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【連載小説】Words #22【第Ⅰ部完】

 この物語はフィクションです。
 作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。  
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 あんな嬉しくないデートは、初めてだった。
 あれなら、話もせずに、寒さに凍えながらただベンチに座ってるだけの真沢とのデートの方が百倍ましだった。
 話ができなかったのじゃない。寧ろ黙っていることを許されないから、その「デート」は地獄だった。
 手をつながされ、ベタベタされ、遠藤は、何かにつけ、自分たちが恋人なのだ、ということを僕に確認させたし、周囲のひとたちに向けてアピールし続けた。
 そして、僕はそれに異議を申し立てることすらできない。あの母親と話しているときと同じ無力感が、僕を支配していた。
 カラオケをした。ボーリングもした。アイスを食べた。喫茶店に行った。
 でも、ただ僕は早く解放されることだけを祈り続けた。どこでもなんどでも遠藤は訊いた。
「わたしのこと、好き?」
 僕はまだ正直だったといえる。答は、濁りがちだった。でも、そのたびに遠藤は上目使いに、僕を睨む。
 僕は真沢にすら言わなかったそのコトバを、言わざるを得ない。
「好きだよ」
「ほんとに? もう一回言って?」
「好きだよ」
「感情がこもってない!」
「……ごめん」
「ほんとは、好きじゃないんでしょ!」
「好きだってば! こんなところでこんなこと――」
「なに? 不満?」
「……いえ」
「ほんとのほんとに好きなの?」
「……うん。ほんとに好き」
「愛してるって言って」
「……『アイシテル』」
「そ? 浮気なんかしたら許さないんだから!」
「……」
 ははは、と笑う。そう言われて、前日の品川とのアレのことは絶対に隠さなければならない、と思う。
 罪悪感じゃなく、恐怖感で。
 もう一度、何度でも、遠藤がそれを言わせるから、僕の中で、どんどん「スキ」やら「アイシテル」というコトバの重みが蒸発していく。
 ふと、蘇る。

 好きです、じゃないほうがいいな
 詩っていうんは、好きだー、とか、愛してるー、とかを他の言葉で言い換えるといいらしい

 かほ里。
 そう言って、僕に好きだと言わせなかった少女のこと。今は、会いに行く理由も方法もわからないあいつ。
 遠藤がまた訊く。
「わたしのこと、スキ? アイシテル?」
「うん、アイシテル」
「じゃあ、キスして」
 不実な唇が、その日何度目かに重なってデートが終わるころ、僕にそのコトバを躊躇う良心すら、消え失せていた。
 そして、僕はもう二度と、そのコトバに、まっすぐのココロを籠めることができなくなるなんて、そして、誰かにそれを言われたとしても信じることができなくなるなんて、気付いていなかった。



 夕方だった。遅くなれば母親のヒステリーを浴びなければならないことはわかっていたけれど、遠藤とわかれたあと、僕は繁華街をぼんやり歩いた。
 いやな気分だった。もし、オトナだったら、いや、財布にカネがあったなら、そのへんの居酒屋にでも入って、酒でも呷りたいくらいの気分だった。
 だけど、僕に自由にできるものなど何もない。酔っ払って、すべてを忘れる自由も。うさばらしに、何か衝動買いするためのカネも。
 僕は、雑踏の中で、不意に立ち止まる。
 もういやだ。もういやだ。もういやだ。
 握りしめた拳とぎりぎりと唇を噛む歯。でも痛みがない。感覚が無い。僕には、この世界の喜びも苦しみも、関係がない。
 僕の気持ちなど、どこにもない。
 
 その真空の暗闇に立ち尽くす僕の耳に。
 どこかからピアノが鳴る。
 僕の欠落に響く。
 うるさい、と思う。
 その音色が美しければ美しいほど、僕は、自分から失われたものを――自分が逃げたしたモノの素晴らしさに、傷つかなければならなくなる。
 うるさい。うるさい。うるさい。
 でも、目をつぶっても、耳を塞いでも。
 世界は、僕には与えられないものに、満ちている。
 メロディ。
 声が、僕の知っているコトバを奏でる。

