意識とは何か? スキとは? 世界が存在する理由
いつも記事に「スキ」をくださってありがとうございます。
で、この「スキ」について考えてたら気づきがあったので今日も、ただただ好き放題に書き散らそうと思います笑
【結論】
意識とは視点。
意識とは今、目の前に広がっている世界のこと。
一般的に意識は心や脳のなかにあるものを思われていますが「意識ってなんだろう」とぼんやり考えていたら「あ、もしかしてそういうこと?」って。
意識と物質は別のものと考えるのが普通です。
が実際は意識と物質は表裏一体です。
つまり、カードの裏と表です。
見えている方が表。
見えていない方が裏。
例えば、人で考えるとこのことはわかりやすいですね。
愉快な気持ちのとき、人は笑顔になります。
裏が愉快な気持ち、
表が笑顔です。
では次に、いわゆる物体について考えてみましょう。
例えばカレーライス、これは意識と裏表ですかね?
いやいや、カレーライスはカレーライスじゃんって感じですよね。
それのどこが意識なんだよって。
もちろん僕もそう思っていました。
でも、こう考えてみることは出来ないでしょうか。
そもそも、カレーライスがなぜそこにあるんでしたっけ?
僕とか家族が食べたいと思ったからですよね。
じゃ、なぜ食べたいと思ったんですか?
カレーライスを知ってるからですね。
では、なぜカレーライスを知ってるんですっけ?
誰かがカレーライスを作ったからですね。
では、その誰かはなぜカレーライスを作ったんでしょう。
カレーとライスを合わせたら美味そうだと思ったからでしょう。
そういうわけでカレーライスが誕生することになりました。
で?
って思いますよね。
まぁ、そう焦らず、もう少し話を続けさせて下さい。
ではライスはなぜ存在するんでしょう?
お米を炊いたからですね。
じゃ、お米はなぜ存在するんでしょう?
なぜかはわからないけど、自然の中にお米というものがあったからですね。
では、なぜお米が自然の中に存在するのでしょうか?
ここです。
ここが、この迷路の行き止まりです。
この先に誰も行けないんです。
壁があるので。
お米は在るから在るのだ、みたいなことしか言えなくなってしまいます。
お米という品種になる前は別の品種だった、とか言わないでくださいね。
じゃ、その品種はなぜ存在するの?って話です。
壁にぶつかってしまいました。
でも、この壁をもし壊すことができたら、
その向こう側に何があるのでしょう?
というわけで、
この強固な壁を壊してみましょう。
まず今日の夕飯がカレーライスだったのは、僕がそれを食べたいと思って、それを作ったからでした。
では、お米が自然の中に存在するのも、誰かがそれを食べたいと思って、それを作ったのからだと仮定してみましょう。
じゃ、作ったってどうやって?
お米は素粒子の塊ですよね。
少なくともこの素粒子がお米の形をなすように結合しているために、お米として存在しているわけですね。
ところで素粒子は、波と粒の性質を持ってるんですって。
人が意識すると物質的な粒として特定地点に観測されますが、
意識しないときは可能性の波としてしか観測されない。
よくわからない話です。
でもそれが量子力学の定説だそうで。
さて、ここで話は冒頭に戻ります。
人が笑顔になるのは、嬉しい気持ちがあるからでした。
笑顔を作っているうちに嬉しい気持ちになることもありますが、その場合、「笑顔を作ってみよう」という気持ちが先にあったから笑顔を作り、その結果嬉しくなったわけです。
何が言いたいかというと
「三次元上の現象」は、常に意識が先行している
ということです。
現象の前に、
常に意識が先行している。
じゃあ、
世の中全部この法則で成り立っている
と考えてみてはどうでしょう?
素粒子が特定の形に成るのは、人が笑顔になるのと同じ。
まず先に意識があるから、と考えてみてはどうでしょう?
お米が存在してください、という意識が先に存在したから、お米が存在していると考えてみてはどうでしょう?
物質が存在してください、という意識が先に存在したから、物質が存在している、
つまり素粒子たちが特定の形に結合できていると考えてみてはどうでしょう?
そこで量子力学の話を思い出してください。
意識したとき、波は粒として、つまり物質として三次元上に現れてくるんでしたよね?
今の話と同じじゃないですか。
とすると、この目の前の物質は、それらが存在せよ、という意識の結果なのではないですか?
「いやいや、俺が意識しなくたって、いま目の前に在るものたちは消えたりしないよ」
って反論が聞こえてきそうです。
でも、ここにiPhoneが存在するのは、僕がそれを願ったというよりはスティーブ・ジョブズが願ったからでしょう。
ジョブズが願ったからiPhoneが生まれました。
僕が願ったから今日の夕御飯はカレーライスでした。
じゃ、この世に物質が今、存在しているのは僕でもジョブズでもない誰かが、それを願ったからではないですか?
素粒子が結合してくれているのは、誰かがそれを願ったからではないですか?
昔の人が考えた世界ってヘンテコですよね。
この世界は象の背中の上なのだ、って世界の想像図、見たことある人は多いでしょう。
現代を生きる人で、あれを見て笑わない人はいないですよね。
僕も今、この六行くらい上まで書いているときまでは、そう思っていました。
でもたった今、ひらめいちゃいました。
あのヘンテコな世界の想像図って、
確か象は巨大な亀の上に乗っています。
その亀はぐるりと世界を囲むような
巨大な蛇の上に乗っているんですよね。
今、Googleさんで検索したら概ねそのとおりでした。
象の上に
地球を半球状に切ったみたいな陸地があって、
その上で人は生活しているんだよ、って絵柄でした。
はい、これ、ばかみたいな想像図ですよね。
トンデモです。
いまどき子供でも
世界がこんなふうになっていると思わないですよね。
でも、こう解釈してみたらどうですか?
