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『芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術を決して了解する事は出来ない』

あるサイトに掲載したものです。
冒頭の一部です。
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 『芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術を決して了解する事は出来ない』
テーマ:シュタイナー著「自由の哲学」

 私が書いた「洞察力」「玄人」の考察内容は小林秀雄の「批評家失格」の中に書かれている次の引用文と同じような問題を含んでいます。

「― 『芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術を決して了解する事は出来ない』と。これは誰の言葉だか忘れたが或る並々ならぬ作家が言ったことだ。一見大変いい気に聞こえるが危ない真実を貫いた言葉と私には思われる。普通の作家ならこうは言うまい、次のように言うだろう。『芸術は人生を了解する一方法である』と。これなら人々はそう傲慢な言葉とは思うまい。だが、これは両方とも同じ意味になる、ただ前者のように言い切るにはよほどの覚悟が要るだけだろう。理屈を考える事と、考えた理屈が言い切れる事とは別々の現実なのだ。
 芸術の、一般の人々の精神生活、感情陶冶への寄与、私はそんなものを信用していない。(中略)彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来たのだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と芸術とは放電する二つの異質である。」
 これは誰の言葉か、と言っているがまぎれもなく小林秀雄自身が考えた言葉である。

 私はこの重要な問題を拙著詩集「暗き淵より」で共感、反論を交えて書いている。

「生活と芸術とは根本において密接に結びついている。一見、見かけの上でそう見えぬのは生活の、生存の意味への問いの不徹底であり、芸術家が芸術というものを偏見で見、とらえているからである。―― 根本において、芸術、宗教、科学は同根から派生しており、それを繋ぎ、橋渡しをし、パイプ、階段を作ることが表現であり、その意味では芸術であれ宗教であれ一方法であり一手段にすぎぬ。―― 生活なくして何ものも生じ得ない」と。(拙詩集・暗き淵より・表現について)

 ここで用いられている「生活」を「自由の哲学」でいうところの「現実」という概念に置き換えると理解しやすいかもしれません。
 概念でも個別概念と包括概念があります。個別概念は相対的なもの、個別的、主観的なものと結びつきやすく、包括概念は理念と結びつきます。理念はさらに包括概念としての人間の理念へと向かいます。この人間の理念の萌芽は人間存在である限り誰にでも具わっているものです。意志の根拠である「萌芽」これが認識衝動となります。繰り返しになりますが真の「現実・世界認識」、自己認識の為の道具として人間には「思考」が自我と連動して活動しています。

 小林秀雄は「私は客観的尺度などちっとも欲しかない。客観が欲しいのだ」(批評家失格1)という風に言っていますが、彼が「思考そのもの」を実感、自覚したら「彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来たのだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と芸術とは放電する二つの異質である。」というような言葉は吐きません。

 小林秀雄自身は更なる意識段階、高みへと上昇する事は可能であったと思いますが、周りを観たら如何ともし難い程の「地獄絵図」の様相を呈していることを痛感します。さらには天才と称されている表現者達への偏見と誤解が蔓延していると痛切に感じ、個人的な表現を止めて、一般人と真摯な表現者達との懸け橋として「批評家」を選び、それを自らの立ち位置とする事が「自分の役割」であると彼は胸中の奥深くで決断しました。それが「批評家失格」という表明です。

 小林秀雄に対する大方の批判は「彼は天才達しか扱っていない、一般に生きている人々を無視している。」というものであり、これは無理解、偏見、誤解以外の何ものでもありません。
 下記の引用文を読めば彼の全ての人々に対する肺腑を突くような悲痛な叫びの如き「深い真面目な愛」が読み取れます。

「ランボーⅢ」の中で小林秀雄ははっきり明言する「――彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼はランボーであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。」(拙著小林秀雄論より)

 さらに小林秀雄自身は、人間は更なる高みへと、シュタイナー的世界観、人間本来の理念へと至るべきだ、という含みを秘めた「意志の萌芽」の如き言葉を発しています。

「(前略)青山二郎との対談の中で小林秀雄は日常秘めていた本音を語っている、彼は言う「否定する精神なんてないさ。僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後はあすこなんだよ。 キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、 だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば自分が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。――」

 さらに、「牧師だって絵かきと同じだ。」と。又、「――何のためにパレットを人間が持たなければいけないのだ。絵の具を混ぜなければいけないんだ。どうしてそんなまわりくどい手 段を取るのか、キリストみたいに一目でもって人が癒されればいいじゃないか。何んで手が要るんだい、道具が要るんだい、ゴッホはそういうところまで来たのだよ。だけど それがゴッホの運命さ、そんなことをゴッホはとてもよく分かっていたのだけれども、どうすることもできなかったんだ。」と。そのゴッホの痛感した、味わった「い かにかすべきわが心」を、小林秀雄も骨の髄まで味わった。青山二郎はそんな思いは「あこがれ」にすぎぬと言う。この溝は深い、――。小さな円も大きな円も同じ円だからで ある。ただ青山二郎はそこまでしか見えなかったにすぎぬ、人間存在に対する不信が完全に払拭し得なかったに過ぎぬ。その視点からすれば小林秀雄は所詮「蒸気ポンプ」の 煙にすぎないのである。もしくは魚をつる、その手つきだけで、等々。

 ゆえに小林秀雄 としては「――自分の運命を甘受するんだ。甘受するよりしょうがない。考えればそういうところに行くのだよ。」と言わざるを得ない。断わっておくが、青山二郎に友情が無いなどとここで言っているわけではない。むしろ、深く小林秀雄には同情している、ただ、その同情のべールが小林秀雄の真意を汲み取ることが、観ることが出来なかったにすぎぬ。――だから小林秀雄は自分に与えられた運命を「甘受」する、するしかないとしか言えぬ、語れぬ。(後略)」(拙著小林秀雄論より)

 かなり引用文が多くなりまして申し訳なく思います。しかし、私は引用文と私自身の考察文をもっと入れたく思っています。重要な問題は簡単に説明する事自体がとても難しいからです。

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