もし僕が君と、出会わなかったら

 感覚の無い足を、方向の知れない意識を、ガラスで隔離されたような自分を、もがくように僕はそこへ歩いた。繁華街の端で、そのピアノは鳴っていた。

 オンガク。
 永遠をうたう、オンガク。
 僕の、永遠の欠落を。
 そして、その前で、咲く、一輪の、少女。

 彼女は、ふと気付いたみたいに、僕を見た。
 でも、僕は気安く近づいたりできなかった。
 彼女は、笑い、咲き誇るみたいに笑い、僕は、ただ、哀しくなった。
 僕が彼女をそんな風にできなかったからじゃない。彼女が、僕の永遠の欠落のショウチョウになってしまったからじゃない。違う。

――だって、それが、それがすぐにでも散ってしまうような気がしたから。僕には、それをどうにもできないことだけが、わかったから。



 卒業式も終わり、僕は倫生への入学準備に追われていたが、その間に公立高の合格発表があった。
 僕は合格していた。何も思わなかった。そのこと自体には。
 どうせ辞退することになる。でも、合格発表のボードに自分の受験番号を眺めた後、僕はその会場に経堂を見つけた。どこか後ろめたかったけれど、彼は笑顔で僕に近づいて来た。
「受かったよ」
「うん、よかったな」
「まあ、高校浪人にならなくてほっとしてる」
「うん」
「お前は?」
「受かってた」
「そうか。おめでとう。でも、倫生なんだろ?」
 アイツは平然と嘘をつく――。そんな品川のコトバが僕の頭をよぎる。
「いや。実はここにきてちょっと迷ってて」
「ん? そうか。まあ、慎重に選べよ。お前が東なら、俺も嬉しいけどな」
 僕を倫生へと追いやりたい人間が、こんな風に言うだろうか?
 僕は途端に疚しくなる。アレが、もしただの品川の誤解だったなら、僕は、取り返しのつかない罪を犯したことになるから。
 何も普段と変わらない経堂が、僕の肩に手を置いた。
「でも、羨ましいよ。選べる、ってことが」
「……うん……ごめん」
 経堂が軽く僕の頭を殴る。
「だから、謝るなって」
「……うん」
 経堂は、深く、合格に安堵したような息をついて、それじゃあ、学校に報告に行こうかな、と呟いた。僕も、うん、と応えた。じゃ、と一度は手をあげた経堂が、ふと立ち止まった。
「ああ、そうだ。品川も受かったんだ」
「あ、そう?」
 経堂は、ぐっと僕に近寄って肩を掴んだ。
「もし、おまえも東なら、三人でつるもうな」
 僕の肩を掴んだ彼の手に、何故か、チカラが籠もった。
 心臓が、跳ねた。瞬間、手が濡れた。
 でも、経堂は、今度こそ、じゃあな、と言いながら去っていった。
 僕の肩を掴んだ経堂の手は僕を揺らした。でも、僕のココロは、いつかの好ましい揺れ方ではなく、ただ恐怖に震え上がった。まるで、全てを知られているような気がした。
 僕は、そんな震えに堪えきれず、ただ意識の全てで、倫生に行こう、と思った。

 もう二度とここには来ないだろうな、と思いながら東髙の校門を出たとき、そこに遠藤がいた。驚いたが、僕はそれを表現しなかった。
 遠藤は、僕に近づき、僕のマフラーを直しながら、訊いた。
「どうだった?」
「うん、受かった」
「そう! 良かった!」
「いやまあ、僕、倫生に――」
「東にして」
「は?」
「わたし、慧南商業だから」
「いや、でも、僕は――」
「東にして」
「だけど、それは――」
「わたしのことスキなんでしょう」
「だから、それとこれとは――」
「わたし、離れたくないな」
「でも、僕は、ずっと倫生にいきたくて……」
「東にして」
「でも、だってさ――」
「そ? いいけど?」
 ふいと背を向けて、遠藤が歩き出す。僕は自分に繋がれた見えない鎖に引きずられて、その後を歩き出す。
 くそ、くそ、くそっ!
 僕は唇を噛む。感覚がない。痛みを感じない。
 ずっとそうだ。あのとき、かほ里と、おそらく、最後の会話をしたときも。

