見出し画像

【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #05




 次の日、大教室の隅の方に座っていた僕に、志伊理美が近寄ってきました。
 おはよう、と彼女は言いました。僕も、おはよう、と返しました。
 隣に座っていいか彼女は訊きました。僕に断る理由はありませんでした。
 彼女が、昨日はありがとう、ととても優しげに微笑みました。僕は、つられて微笑み返しました。
 でも、何をその後話せばいいのかわかりませんでした。僕は、少し気まずい思いをしながら、俯きました。
 すると彼女はこんなことを言いました。
「不思議だなあ」
「ん?」
 僕が顔を上げると、彼女は上目使いに僕を見詰めていました。僕の視線はまた逸れてしまいました。そんな僕の様子を確かめたかのように小さく頷くと志伊理美は、また、不思議だなあ、と小さく言いました。僕は、何が? と訊きました。志伊理美は僕に身体を向けました。
「だってね、この教室に入った瞬間、あなたのことが目に入ったんだもの」
 何だか意味ありげな言葉でした。
 その意味をポジティブなものにしか捉えられないのは、僕が、男だからだったでしょうか、若かったからでしょうか。
 勘違いはしたくありませんでしたが、志伊理美のポジティブな視線はずっと僕に注がれて続けていました。
 元々、好感を持っていた女の子です。僕がドキドキするのなんて、たったそれだけのことで充分でした。
 それに、部屋にいるあいつと比べれば、こっちは、“普通”の女の子でした。それを拒む理由はありませんでした。
 ところでね、と志伊理美が何か言いかけた時でした。おや、と男の声が背後からしました。
 僕が振り向くと、昨日の、氷井と呼ばれた男が立っていました。
 また、笑顔でしたよ。志伊理美は。
 そして、ああ、氷井さん、おはようございます、と彼女は言いました。ごく当たり前のように。その挨拶に、空とぼけた風に、彼は、おはよう、と応えました。
「氷井さん、なんでここにいるんですか?」と彼女は訊きました。
「去年、単位落としたんだよ、一昨年も」と彼は応えました。
「だって、今日まで見た事ありませんでしたよ」
「今日まで、出席してなかったからな」
「そうですか」
「そうですよ」
 男は頭をボリボリと掻いて、そこの席いいかな、と言いました。僕は慌てて立ち上がりました。まあ、色々訊きたい事もあるし、と彼はぼそっと付け足しました。
 それを聞いたのかどうなのか、志伊理美も立ち上がりました。そして、僕に、蕩けそうな微笑みを向けると、あ、ごめんなさい、わたし、実は用事があってどうしてもいかなきゃならないの、黍島くん、悪いんだけど、後でノート見せてくれない? と言いました。僕が、自動的に頷いてしまったのを確認すると、男とすれ違うように、志伊理美は教室を出て行きました。
 それを見るでもなく、男は僕の隣に座り、机に突っ伏しました。僕は、その劣等感をかき立てさせる男に、何を話しかけることもできませんでした。
 志伊理美との交流を二度も邪魔されたその不平不満など、なおさら。
 僕が苛立ちや気まずさの混じった感覚にそわそわしていると、男は顔を机に伏せたまま言いました。
「感謝してよ」
「は?」
「救ってやったんだぜ?」
「何を……ですか?」
「君を、さ」
「は?」
「アレはやめとけよ」
「は?」
「骨までしゃぶられるぜ」
「あの……」
「いや、あの女はそんなことすらしないか」
「は?」
「あの口車に乗せられて、あの純朴そうな笑顔に騙されて、骨まで自分で削ってあの女の口に運ぶことになるぜ」
「何のことだか……」
「アースウィングっていうサークル知ってる?」
「……知りませんけど」
「まあ、歴史も無い小規模なレジャー系のサークルでさ。でも、もともと親友同士が立ち上げた仲の良いサークルなんだ」
「はあ」
「いや、“だった”」
「は?」
「それが、あの女のせいで、今は解散寸前。あの女が入って、たった二ヶ月ちょいだぜ? 信じられるか?」
「え?」
 いつのまにか男は僕に顔を向けていました。その澱んだ目と皮肉っぽい表情から、僕は何も読み取れませんでした。
「男を、男の気持ちを、食い散らかして生きてる女だよ、アレは」
 僕がその言葉の意味をまだ掴みかねていると、教授が教壇へと上りました。男は、ぽん、と僕の膝を叩くと、講義が終わったら起こしてくれ、と言ってそのまま目を閉じました。
 僕は本当にわけのわからないまま、でも、頼まれたノートを読みやすくしなきゃという使命感に逆らえずに、軽くいびきをかいている男の隣で授業を受けることになりました。
 起こしませんでしたよ。なんとなく、腹が立っていたので。

