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私の過去:闘病生活とその中での気付き

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大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
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#日記

26.同期と一緒には卒業できない

病気になった初期のころから、私は「同期たちと一緒に卒業をする」と決めて入院中からゼミに通ったりしていました。 でも、不可能だったんですよね。 1年、2年生の段階で9割がたの講義単位を取り終えていたので、あと1年半で卒業しようとすれば単位的には問題がありませんでした。 教育実習がネックだったのです。 私の所属していた学部は教育学部の教員養成課程だったので、当然卒業には教育実習が不可欠になります。しかも、その数年前から4年生の時に実習に行く制度が3年生、4年生と2期に分け

24.大学に復学してみたら

大学は隣の県にあり、ずっと通学していました。 10月から復学ということなので、通学の際に使っていた電車の混み具合を考えると、早朝の普通に乗ることがベストだと考えたのですが、1人での通学はまだまだおぼつかないし、かといって母がついて行くこともどうかということもあって、同期の1人が通学していたので同伴通学を彼女にお願いしたところ、快諾してもらえました。 ⁂ 10月に入り、早朝の6時半前後の普通電車に乗り込みました。 始発じゃないので出発駅には人は多かったです。座って行ける

23.他人の視線は、時に無言の刃になる

病院にいる時には気づきませんでしたが、退院後、駅のホームに連れて行かれた時に感じたこと。。。 「他人の視線は時に無言の刃になる」 大都会のど真ん中で、若い子が装具を付けてスカート履いてエッチラ、オッチラと歩いていることが珍しかったのでしょう、老若男女、様々な人に頭のてっぺんから足先まで浴びせされた視線。 その視線は刃になって襲って来ました。 今は当時の私のような人も街でよく見かけるようになりましたが、あの頃は障害者の社会進出も今ほど進んでいなく、多くの障害者の方々は家

21.退院する朝

PTの訓練は順調に進み装具も納品され、装具を付けた病院外周のお散歩も平気になったころから、私は次のステップの「退院すること」を考え始めました。 大学も夏休みに入っていましたが、10月から始まる後期には完全復帰を願っていましたし、その前に家での日常生活に復帰をしないといけないので8月のお盆シーズン前に退院することを決めました。 もっとも、180日ルール(標準的算定日数)のリミットにも近づいていたこともあって、退院する方が良いとも判断していました。(2月発症だから、180日後

20.レクレーションにはカラオケを

私は参加したことはありませんが、患者が集まるラウンジ兼食堂で昼過ぎから毎週1回ほど「カラオケ大会」が開催されていました。 言語障害を持つ人にはカラオケで発声をうながし、喋くりの言葉は難しくても歌うことで、言葉の訓練になっている人もいました。 テンポの速い歌は流石に舌がもつれたりするので、ユックリ目の選曲はなされていました。 歌えるということは、言葉で不自由な生活を強いられている人には自信に繋がります。 ⁂ 今現在も私は時々カラオケに行きます。 発声練習にもなるし、

【不自由な身体を持つこと】19.歩くようになって装具を付けた

装具って知っていますか? 例えばスポーツで膝のじん帯を切ったり、アキレス腱を断裂したりする大けが等を負った場合、歩行をサポートするための器具です。 当然私のような病気になった人にも装具を付けて歩き、日常生活に戻れるよう訓練をしていきます。 多くの人は、上記のサイトにあるような大型の装具を付けています。また、装具に関しては上記サイトが詳しいので良ければお読みください。 私も作りました。でも、膝下までの長さではなく、足首までの、丁度足首のサポーター程度の長さのゴム製でした

18.障害者手帳を取得すること

病院のソーシャルワーカーから度々提案されていたこと。 「障害者手帳を取得した方が良い。」 病気になるまでの自分の印象が強くて、私自身は頭の中は「健常者」と思いこんでいました。 でも、世の中的には私は「障害者」なのですよ。 手帳を取るともれなく様々な恩恵が受けられます。 でも、障害者という烙印を背負うということ。 私の身体は徐々に機能回復傾向にはあるけれど、100%元の身体には戻りません。だから、この先の長い人生のことを考えれば手帳と取って、日本の福祉のお世話になる