 ストリートライブを終えて、後片付けするそのオトコを幸せそうに眺めるかほ里に、僕はようやく声を掛けた。
「光屋」
「……おまえか」
「うん」
 そのオトコは、キーボードをケースにしまいながら、僕らをちらと、感慨もなさそうに眺めると、トモダチ? とかほ里に訊いた。かほ里は、クラスの、とだけ応えた。
 そのそっけない遣り取りが、かえって僕にふたりの親密さを想像させた。
 オトコは、話あるんじゃないの? カレ、と僕に笑いかけた。僕は何も応えられなかった。僕を不思議そうに眺めるかほ里の背を、オトコは軽く押した。
「いっといで。先に帰るけ」
 かほ里は、いったい何を話すことがある? とでもいいたげな不可解そうな顔で、僕を通り越して歩いて行った。
 僕は、二人を交互に眺めた。オトコは、僕に、いけ、と合図するように手を振った。
 余裕。その差。
 僕は反射的に頭を下げ、そして、先を歩くかほ里を追いかけた。でも、追いついても、僕はその隣に並ぶことができなかった。どうしても、その勇気がなかった。
 駅前の広場のベンチに僕たちは座った。半分背中を向け合うように、二人分の間を開けて。
 僕たちは、しばらく黙りこんでいたけれど、でもいつしか、ぽつり、ぽつり、とコトバを交わした。
「さっきの?」
「そう」
「……」
「……」
「さっき、ピアノ」
「ヘタやろ」
「……」
「ムリやけ」
「……うん」
「歌もな」
「……どうだろ」
「だけど」
「うん」
「そうなんやけ」
「……うん」
「……」
「学校……」
「もう行かん」
「……」
「スキになっただけやけ」
「……」
「それがいかんていうのやけ」
「……それじゃ、卒業式」
「行かん」
「……高校」
「受かったけど」
「……そう」
「わからんけ」
「うん」
「東京」
「ん?」
「いくんやて」
「……」
「そしたら」
「……」
「わたしも、そこに」
「……」
「いたい」
「……」
「……あんたは?」
「倫生、たぶん」
「頭良いな」
「……ギリギリ」
「詩はダメだけどな」
「……うん」
「でも……」
「……」
「続け」
「……」
「ずっと、続けな」
「……君が」
「……」
「……君に――」
「……」
「……」
「……いつか、まとめて、見せ」
「……いつ、さ?」
「……テレビで」
「……ムリ」
「ラジオで」
「……ムリ」
「遠いところでも」
「……」
「書いてさえいれば」
「……」
「いつか」
「……」
「……」
「……」
「ほんでいうんやけ」
「……」
「こいつ、トモダチやったんやけ、て」
「……」
「自慢するんやけ」
「……」
「……」
「……ありがち」
「そやな」
「……ドラマごっこ」
「ええやろ、パクったって」
「……」
「得意技、やけ」
「……うん」
「だから」
「……」
「続け」
「……」
「あんたの、コトバを」
「……」
「サヨナラ」
「……」
 僕は、いつのまにか地面を見ていて、そこにまるでにわか雨みたいに水滴が落ちていく。もう戻らない何かが、何かが自分でもわからない何かが、取り返しようもなく、間違い無く、そこを通り過ぎるのを、感じる。
 