 僕がその日の講義を全て受け終えて、学部棟から部屋に帰ろうとしたとき、その時も声をかけてきたのは、志伊理美でした。
 黍島くんって見つけやすいね、って彼女は笑いました。そうかな、と僕は応えました。
 あの男の言葉が、僕の中でブレーキになって、浮つきそうな心に、少々の軋みを与えていました。でも、笑みは止められませんでした。
 そんな僕を見て、志伊理美は、きっと、わたし、どんなにたくさんのひとの中でも、黍島くんを見つけられると思う、きっと、そう、と僕を濡れた瞳で見詰めました。
 それは、どう解釈しても、特別な好意の表現でした。僕にとっては。
 僕は、どうしてもにやけそうになってしまう顔を、ぐっと引き締めるのに随分苦労しました。
 まあ、そんな僕の顔を確認するかのような間があって、志伊理美は、ノートなんだけど、と言いました。僕は慌てて鞄の中に手を突っ込みました。それを止めるように、志伊理美は僕の二の腕に触れました。
 どきん、としました。
 そして撫でるように手の平を滑らすと、彼女はぎゅっと僕の手首を握りました。
 はあ、さっきの言葉に対する解釈が間違ってないと思わせるチカラが込められていました。それで、あの男の言葉の真偽など、どうでもよくなりました。
 ふっとびました、疑いの心なんて。
 女の子に対してウブだったんですよ、僕は。
 黙り込んで、恐る恐る彼女の顔を見ることしかできませんでした。彼女は、ねえ、度々見せてもらうのは悪いから、その内一度に全部借りて写させてもらってもいい? と訊きました。僕はやはり自動的に頷いていました。ありがと、お願いね、と彼女は微笑みました。あ、――とか、――とかも取ってる? と彼女は訊きました。僕はうん、と応えました。僕は気を利かせたつもりでした。もし必要だったらそれも見せるけど、と言いました。ほんとに? 嬉しい! と彼女は身体を僕に近寄せました。
 抱き締められるのかと勘違いしそうになるくらいの勢いで。
 まあ、実際はただほんの数センチ動いただけだったのかもしれません。でも、本当に、本当に、僕は彼女のその様子から、自分に対する好意しか感じられませんでした。
 彼女は握っていた手首をぱっと離すと、じゃあ、また、教室でね、と何度も振り返りながら、離れて行きました。
 とても幸せな感じがしました。彼女の姿が消えてしまっても、彼女の手が僕の手首に残り続けているように感じました。
 そんな風に呆けていた後ろから、ツートーム、と声がしました。心臓が飛び出るような感じがしました。だって、その声は、あの同居人のものだと、意識するより先にわかったからです。
 僕は振り返りました。意味ありげに笑いながら、遊が立っていました。ななな、なんで? ここに? と僕はあからさまに動揺しました。
 遊はそんな僕をからかうように前に回ると、あれか、君の愛しいひとは、と僕の額をつんと突きました。なんでここに? と僕は無理矢理気を落ち着かせて問いなおしました。いや、好きになるひとの学校くらい見ておいてもいいかな、と思ってさ、会えるとまでは思わなかったけど、と遊はほくそ笑みました。
 そうか、ああいうのが、好みか、わたしとは見た目逆だな、小さくて可愛らしい、と遊は何かに納得したように何度も頷きました。そして、また僕を見詰めました。
 僕は、お前には関係ないよ、と顔を逸らしました。まあ、関係はないけどさ、でもなあ、あれは……と遊は何か考えるように顎に指を立てました。あれは? と僕は訊き返しました。遊は、まあ、いいや、ところでトイレってどこ? と僕の質問をスルーしました。僕は、その方向を指さしました。ちょっと、おしっこしてくる、と遊はそそくさとトイレの方へと去って行きました。
 僕はロビーのベンチに腰掛けました。何だか、僕は、自分が急にモテ始めたような気がしていました。鏡になっている壁に自分が映っていました。僕は鏡に映る自分をいい男だとは思いませんでしたが、もしかしたら、何か特別な目に見えない魅力のようなものが、自分にはあるのかもしれない、とぼんやり思いました。
 俯いて、ちょっとぼうっとしていたかもしれません。目の前の影に気付きませんでした。だから、顔を上げたのは、彼が、誰と話してたの? と僕に問うたからです。
 あの男でした。氷井でした。
 僕は幾分戸惑いながら、し、知り合いです、と応えました。そんな僕を少し目を細めて、射るように見詰めると、氷井は、あ、そ、と僕の隣にどっかと腰を落としました。でさー、と彼は言いました。はい? と僕は応えました。
「起こしてくれって言ったじゃん」
「はあ」
「動物だってね、助けた人には恩返しするもんだぜ?」
「そうですか」
 僕は、この男が、やっぱり苦手でした。何を助けてもらったのかすら、納得いっていませんでした。それに、その口調がどんなにフレンドリーでも、全体から威圧感を感じました。目を合わせない僕を気にせず彼は続けました。