17.よし、歩こう

もう夏になりかけていた頃から、ようやく歩行訓練が始まりました。 「待ってましたー!」 私はウズウズしていて張り切って訓練を受けた記憶があります。 が、、、、 思うように足を運べない。。。 歩こうとすれば、右足の小指から着地する、捻挫する感じの着地の仕方でした。 踵から着地も出来なく、足の先からの着地しかできない状態。今も踵からの着地は難しくてできません。 また、膝が突っ張ってしまう「ロック」という現象にも悩まされました。 当然、足の感覚はほとんどなく、左足1本

16.入院していた若者たち

私がリハ病院に入院していた頃、特に私の病棟には10代から20代の若者がいました。 その多くは事故で脳挫傷や脳出血のダメージを負った人たち。 事故で脳挫傷や脳出血のダメージを受けても、事故前と全く変化なしの身体のままの人と、私の病院に入院していた人たちのように酷い麻痺や言語障害、身体の震えが止まらない、身体に変化はなくとも高次脳障害を負った人との2つに分かれるのだなと後年知りました。 名前を出していいものか分かりませんが、元プロボクサーの赤井英和さん、彼もまた急性硬膜下血

15.作業療法士(OT)の訓練は。。。

理学療法士(PT)と作業療法士(OT)の訓練は、発症後180日以内なら両方とも毎日受けられる状態でした。今現在は同じスパンで行われているかは不明ですが、当時はそのパターンでした。 180日が過ぎていると、保険の関係上、今日はPT、明日はOTという交互になってしまいます。なので、私が転院を急がされたのは必然だったのでしょう。 OTは、上腕・前腕・手に対してリハビリを行う人たちで、繊細な手の動きのリハをすること自体、凄い労力がいるだろうなと感じていました。 転院した時には左

14.AirMailが毎日届く

高校2年生のころ、今でいうメル友がいました。 あの頃は電子メールなんてなかったから、手紙のやり取り。 相手はイギリス人の同じ年の男の子でした。 昔から海外には興味津々で、英語はさほど成績は良くなかったけれどリーディング、ライティングは人並みにこなすことは出来ていました。 イタリア、ニュージーランド、アメリカ、イギリス。。。色んな国の学生たちとペンパルになって交流をしていました。 でも、私が病気になるまで続いたのはイギリス人の彼だけです。 友達が病気のことを彼に伝え

13.話しのプロフェッショナルに出会う

専門病院ですから、様々な方がいらっしゃいます。 有名な方から企業の重鎮まで入院・通院していました。 そんな方の1人に入院中出会いました。 私は知らないなー。でも、知る人ぞ知るだった私の転院から1ヶ月前後遅れて入院して来た人がいます。 凄く背も高い方で、車椅子が小さく見えてしまうぐらい。 その人の入院当初、病室にはお見舞い客の雰囲気を持つ人ではない、立派過ぎるビジネスマンが多数出入りしていました。 私、若いじゃん、好奇心旺盛じゃん、興味津々でその病室の前を行ったり来

12.理学療法士(PT)のバカ

大学にも週1回通学ができるようになって、リハビリも順調でした。筋肉自体もこわばっておらず、リハビリ自体もやりやすかったかと。 でも、私は夜中に泣き出して看護師さんを困らせることになるんですよね。 丸3ヶ月は歩く訓練はしない方針私のPTは、私に対して「3ヶ月間は歩く訓練はしない。自分で勝手に歩いてはいけない。」と約束をさせました。 私のいた病棟は、下は高校生から上は60代、70代の方がいて、私は若者の1人でした。 若い人でも、歳がいった人でも、みんな歩く訓練、病棟をゆっ

11.大学は休学をしなかった

これも転院前に決めていた事なのですが、あの時同期たちと一緒に卒業をしたいと願い、大学は休学をしませんでした。 担当担任の教授がお見舞いに来て下さった時に、その旨を伝え、新年度のシバラス(Syllabus:講義要項)を取り寄せ時間割を組もうとしましたが、入院生活がどれほどの長さになるか見当もつかず、また、講義を受けるとなると色々な障壁があることから、ゼミだけ行こうとしました。 病院でも初めての試み新年度が始まったころには、リハビリ病院へ転院していました。 そのため、リハ病