 僕の耳に、もう、あのイヤフォンがかかることは――。
 
 胸が、痛い。痛くて、熱い。その熱が、僕の喉を、暴れながら、濡れながら、嗄れながら、洩れていってしまう。
「僕が――! もし、僕が!」
 上げた視線の先に、立ち止まる彼女の背中。
「『君と出会わなかったら』」
 振り向いて。
「僕たちがどんなだったかって」
 振り向いて。
「それなりにシアワセで」
 振り向いて。
「自分のキタナサなんかに気付かずに済んで」
 振り向いて。
「……さみしさにきづくことなんか、なくて」
 振り向いて。
「だって!」
 振り向いて。
「……だって、きみは、僕と出会っても、出会わなくても、きっと同じように」
 振り向いて。
「誰かを――あのひとを、好きで」
 振り向いて。
「あのひとの前でだけ、キレイで」
 振り向いて。
「僕が、いなくても」
 振り向いて。
「きっときみは、キレイで」
 振り向いて。
「だから」
 振り向いて。
「きみは」
 振り向いて。
「きみは僕を」
 振り向いて。
「だから――」
 振り向いてよ。
 コトバになんかしない。僕が伝えたいのは、コトバじゃない。
 コトバなんていらない。君から欲しいのは、コトバじゃない。
 僕の安っぽいコトバに、コトバなんかで、こたえないで。
 コトバじゃ、ない。
 ただ振り向いて、僕に笑って。
 たった一度、本当の、きみを、僕は、見たい。
 熱の通り過ぎた喉が融けてしまって僕は声を失い、それを待っていたかのように、彼女は、何度拭ってもぼやけてしまう視界を、静かに、凜と去った。
 僕の願いは、叶わない。
 でも、その願いはきっと彼女に。
 だから、彼女は。
 振り返らずに。ただ一度、軽く背中で手をふって。
 僕は笑う。笑うしかないから。泣きながらでも、笑うしかないから。
 そして、痛みを――自分でさんざん書いてきた「詞」の意味を、僕は、その時、初めて知った。

 その別れを思えば、自分の手元に残ったものは、あまりに醜悪だった。
 遠藤がようやく振り返る。
 笑うな。僕を縛ることが、そんなに楽しいか!
 どいつもこいつも、代わる代わる僕を、惨めにしやがって! 僕はこんなものが欲しいわけじゃなかったのに! 僕は永遠に、あの少女に、愛を伝えたかっただけのはずだったのに! 本当は、真っ白でいたかっただけなのに。
 微笑うしか無い僕を見詰め、満足げに、意地悪そうな笑顔を浮かべた遠藤が言った。
「だってさ、アンタ、信用できないじゃん?」
「……」
「佳織と付き合いながら、光屋のことスキだったでしょ?」
「……」
「ほんとは光屋が良かったのに、佳織しか選べなかったんだよね?」
「……」
「ほんと、気が多いっていうか、軽薄なんだから」
 遠藤が僕の腕を取る。まるでポールダンスみたいに身体をくねらせながら。
「でも、いいよ、それで」
「……」
「そばにさえいれば、他の女なんて近寄らせないから」
「……」
「お金もあげる」
「……」
「イイ子にしてたら、もっとイイコトさせてあげるかもしれないよ?」
「……」
「あ、そう言えば、光屋」
「……」
「学校来ないね」
「……」
「っていうか、来れないよね」
「……」
「だって、援交してんの、先生にばれちゃったんだもんね」
「……え?」
「さすがにねー。あの光屋でもさー」
「援交なんかしてないよ、光屋」
 遠藤は、不愉快そうに眉を潜めた。僕は、唇を噛んで、その視線に堪えた。
「援交なんかしてない、光屋」
 もう一度、そう言った僕を、今度は愉快そうに笑って叩くと遠藤は、す、と真面目な顔をした。
「だって、アンタが言ったんじゃん?」
「……え?」
「アンタが光屋が援交してるって言ったから! わたしも――」
 僕は、思わず、絡み付く遠藤を払い立ち止まって、改めて彼女と向かい合った。
「言ったの?」
「……うん」
「いや、僕がそんなこと言った?」
「言ったじゃん、オトナの男と付き合ってて、お金に困ってないって」
「言った……っけ。いや、でもそれ援交ってことじゃ――」
「何? 光屋を庇うわけ?」
「そうじゃなくて!」
「だから、わたしが『光屋援交してるんだ』って言ったときに否定しなかったじゃん!」
 憶えてない。だが、そうだったような気がする。自分の記憶の曖昧さのせいで、僕はそれ以上遠藤を問い詰めることができない。
 いや、だとしたら、かほ里を追い詰めたのは僕だ。
 誰のせいじゃない。僕だ。
 掌を見た。感覚が無い。
「でしょ?」
「……うん」
 遠藤がにこやかに僕を見詰める。そして、残念だったね、とほくそ笑む。
 僕は、その笑顔を、張り飛ばした。



