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「美について」(小林秀雄「当麻」より)

「美について」(小林秀雄「当麻」より)

     

「(中略)、無要な諸観念の跳梁しないそういう時代にに、世阿弥が美というものをどういうふうに考えたかを思い、そこに何んの疑わしいものがない事を確かめた。『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』。美しい花がある、『花』の美しさというものはない。彼の『花』の観念のあいまいさについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きよりはるかに微妙で深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい、彼がもし今日生きていたら、そう言いたいかもしれぬ」(角川文庫・無常ということ『当麻』より」

「美しい花がある、『花』の美しさというものはない。」
 この物言いに対しては様々な解釈がある。

 誰にでも分かるように、という批判がある。
 だが、簡単に語れるものと、語れぬものがあるということを小林秀雄も書いていた。当然である。

「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」と、世阿弥が書いたようなことを個々人がそれぞれ極めぬ限りは、様々な解釈で百花繚乱の様相を呈するであろう。

 口当たりのいい蜜の如き「多種多様のそれぞれの美がある」という物言いは各自の虚栄を充たすであろうから。
 
 敢えて言えば、相対化されたものの意識、観念に美なる概念は存しない。
 これを前提として真の「美」なるものを感受する。
 だが、それを美という概念をもちいるかは別物なのである。

 この考察は「自由」云々の問いにも連動する。

2006年10月5日

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