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「精神の糧」

「精神の糧」

2010年12月23日

「精神の糧」(1)

自明であるが、我々人間存在は生物に属している以上、生存の為には生命を維持する為の養分を必要とする。

人間に限らず、他の生命体も生存を維持する為には自然界、地球や宇宙からも可視、不可視に関わらず養分を得ている。こんな誰でも分かり切った事実は言うまでもない事である。だが、人間である我々は単なる肉体の生存のみならず魂、精神の養分をも得ているし、欲している。「人はパンのみに生きるに非ず」というよく知られた言葉がある。無論、生命保持、生存の為の生存という見解もある。精神の糧などというものなどは人間のみに生じ得る空想幻想であるという見解もある。これら多様な視点観点の生存の問い自体を人間の得手勝手な都合のよいこじつけという哲学者が今日の趨勢であることは自然科学の加速的な発展発達に依拠する。

「絵に描いた餅は食えぬ」という我々人間存在も所詮は他の如何なる諸生物体と基本的生存条件は変わらぬ、それ以上でも以下でもない。それ以上と思うのは人類の驕りでしかないという唯物論的世界観に依拠した見解も今日では大多数の人々の魂を浸食しているのである。此処の観点に呪縛され、世界観となる限りは我々人類も他の微生物も含めた生命体と同等の存在である。この観点を基点とする限り精神の糧など人間が自己弁明の為に捏造した観念にすぎぬ。ましてや芸術などというものは単なる暇つぶし、贅肉であり趣味趣向にすぎない。かつてサルトルが言った「飢えた子供達、人間達を前にしてに文学は有効か?」などという観点のずれた埒もない事を言うような事となる。

この問題は依然として決着はついてはいない。無論、今後もそう簡単には万人が納得するような答えは出まい。

今日の世の有様は混沌かつ曖昧な状況のまま、いよいよ異様な混濁混乱した問題を裡に孕みつつ進行しているのである。


「精神の糧」(2)

―孤独なる魂―

「徒然なるままに、日ぐらし、硯に向かひて、心に映りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」


有名な吉田兼好の「徒然草」の書き出しである。この短い文章に描かれているのは或る種の孤独であるが名状しがたい痛みを伴う孤独観である。

いわゆる西洋的な意味での個人の孤独の心理を暴露し、嘆き謳うのではなくただ人間生存の様相、背負う運命の如きものをしかと観る事しか出来ぬおのれみずからの無力と、状況環境に翻弄され続ける周囲の人々の様相をただ徒然に観る事しか出来得ぬ心持を書くことに嫌気がさしつつも書かざるを得ぬ、という何とも曰く言い難し的な若干自虐をも含むおのれのこころのありようの姿を風景を観るように描いている。

それも、そこはかとなく、物狂おしく、である。

あやしきよにありてあやしくものくるおしくそこはかなくなくしくみるものありてもありてなしやぜひもなしやとものくるおしや


「精神の糧」(2)

―孤独なる魂― (ロ)


自分自身の足場を支えていた世界観の基盤が完全に崩壊すると世界そのものの様相が未知なる世界へと一変する。

謂わば、通常の正気と狂気の区別、或いは自他との意識の境界すら消滅してしまうのである。このような意識状態に於いて通常の実生活の中で己自身を保持するのは容易ではない。個人の自我が耐え難い極現状況に長時間置かれれば誰にでも起き得る事である。その底無しのような恐怖に対し、自我は本能的ともいえる自己保存本能により辛うじてバランスを保っているにすぎない。


近代以降このような個人の魂の受難劇が試練として襲ってきた。鋭敏で透徹した心理考察がおのれの足場をおのれ自身で解体するという状況となったのである。

詩人哲学者ニーチェや詩人のアルチュウル・ランボオはその代表的な人物である。無論、このような状況は徐々に準備されてはいたが未だ観念上の事件で、創作上の人ではシエイクスピアの描いたハムレットの如き人物として存在していた。


A・アラン・ポオは既に先駆的な人物であり、自己解体・自我崩壊の果てに孤独に至り、おのれ自身を現実との関係を見いだし得ぬ存在の物語やそのプロセスの作品を生み出した。「アッシャー家の崩壊」は自我の崩壊劇である。

そのA・ポオの世界観に衝撃を受けたボードレールが西洋に紹介した。

この状況は時代と人類の自我が熟した結果生じた東洋精神と西洋精神の融合とも言える。所謂、無常観が観念上の事件となり個人の魂から身体的感受性、感覚的知覚まで降りてきたのである。この心的状態は個人が現実に肉体・個体を所有している以上、耐え難い苦痛と苦悩となる。

私は私であって私ではない、それでも私は私として現実に存在するという矛盾に心身の乖離が生じる。この状態をそのまま語るには通常の言葉では難しい。ゆえに声ならぬ声、悲鳴とも絶叫とも言い難き音調が言語表現へと顕される。この孤独の裡に苦悶する魂の状況を自らの魂と共感した後世の人物達はそれを受け継ぐ形で語る。

だが、語るべき足場は既に消失し、相対化されている。これが一切の価値転換という蜃気楼の如き危うき足場である。

このような孤独の裡に難破した魂の存在を小林秀雄は弁護、橋渡しする決意を持って敢えて評論家となった。ただこの意識状態の魂の有様は通常の言語では表現し難いものなのである。

これと並行して自然科学もまた加速的に発達してきた。数量化し得ぬものは存在せぬと。相反する世界観が共存しつつ絡み合っている。この状況も今日も大して変化してはいない。或いはこの両方の混合物は混ざり合いつつ個々人の魂にしっかと根付き浸食している。

荘子や孫悟空もどきが至るところに普通に生活しているのである。



「精神の糧」(2)

―孤独なる魂― (ハ)


みずからの孤独を他の事物と同じく風景の如く観るものはおのれの孤独を謳わぬし嘆かない。ただそのようなおのれの宿命を感受しておのれの立ち位置を自ら決定する。これは天命を知るという事でもある。だが、覚悟と、その自覚した覚悟が日常的地平に於いて簡単に血肉化されるわけではない。さらには、血肉化されても尚限りなき懊悩は続く。

孤独劇や悲劇的劇を日常の糧とする人物もまた常にいる。彼等は或る種の人間の弱点を知悉している。ゆえに、それをおのれ自身の姿と重ね合わせてしまう読み手や観客達を如何にして惹きつけるか、と苦心する。これはこれで生活の糧を得るという観点からは当然でもある。善し悪しを問わず、世に需要と供給が成立する限りはこの図式は常に生き残るであろう。


川端康成の言葉「文章はペンで書くものではなく、命の筆先に血をつけて描く」(新文章読本・新潮文庫)

このような名状し難き悲痛とも言うべき魂の痛みを川端氏の作品を通してどれだけの人物が見抜けるであろうか?

川端氏の世界観と表現は相対的意識により徹底されている。誰にでも分かる様な言葉で描きつつもその実体は空気のように捉え難い。

三島由紀夫が川端氏を或る意味では的確に形容したように「永遠の旅人」である。ただし目的のない無方向の旅人であるが。

「地獄の火の上を涼しげに漂う」というわけにはいかなかった。


徒然なるこころの有様はついにおのれの無力に耐えきれずに地獄の業火に身を投じた。


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