 そして、僕の記憶は、また曖昧になる。
 僕のウチに遠藤の両親が来た。
 僕の「悪事」は、全て明かされた。
 カネのこともそうだが、なにより遠藤の両親が怒ったのは、ムスメを張り飛ばされたことで――自分たちだってしただろうに――刑事事件にする、と父が仕事で不在の、母しかいないリビングで大いに荒ぶった。
 母は、ひたすら土下座して、ついでに僕も土下座させられて、「お金はすぐにもお返しいたします、その上で、殴ったことについても慰謝料をご用意します、モウシワケゴザイマセンモウシワケゴザイマセンモウシワケゴザイマセン」ということで、最後には、なんとか遠藤の両親を説き伏せることができたらしい。
「主人も連れて、改めて謝罪に参りますので」と遠藤の両親を送り出したあと、僕は、部屋の敷居に正座させられた。そして、そのまま、一時間は経った。
 でも、僕の足は、痺れきったわけでもないのに、感覚が無かった。
 母は、その間ずっと僕を睨みつけていた。そして、思い詰めたように震えながらため息をついた。
「嘘つき」
「……」
「嘘つきだ」
「……」
「ひどい嘘つきだね、アンタは」
「……」
「女の子を騙して、カネを巻き上げて、親を騙して」
「……巻き上げてなんか――」
「誰が言い訳していいなんて言った? 仮に話したってね、あんたのコトバなんて、何一つ信じられない!!」
「……貸してくれるって言ったんだ」
「また嘘をつくの! この口か!」
 母は、手元にあった定規で、僕の唇を強く打った。
 拭った手の甲に、血が跡を引いた。
 でも、痛くない。何も感じない。やはり僕のコトバなんて出すだけ無駄だ。
「あんたのこと信用してきたけど」
 どのパラレルワールドの話をしてるんだろう?
「もう手におえない!」
 僕は、随分、あなたに従ってきましたけども。
「こんな風には育てなかった!」
 自覚ないのか? 自分が何をしてきたのか?
「あああああああああああ」
 いいいうううううええええおおおおお。
「ああ、こんな子どもをわたしは育てられない!」
 じゃあ、ぬいぐるみでも育てろ!
「だいたい小さい頃からわがままで!」
 ……。
「思い通りにならなければ、癇癪を起こして!」
 ……。
「一体誰に似たの? わたしじゃない」
 似てると思いますよ。いま、まさに。
「お父さんの方の血筋ね。大体ろくなもんじゃないんだから! あの一族!」
 うわー、美しすぎるセキニンテンカ!
「あああああああああああああああ」
 いいいいううううううえええええええおおおおおお。
「それでついに暴力まで!」
 まあ、それは反省してます。
「うちではそんなことはなかった!」
 いやまあ、結構殴られましたけどね。特に父親。
「こんな子を世間に出すわけにいかない! こんな子を世間様に!」
 え?
「高校なんて、行かせるわけにいかない!」
「え。ちょっとま――」
「倫生も東も、全部辞退してこないと!」
「ちょっと!」
「ああああああああああああああああああああああああああ」
 いいいいいいいいいいいいいい、っていうか!
「少なくとも、こんな犯罪者を社会に出すわけにいかない!」
「……あの」
「うるさいっ! 黙れ! クズ!」
 はい。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 飽きた。もう。
「お父さん、何してるのかしら! こんなときに限って帰ってこないんだから!」
 ……まあ、いつも遅いですよねー。
「大体、あのひとに似たのよ、女騙すの上手いんだから!」
 ……。
「わたしだって騙されて! こんな貧乏して! ほんとはわたしは代議士の男と結婚するはずだったのに!」
 衝撃の告白。
「そしたら、首相夫人になって、もっと美味しいモノが食べられて、良い生活して、こんな犯罪者なんて産むことなかったのに!」
 衝撃の告白、その二。
「……なんで、こんなことに……」
