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「美と倫理について」

「美と倫理について」


 美は悲劇を前提とする。だが悲劇は美を前提としない。灼熱する倫理が日常において美を完成させる。灼熱する倫理こそ美の精髄である。

 悲劇は美の母親である。それは批評の極点として、透明な張りつめた空間として。
 小林秀雄の「芸術家は最初に虚無を所有する必要がある。」という言葉はこの意味において正当である。ただ一般的には不当に理解されているにすぎない。

 種々の、個々の美があると言われる。嘘である。それはとりあえずのバランスを保つための方便に過ぎぬ。種々の、もしくは個々の関係というものはある。種々の法則性、関係等々をどれだけ概念によって認識しても美をつかむことは出来ない。すなわち関係を、法則性を認識する視点自体が既にある関係に拘束されたものであるからである。精神の自由さと美とは既にイコールである。見る、感じる、知るが既に観ることになることによって、意識自体がすみずみまで活性化し、生き活きとした感性、すなわち純粋感覚を所有する。あらゆるものが、同等の、また異質の響きをかなでる。――多種多様の違いを、それぞれの同等の高さと異質の多様な視点でとらえ感じるのみではなく、それ自体を体験、生きることによって、美といわれる生命を感取するのである。

 自明のことだが通常の価値観はまるきり役に立たない。灼熱する倫理そのものが、判断する。そして、それは完全に「個的視点」から決意される。美が他人の魂を土台から揺さぶる表現というものは全てそうである。あくまで「個的」なものを土台とするために、美たりうるのである。普遍性自体がどれ程すぐれて表現されたとしても、それが真理たりえたとしても、美たりえない。それが完全に体得された時のみ、多種多様な、もしくは、個々の美はある、と言いうるのである。まぎれもなく美は確かに存在する。

 かつて、フランスの詩人アルチュール・ランボオが「美神と刺しちがえた」と言ったがあれも嘘である。個人が美神と刺しちがえることは厳密にはできぬ。彼は彼自身の存在をささえる意識そのものと刺しちがえたにすぎない。それにしても厳密にではない。厳密にではない?
 その厳密にではないところの苛立ちをして彼は彼の生き方を強引に変えた。それが彼の悲劇であって、彼は美の一歩手前で力尽きた、と言うことが出来る。
 彼は批評精神の極北で息絶えた。あえて言えば、それは彼の情のもろさであり、やさしさである。その地点をさらに一歩越えてふみだすには彼はまだ若すぎた。いや時代が熟していなかったともいえる。

 だが今日に生きるものはそれを超えて真の美に到達する義務がある。それには日常において灼熱する倫理を所有せねばならぬ。
 それは確かに苛酷ではあるが不可能ではない。その一歩一歩の歩みこそが何より貴重なものである。美には到達しがたい。今日批評精神は我々を十重二十重に取り囲み、縛りつけている。真剣に、より誠実に求めようとすることすら困難な時代にあって、美なるものは我々を導く力を持っている。

 美は真理を含んでいるが真理は美を含んでいない。このことは理解されがたい。真理が善と手をたずさえて初めて美が活動を開始するのである。そしてその意識を蔵した者が日常の中で「炎眼」を所有する。

一九八六年三月一日

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