この『地球』を成立させているのは『象』である。
その『象』を成立させているのは『亀』である。
その『亀』を成立させているのは
世界のすべてを取り囲む『蛇』である。
この『象』『亀』『蛇』を少し言い換えてみましょう。
この『地球(=三次元世界)』を成立させているのは『象(=素粒子)』である。
『象(=素粒子)』を成立させているのは『亀(=意識)』である。
この『亀(=意識)』を成立させているのは
世界のすべてを取り囲む『蛇(=愛)』である。
そして『愛』とは『神』と言い換えてもよいでしょう。
この三次元世界の成立は、神様の愛なのではありませんか?
「物質よ、存在せよ」
「善人も悪人も楽しいことも悲しいことも全部存在せよ」
そんなふうな神の愛情なる意識によって成立しているのではありませんか?
僕がカレーライスに対する愛ゆえに、カレーライスをこしらえたのと同じように。
あるいは、ぼくがシーモンキーを愛らしいと思って、餌をあげたのと同じように。
あのヘンテコな世界想像図は、そのことを言っているのではありませんか?
だって冷静に考えてみて下さい。
いくら昔の人だからって
「この世界は象の背中の上にあるのだ」
って、何の根拠もなく言うと思います?
そんなの冷静に考えて、ヘンテコだってことはいくら昔の人でも分かるでしょう。
だってきっと自分の目で見てきたわけじゃないですからね。
「俺は穴ほって、地中の下に象がいるのを見たんだ!」
なんて、きっと言ってはいないでしょう。
世界の成り立ちを象徴的に説明してくれてるだけじゃないですか?
つまり神話と同じです。
神話って、お父さんが幼児に何かを教えるとき、よく例え話を使うのと同じです。
「カイシャってなに?」
「大人が毎日かよう保育園みたいなものだよ」
「おしごとってなに?」
「誰かが落としてしまったリンゴをひろいあつめてあげて、ありがとうって言われることだよ」
「そっかー。パパ、おりんご拾ってるんだ〜」
みたいな感じの例えです、きっと。
「この世界はどうしてあるの?」
「うーん。人間である君に教えるのは難しいけど、そうだね、君たちの世界は大きな象と亀と蛇に支えられているんだよ」
「そっかー。象と亀と蛇か〜」
「ふぉっふぉっふぉ(成長すれば、いつかその意味がわかる日がくるだろう)」
こんな感じの例えだったんじゃないですか?
素粒子なんてものが知られていない時代だったら、そんなふうに例えるしかなかったんじゃないですか?
話を戻しましょう。
ぼくがシーモンキーに餌をあげたのはなぜですか?
「こんなに小さいのに生きてるなぁ。すごいなぁ。ほら、ご飯だよ。お食べ」
そこに愛があったからです。
ぼくが旅行に出る前に猫のトイレをもう2つ段ボールでこしらえたのはなぜですか?
お留守番中にトイレがいつもの一つだけじゃ困るだろうと思ったからです。
もちろん、うちの猫ちゃんを愛しているからです。
シーモンキーの世界から見たら、ぼくという人間は認識されていないんじゃないですか?
あるいは僕が見るところの空や宇宙みたいに見えているかもしれません。
そして泳いでいたらなぜかご飯が降ってくるわけです。
なぜですか?
シーモンキーから見たら分からないかもしれません。
なぜだか分からないけど、そこにご飯があったんです。
(でも本当は僕がシーモンキーを愛していたからなんです)
じゃ、お米は?
じゃ、素粒子は?
これだって同じなのではないですか?
そこに誰かの愛があったのではないですか?
それが世界全体を包む蛇なのではないですか?
その蛇っていうのは神様の愛のことではないですか?
「はは、昔の人はばかだなー」
なんて言ってる僕らのほうが、もしやおばかさんなのでは?
シーモンキーが、もしあの小さな頭で「ご飯をこの世界に生み給うた存在」のことを想像してたとします。
「この御飯が在るのは、もしかして神さまのおかげ?」
ざんねん。神様ではなくて僕でした。
でも自分には見えない存在が、本当に存在したことは事実です。
僕の意識が、僕のシーモンキーに対する愛情が、そのご飯を水槽の中に存在させました。
更に遡るなら、シーモンキーに生まれてほしいという僕の愛が、砂粒みたいな卵に過ぎなかったシーモンキーを水槽という名の宇宙の中に誕生させました。
シーモンキーにとっての宇宙は、その水槽でしょう。
水槽の外側のことは想像もつかないでしょう。
僕らが宇宙の外側の想像がつかないのと同じように。
しかし、ぼくはここで想像してみたのです。
この三次元世界という水槽が用意されているのも誰かの愛なのではないかと。
その水槽の中に、魂という名の卵が投入されて、生命が生まれたのではないですか?
その宇宙の中に、素粒子という名の卵が投入されて、物質的存在が存在したのではないですか?
誰かの『スキ』が僕ら全員とこの世界を分け隔てなく存在させているのではないですか?
それだけ大きい愛が存在するということではないですか?
僕らの世界とは愛の結晶だったのではないですか?
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