 そのまま母は、まるで幼児みたいに声を張り上げて泣き始めた。
 僕は、もう、何も考えたくなかった。
 僕は母の中では、もはやシリアルキラー級の悪人だった。そして、どんなにコトバを尽くしても、そのイメージを払拭することなどできない。
 もうそんな努力もしたくない。
 疲れる。
 ほんと、疲れた。
 感覚が、はっきりと、無い。僕の身体は、いつかのように、ガラスの膜で包まれてしまった。何も、感じない。感じたくない。感じなくていい。
 もう、こんな物語終われば良いのに。
 こんなメロドラマごっこ。
 母がはたと泣き止み、ふらりと、立ち上がってキッチンへと行った。僕は、終わったのだと思い、ほっとして、立ち上がろうとした。
 しかし、感覚がないだけで、身体の方はしっかり痺れきっていたらしく、その場に這いつくばることになった。苦笑するしかなかった僕の視界に、母の影が落ちた。僕は、たすけを求めようと見上げた。
 その視界に、ぎらり光るものが、横切る。
 え? 瞬間僕は、何が起きているのかわからない。
 でも、無様にひっくり返った身体に、母が馬乗りになる。そして、その鋭利な刃が、母の頭上、両手に握られて震えていた。
「こんなコドモ、社会に出すわけにはいかない!」
 振り下ろされた腕を止める僕の手に、本気としか思えないチカラが伝わる。
 これは訓練ではない。繰り返す、これは、訓練ではない。
 痺れきっていた足が、勝手に母を蹴り上げ、僕は、這いつくばりながら、リビングを逃げ回る。母も、何かのメーターが焼き付いたみたいに、よろよろと僕を追い回す。
 僕は、なんとか立ち上がり、尋常じゃない瞳の母と向かいあった。
「やめてよ」
「……」
「やめてよ」
「……」
「お願いだから、許してよ」
「……」
「イイ子にするから、約束、するから」
「……」
「イイ子に……するからっ!」
 その言葉に、母はもう一度、包丁を振り上げ、そして、そのまま固まり、やがて、ガタガタと震えて、その場に、へたり込んだ。
 僕は、よろつく足で、恐る恐る母に近づき、チカラの抜けたその手から、その不吉な刃物を取り上げた。
 僕は、少しだけほっとして、でも、その場を動けずに母を見下ろした。母は、疲労で低くなった声を、絞り出すように言った。
「絶対よ」
「ん?」
「いまいったこと、守りなさいね」
「……」
「約束なんだから、絶対、守りなさいね」
「……ああ」
「それを守れなかったら、あんた、人間じゃない」
「……」
「守れるなら、生かしておいてあげる」
「……うん」
「約束よ」
「……」
 母は、よろよろと立ち上がり、ソファに、倒れ込んだ。
 ドラマは終わった。ドラマごっこは。
 刃物が振り回される理由なんて、どこにも無かったはずなのに。
 母が感情を盛り上げたいがためだけにそんなことをしたようにしか思えなかった。
 でも、理屈じゃない。ただそこに、そういう厄介ごとがあって、それが僕の人生からは、取り除けないだけなのだ。
 そんなふうに諦めることを、だけど、十五の少年にできたろうか。
 すべてそういうものだと、受け入れることが。
 母の思い込みだけが、事件を大きくしているような気がする。
 でも、とりあえず、その場は収まった。そして、それでも僕は十五のコドモらしく、コドモっぽく浅慮に、こんなことを訊いた。
「母さん」
「……何?」
「高校、行っていいよね」
「……ええ」
「あのさ」
「何?」
「約束、憶えてる?」
「何の?」
「倫生受かったらピアノ買ってくれるって」
「……何言ってんのよ」
「は?」
「そんなもの買う余裕なんてないわよっ」
「は?」
「だいたい倫生なんて私立、いくらかかると思ってるの」
「……」
「冗談じゃないわよ」
 僕は苦笑した。まったく冗談じゃない。
 僕は感覚の消えた手の中にある刃を、ソファに横たわる理不尽に振り上げた。


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