にうっとりする感じ。


村上さんは「頭の切れる人って、こんな面倒なことはまずやらないと思います」とまえがきで漏らす。そうなんだろう。その面倒なことをコツコツを、気が遠くなるほどコツコツとやってできあがったのが村上春樹なんだなあと、なんだか身近に感じるような、逆に遠く感じるような。
心が揺れたときは、不動のものにつかまるといい。安易にジャンクフードに逃げると余計つらくなるから、こういう山盛り千切りキャベツを無心で食べるといい。青虫になったような健全な精神が手に入る。

▼『村上さんのところ』村上春樹/新潮文庫 より抜粋https://www.shinchosha.co.jp/book/100170/

質問#118
村上さんに是非ご意見を伺いたいのですが、たとえば仕事をやめた時など、よく世間では「若いんだからまだまだやり直せるよ」と言いますよね。でも若い世代?の僕としては、言うほど簡単にやり直せることばかりでもないように思います。そういう発言ってちょっと無責任というか、他人事すぎやしませんか。村上さんはどうお考えですか。(ノーウェアマン、男性、31歳、教員)
▼あのですね、他人のことをきちんと真剣に考えてくれる人なんて、世の中にはそんなにいないんです、「若いんだからまだまだやり直せるよ」というのは、「まあ。よくわかんねえけど、適当にやれや」というのと同じことです。とりあえず紋切り型のレスポンスをしているだけです。紋切り型のレスポンスなんだから、無責任も何もありません。ただの他人ごとです。冷たいようですが、自分のことは自分で考えて、自分で判断し、自分で責任を取っていくしかありません。というのが僕の基本的な考え方ですが、役に立てなくてすみません。

ド正論のど迫力。

質問#291
牡蠣はフライで召し上がるのがいちばんお好きですか?
牡蠣が一番美味しかったのはどこの国でしょうか?(しゃびにゃん、女性、63歳、ピアノ&アコーディオン弾き)
▼スコットランドのアイラ島でとれる小さな新鮮な生牡蠣に、アイラのシングル・モルトを注いで、するっと一口で食べるのが最高においしいです。こんなおいしい食べ物はまたとありません。暖炉がぱちぱちと音を立てている、アイラ島の小さなレストランで食べました。それ以外には何の音も聞こえません。そのあとに食べるアイラの牛肉も、潮の香りがして香ばしいです。牛が海藻を食べるせいです。 

新聞記事レベルに削ぎ落とした情景描写なのに、どうしてこんなに美味しそうなのか。

質問#208
村上さんは、今までの人生のなかで100パーセントの女の子に
出会ったことがあったと思いますか?(あめとゆき、女性、32歳、主婦)
▼いいえ、ないと思います。
でも「なにも100パーセントじゃなくてもいいじゃないか」と
思わせる女性に会ったことはあります。
そういうのもまた素敵なものですよ。

たまにものすんごいロマンチスト。ノックアウト。


うめざわ
余談1:村上春樹嫌いの人も、エッセイとかこれは楽しめると思うんだな。ヤクルトスワローズと猫とビールと走ることが好きな、ふつうのおじさんだから。
余談2:ちなみに、村上春樹が「よくぞ訊いてくれました」と腕まくりしたのは、読書感想文を書くコツ。秘伝は質問#376。
余談3:トップ画はnote画像置き場の写真借用。簡単なビールのおつまみは?と聞かれて答えた「れんこんの素揚げ」。レシピも6行かけて丁寧にかいてあるんだ…(質問#236)

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