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グラーシュを煮込みながら

グラーシュというのはハンガリー生まれの、牛肉や野菜をじっくり煮込んだ少し辛いスープでスロバキアでの定番メニューでもある。我が家でもこの時期何度も食卓に並ぶ。今日は材料がたまたま揃っていたのと、少し寒い日だったからグラーシュに決めた。

最近料理をするときに、欠かせないお供がある。
それは土井善晴さんとクリス智子さんの「料理を哲学するポッドキャスト」。
土井さんの知識の深さや上品な語り口、全てが耳に心地良くて聞き入ってしまう。
料理、生命、伝統、物語・・・いろいろな要素が繋がって料理というものについての視点が一気に広がった感覚になる。

「私にとっての料理はなんだろな?」とふと思った。
料理は好きだけど、ただの生活の一部とか、生きるためとしか認識していなかったので深く考えたことがない。

10代の時、料理は「戦い」だった。
私の中高一貫の女子高はかなり特殊で、生徒が自分たちで食事を作るシステムだった。ひと学年が担当の曜日に、約450人分の食事作りを行う。
じゃがいも何十キロ、卵何百個、米70キロとかの材料で、シャベルみたいなしゃもじとか風呂釜みたいな鍋を使う。
小学生の時は私は家で全く料理もしていなかったのに、いきなりそんな試練に立たされたのだ。

料理の先生はスパルタだった。
少しでもボーッとしているものなら怒られる。野菜と肉のボウルを厳密に分けるルールなのに混同して怒られる。
米を炊くのが1番地獄だった。なぜなら釜に薪でたいていたから、(注:平成半ばの話。昭和初期とかではない。)
非常に難しく、火を引くのが遅れたりすると焦げて臭くなったり芯のあるご飯になってしまう。米の係りに決まった前夜はプレッシャーで悪夢を見た。
この頃は料理を楽しいと思ったことは1度もなかったなあと思う。
「さあ戦いが始まる」、というような心持でいつも料理着の紐を締めていた。

19〜20代初めのころ。
料理は「喜び」だったと思う。
美大に浪人して入った私は、料理を他の人にも振る舞うようになった。
料理ってこんなに楽しいものだったの?そしてもっと気楽にできるんだと
拍子抜けした。簡単な丼ぶりのような食事でも、みんなおいしいおいしいと喜んでくれる。初めてできた彼氏にもいろんなものを作ってあげた。
ワンルームの一歩も動かなくても全てに手が届く極狭キッチンは、そんな喜びでいっぱいだった。
6年にわたるスパルタ教育(?)のおかげで、大体の材料を見れば、〇〇が作れるなとかこんなアレンジも可能だなとかレシピなしで、ほとんど何でも作れるようになっていた。
初めて自分の受けたスパルタ料理の教育に感謝の念が湧いた。
3〜4人分を作るつもりがすぐ10人分になるということはあったけど。
あと、釜に薪で米を炊く技術は役立ったことがないけれど。

20代中ば〜後半。
料理は「力」だった。
学童の先生として働き始め、子どもは大好きだけど、日々かなりのエネルギーを子供に持っていかれる。最初は手軽だからとお昼ご飯に菓子パンを食べていたが、エネルギーがもたない。そして、お弁当を作り始めた。
曲げわっぱのおっきい弁当箱を買って(多分男性用)、そこにサツマイモの揚げたものとか春雨サラダ、鶏肉の柚子胡椒焼きのような自分の好きなおかずをいっぱい詰めて持っていくようになった。お昼ご飯のお弁当が楽しみだから、頑張れる。食べた後も元気が長持ちする。
ある日、受け持っていたクラスのヤンチャな男の子に突然、「先生はえらいな」
と言われた。なんで?と聞くと「いつもちゃんとお弁当作ってるから。」と言う。
ちょっと照れてしまった。

30代の今。料理は私にとって「愛」かも。
一緒に食べる夕食を楽しみにしながら、スーパーで買い物をし、一緒に野菜を切る。どちらかが忙しい日にはできる方が作る。
付き合ってから初めて彼が作ってくれた料理は、やさしい塩加減の焼き鮭と炊いたご飯だった。きっとこの先もずっと忘れない美味しさ。
スロバキアの伝統料理やオリジナルのハンバーガーも振る舞ってくれる。
日本から持ってきたポン酢と柚子胡椒で、手軽にお鍋を囲む日もある。
もちろん、スパルタ時代のメニューも今も役立っている。

これから何十年先も一緒にご飯が食べたいな。いろいろ作ってあげたいな。
もしこの先、家族が増えたらどんなふうに料理が変化していくのかな。


そんなこんなでグラーシュのいい香りがしてきた。
もしよかったら皆さんも作ってみてください。前に描いたイラストレシピです。


前に、唐辛子(ハバネロ)を3つほど入れたら悪魔のグラーシュなるものができました笑
ココイチで7辛〜とか大丈夫な方はいっぱい唐辛子を入れても美味しいかも。


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