「さっき、志伊と話してたよね」と彼は言いました。
「また、見てたんですか? 追いかけまわしてるんですか?」
「うん、まあ、そんなところ」
「は?」
「まあ、ある意味復讐だよね。あの女をこれ以上自由にはさせたくないっていうかさ」
「フラれたんですか?」
「俺は違うよ。それにあいつはフったりしない。遊び続けるだけ。散々振り回して」
「は?」
「大事なひとがね、そうなった、ボロボロにされてね」
「はあ……」
「俺の好きなひとがね」
「は?」
 彼はロビーをぼんやりと眺めながら、ふ、と息を吐きました。
「わかる?」
「は?」
「今、俺、すごいこと告白したんだぜ?」
「な、何でしょう?」
「俺の好きなひとがあの女に弄ばれた」
「……」
「わかんない?」
「えーと……あ……あなたの好きなひとって、もしかして……」
「そう。ようやくわかった?」
「……は、はい」
 僕は、その意味を了解してしまうと、ただ黙り込むしかすることが無くなりました。
 でも、なんというか、別のきまずさというか、緊張感が、わき起こりました。なんとなく隣に座った彼から、身体が遠ざかろうとしました。
 彼はそれを余裕のある態度で眺めると、心配すんなよ、男なら誰でも良いってわけじゃない、と呆れたように言いました。
 まあ、そうですね、僕もできれば女のひとを選びたかったですけど、女なら誰でも良いってわけじゃありませんでした。
 理屈ではそうです。でも、やっぱり身体は固まりました。それを軽く嘲笑するかのような口ぶりで、彼は言いました。
「君、自分にそんな魅力あると思う?」
「……あ……いや……いいえ」
「そう。そうだよ。そういう認識でいい」
「は?」
「だからさ、女の子にだって、急にモテるわけないんだ」
「……はい」
「君みたいな男に女が近づいてくるときは、何か他の理由がある」
「はあ」
「志伊理美には気をつけろ……っと、噂をすれば、だな、戻ってきやがった」
 氷井は、慌てた様子でも無く、立ち上がると、何故か戻って来た志伊理美と、今度は挨拶も、視線を合わせることもなく、すれ違って去っていきました。志伊理美もまるでそこに彼がいないかのように、僕に近づいて来ました。そして、蕩けそうな笑みを浮かべるとこう言いました。
「気をつけてね。あのひと、氷井さん、嘘つきだから」
「え?」
「わたしが相手にしないもんだから、わたしにつきまとって、わたしが近づくひと皆に、わたしの酷い噂を振りまいてるの。だからまた何かあるんじゃないかって戻って来てみたの。やっぱり、だった」
「……あ、そう」
 少し首を傾げて、柔らかく僕を見詰めると、わたし、ああいうひと嫌いなの、と呟くように言いました。僕は、そう、としか応えられませんでした。
 そんな僕の手を、可愛らしい形の良い手の平で握ると、志伊理美は言いました。
「わたし、あんなひとより、どっちかというと……」
 その覗き込むような目が、あなたの方がいいな、と言った様な気がしました。
 いえ、彼女は言いませんでした。僕が勝手にそういう言葉を聞いたような気になったということです。
 そして、彼女は、じゃあね、と言ってまた去って行きました。心がふわあ、としました。
 でも、そんな気分は長続きしませんでした。すごいなあ、と耳元で声がしたからです。遊がいつのまにか戻って来ていました。
 僕は、まだ少し現実から遊離したような気分で、遅かったな、と言いました。うん、三リットル出たからね、と遊が応えました。あ? と驚いてその顔を見ると、なわけないじゃん、並んでたし、ついでにおっきい方もしてきただけだよ、と僕の肩を叩きました。折角の気分を台無しにされたような気がしました。
 僕が仕方無く、帰るか、と言うと、そだね、と遊は歩き出しました。僕は遊がここでは踊り出さないことを祈りながら、その後についていくことになりました。僕は訊きました。
「すごいって、何が?」
「魔力がさ。男を落とす魔力」
 は、と僕は鼻で笑いました。
「落ちてねえよ」
「いや、ツトムは落ちたね。すとーん、と。ぼちゃん、と」
「落ちてない」
「そう? ……でも、勉強になったよ。帰ったらメモしなきゃ」
 妬いた? と訊きました。ん? どうかな、と遊は応えました。僕は皮肉っぽく笑って、言いました。
「大体、お前は落とす必要なんてなくて、先に落ちる必要があるんだろうよ」
「まあ、そうだけどさ、機会があったら試してみるかなあ、って」
「そうかよ」
「そうだよ」
 それきり僕たちは何も話さず駅へと向かい電車に乗りました。
 乗り換えた電車の中で、ひとつ空いた席があったので、座れよ、と遊にいいましたが、いいよ、ツトムが座って、と遊は僕の肩を掴んで、その席へと押し込みました。悪いな、と言うと、ううん、と首を振り、遊は何気なく、車内を見回しました。
 変化は……無かったように思います。
 やはり、僕は鈍感なんです。
