11.大学は休学をしなかった
これも転院前に決めていた事なのですが、あの時同期たちと一緒に卒業をしたいと願い、大学は休学をしませんでした。
担当担任の教授がお見舞いに来て下さった時に、その旨を伝え、新年度のシバラス(Syllabus:講義要項)を取り寄せ時間割を組もうとしましたが、入院生活がどれほどの長さになるか見当もつかず、また、講義を受けるとなると色々な障壁があることから、ゼミだけ行こうとしました。
病院でも初めての試み
新年度が始まったころには、リハビリ病院へ転院していました。
そのため、リハ病院の主治医と話し合う羽目に。
まさか、あんな病気をして数か月後に病院から通学するなんて、病院側も前代未聞だったようです。
何度か主治医と折衝を重ね、ようやく週に1度なら通学をしても良い。と許可をいただきました。
時期は覚えていませんが、初夏のころだったと思います。
同期が迎えに来てくれていた
通学することを病院側から許可をいただき、通学し始めました。ゼミ担当の教授にも一緒のゼミの子にも連絡済み。
当然車椅子、付き添いは母です。
私は手術でツルピカの丸坊主になっていたから、通学する頃には少ーし髪の毛が伸びており、父の行きつけの理容店で坊主らしく整えてもらいました。
でも、坊主頭の女子大生は流石に恥ずかしかったので、KANGOLのパイル地の帽子を被っていました。KANGOLは、当時流行ってましたからね~。ダンスもしていたし、影響されていたようにも感じます。(RUN DMCって懐かしい~。)
駅には、私が来ると連絡を受けた同期の男子学生数名が迎えに来てくれていて、交互に私の車椅子を押してくれていました。
大学に行くとみんなで号泣
大学構内に入ると、同期の女子学生たちが待っていてくれていました。hugしてくれて、ワンワン泣きました。交わした言葉は覚えてはいませんが、私も相手もワンワン号泣です。
ゼミの部屋は2階。そこで同期たちが考えた
私のゼミの部屋は2階。
今もバリアフリー化にはなっていないように思いますが、当時は完全に車椅子で登学をする学生を考慮に入れていない設計だったので、どうやって行くか。。。
みんなが考えてくれていました。
ゼミの日は全員がゼミに入るので忙しいのですが、男子学生たちがローテーションを組んだり、ゼミをサボったら行く…みたいな。そんな感じで私を連れて上がってくれていました。
体育専攻だから身長もガタイも大きい。時に私の目線が時に2メートルを超えることも…
そんな子らが私をおぶって階段を走るんですから!
おぶられている私、身体の自由も利かないだけに恐怖の余り、相手の首にぶら下がるものですから相手も「わーーーっ!」となってしまって。。。
でもこれは、凄くいい思い出です。
みんなのサポートがあったからこそ
私は病気をする前、プロのダンサーを目指していた事もあって、結構尖がっていました。冷めていたし同期からも「大人っぽいなー。」「体育専攻に見えない。」と言われていて。だって、みんなはジャージでウロチョロ、スッピン。私は私服でウロウロ、ちゃんとお化粧をしてました。バブル崩壊前後だったので、私服自体派手だったので(笑)そんなジャージな同期を指して「ダサイ」「邪魔くさー。」と考えていた節もありました(苦笑)
また、今も昔もマイペースな性格は変わることはありませんが、あの頃は、自分勝手な行動をよく取っていたので、団体競技をやっている子たちとは馬が合わずじまい。このまま卒業するんだろうなーと思っていた矢先に病気に。
そして入院先から通学をしてみると、団体競技をしている子たちがサポートしてくれていました。
それまでの私の大学生活は何だったのだろうなーって。
みんな気持ちのいい連中じゃないかって。(一部、暑すぎて汗臭い。笑)
そして、体育会、体育専攻だからこそ、彼ら彼女らは私を差別をしなかった。
理由は、みんながみんな怪我が多すぎて、年がら年中、故障を抱えているから、たまに不自由な生活に突入していることがあるから。
とても気持ちのイイ奴らです。
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