 女の子に席を譲られた少々の気まずさはあったものの、それ以外、遊に変化があったようには思えませんでした。だから、電車が最寄り駅に近づいて、遊が、ちょっと気が変わった、わたし、今日は街へ出てみようと思うんだ、だから帰ってて、と言った時も、そんなこともあるか、くらいにしか思いませんでした。
 僕はひとり、部屋へと戻りました。ひとりでいる方が当たり前なのに、何故か、物足りない気分がしましたね。ほんの少しの間、一緒にいたというだけなのに、その気配に、いつのまにか依存していた自分に気付きました。
 ひとりカップラーメンを啜って、後はテレビを見て過ごしました。寝る時間になっても、遊は帰りませんでした。もしかしたら、「転送」――信じてませんでしたが――された? と思うと、電気を消してもなかなか眠れませんでした。
 上手く言えませんが、肩すかしを食った、という感じがしました。
 おい、何もしてないし、何も起きてねえぞ、と独り言ちました。
 いつ眠ったんでしょうね。目が覚めると当然のように、朝でした。身体を起こすと、いつのまにかベッドの足下に遊が座って、僕を眺めていました。目が合うと眉を上げて、戯けたように頭を左右に振りました。僕は、ほっとしました。
 ほっとした自分が不思議でした。
 転送されたかと思った、と僕は言ってしまいました。遊は、残念、まだだよ、と応えました。そしてそのままいたずらっぽく僕を見詰めると、わたしに好きになって欲しくなった? と訊きました。そうだな、うざい女がいなくなるならな、と僕は返しました。もちろん、強がりが半分混じっていました。
 そんなものに気付かない様子で、けたけたと遊は笑いました。僕は、そんな笑顔が、嬉しかった。
 激しい恋ではないにしろ、情のようなものが、このアブナイ女に対して、湧いてしまっていることに、僕はそれで気付きました。
 僕は、それ以上何も言えなくなって、ベッドから降り、テレビをつけ、お湯を沸かして、カップラーメンを作りました。その様子を遊がずっと見詰めていました。何だよ、と言うと、何でもないよ、と応えがありました。
 ニュースが流れていました。まあ、いつもの通り、政治や経済や交通事故や殺人のことをアナウンサーが読み上げていました。僕もいつもの通り、それらを聞き流していました。
 そして、遊がいいました。
「これ、わたしがやったんだ」
 ん? と顔を向けると、遊が、変わらぬ笑顔で僕を見ていました。どこか哀しげな笑顔で。
 僕は、すぐには理解できませんでした。遊は、僕を見詰めたまま、人差し指をテレビの画面に向けました。
 身元不明の中年男性の死体が繁華街の外れで見つかった、というニュースが流れていました。
 僕は、やっぱり、理解できずに、は? と訊き返しました。だーかーらー、と遊はふざけた調子で繰り返しました。
「だから、この死体、わたしが作ったの」
「は?」
「わたしが、殺した」
「は……はぁ……?」
「こう、後ろから近寄って、こう、ね」
 遊は、ぬるっと素早く動き、鋭く力強く手刀を振り、僕の首に寸止めしました。僕は、反応することすらできませんでした。それから、こう、と遊は僕の首をぐっと腕で締め上げるフリをしました。本当に全く反応できなかった。
 アナウンサーが言いました。
 男性は頸部を絞められたことにより窒息死したものと見られ……。
 僕は、まるで瞬間冷凍でもされたみたいに、身体が冷たく硬くなったような気がしました。そして、遊がそんな冷たさを柔らかく、でも強く、抱き締めました。
 『連中』だよ、そう耳元で聞こえました。わたしを、閉じ込めた、あいつらだ、と遊が僕の背中に顔を埋めました。その息が、僕に切ない熱を伝え続けました。
 ニュースは移り、コマーシャルが終わり、昨日の野球のファインプレーが報じられて、そうして初めて、僕は、今その呼吸の熱でも消えない冷たさが、恐怖という言葉に該当するものだということを理解しました。
 どのくらい僕は硬直していたでしょう。
 嘘ならいい、と思いました。悪ふざけなら、と。
 でも遊はいつまで経ってもそれを冗談だと言いませんでした。
 また元の場所に戻り、僕の顔を見詰め、心配いらない、「関係者」のこういった事故・事件はうやむやになる、そういうことなってる、本当なら死体だって見つからないはずだったんだけど、わたしが通報してやった、まあ、だけど、どうせこいつも身元すら明らかにならない、と遊は笑いました。
 こんな時の笑顔が、あんなに怖いものだと思いませんでした。
 それを読み取ったかのように、わたしが怖くなった? と遊は訊きました。
 僕は反応できませんでした。ふ、と視線を逸らして口角をふざけたみたいに動かすと、なら、今までだって怖かったんだぜ、と遊は男言葉で呟きました。やっぱり僕は応答できませんでした。
 遊は、そんな僕の硬直に関係無く、これが初めてじゃないんだ、と話し始めました。

「これが初めてじゃないんだ。そういう任務はあった。
 そう、人殺しのわたしが怖いというなら、ツトムはとうの昔に怖くなってなきゃいけない。
 いや、とうの昔に死んでなきゃいけない。
 でも、怖くなかったろ? 死んでないだろ? 
 遠回しに脅かしてるわけじゃないよ。だから、そんなに怯えないで。ツトムにとっては一大事かも知れないけど、わたしは、ただ、それを、ご飯を食べたり、眠ったり、セックスするのと同じように、できるというだけのことなんだ。許されているんだ。
 でも、わたしは人殺しに快楽を感じているわけでもない。誰でも良いわけじゃないし、できればそんなことは避けて通りたい。でも今回だけは、見過ごせなかったんだ。やつらが普通に生きて、当たり前に生活しているってことを。
 だから、ケンカを売ってきた。やつらだからやったんだ。
 ツトムは怯えないでいい。わたしはツトムを殺さない。そんな必要もない。ツトムにはただ好きにならせてもらいたいだけだよ」

 座卓の上で固まっている僕の手を、遊の手が取りました。僕は笑ってみました。でも、どうしても顔が笑顔の形になりませんでした。
 僕が何を思っていたか? 殺されるかもしれない、という恐怖……ええ、もちろん。
 助けてやらなければならない、というわけのわからない義務感、そうですね、そういうものもありました。
 いや、嘘に決まってる、という楽観、ありました、それも。
 そして、匿うべきなのか? という問いが、何度も頭を巡りました。でもそんなことしたら、自分だって共犯扱いになるんじゃないか? という不安、緊張が僕の内側を震わせました。
 通報しなきゃいけないという、おそらく、正義感が僕を急かしていました。
 僕は、警官の息子でした。あらゆることが正しくなければならなかった。そんな風に振る舞って、そんな風なフリをして、僕は生きて来ました。
 そして、殺人は、人殺しは、どんなに理屈をつけても、その時の僕には、正しくなかった。
 正しくないものを、胸に収めておくことなど、僕にはまだできなかった。
 それが、どんなに可哀想な女の子だったとしても。
 僕の中にあった微かな情や好意など、そんなものの前では儚かった。良かった、セックスしないで、良かった、とどこからか自分の思考が聞こえました。
 僕は、そっと遊の手を解いて立ち上がり、いつもと同じような素振りで、大学へ行く支度を始めました。遊の目にどんな風に映っていたのか……多分ぎこちなかった筈です。顔を洗い、身支度をし、鞄を持って、ゆっくりと靴を履き、僕は部屋を出ました。そっとドアを閉めるとき、遊の、いってらっしゃい、という声が聞こえました。その声から逃れるかのように、僕は、駆け出しました。
 走って走って走って、転がり落ちるように走って、駅前の公衆電話の前に転びそうになりながら、止まりました。
 汗が、流れていきました。さっき着たばかりのTシャツが重く濡れて肌に貼り付いていました。
 でも、寒くて寒くて、歯がガチガチと鳴りました。身体は勝手に動きました。動いて、一、一、とボタンを押した後の葛藤を、僕は今、言葉にすることができません。


<#05終わり、#06に続く


 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。

この作者の作品をまとめたマガジンはこちら。


「スキ」などの反応があるだけでも、とても励みになります。特に気に入って下さったなら、サポートもよろしくお願いします!