出来損ないの恋〈加筆修正版〉

登場人物

●傍野 逢
優柔不断で甘ったれ、欲には忠実な主人公。
過去にトラウマがあり、一人になる事への恐れや誰かに必要とされる事への願望が強い。

●渡辺 美優紀
ふわふわしていて流されやすい、逢の元カノ。逢からのアプローチに押される形で付き合う事になったが、交際半年後にはそれを上回る好意を抱くように。
破局の原因は自身の浮気で、逢の方から身を引くように仕向け、事を進めていた。それにも関わらず、破局後も時折連絡してくる。

●吉田 朱里
美優紀の親友。モデルのような容姿だがそれを鼻にかけない、明るくフレンドリーな性格。
逢とは、美優紀と交際半年後に紹介されて知り合い、以来三人で遊ぶような間柄になったが、二人の関係が危うくなり始めた頃から関わりがなくなっていた。破局から半年後、突然連絡がくる。

●山本 彩
サバサバした性格だが友達想いな、逢の親友。逢と美優紀・朱里の関係を一部始終知っており、破局後は特に逢の事を心配していた。優しく見守り、時には厳しく諭す、良き相談相手。




今こそ、立ち向かう時なのかも知れない。
甘ったれで、優柔不断で、それでも欲に忠実な僕自身に。

とことんネガティブで、少しでも “駄目かも知れない” と諦めの感情が湧いた瞬間に、何もかも嫌になる。些細な出来事にも動揺し、決断力の欠片も無い。
そんな僕でも、どうやら自身の欲には、驚く程に忠実なようで。

今、目の前ですやすやと眠る彼女を、昨夜この部屋に招き入れた時、いや、きっともっと前から。
僕は、自身の欲に塗れていたと思う。



ー出来損ないの恋ー



『出来損ないのくせに』

昔、義父に吐き捨てるように言われたこの言葉は、今でも僕を時々苦しめる。

忘れてしまいたかった。
忘れようとした。
忘れたつもりでいた。

しかし、どうやら人間の記憶力というのは、想像以上に優れているようで。
一人の夜に目を閉じれば、フラッシュバックしてしまう過去。

そんな夜は、自分でも嫌になるくらい感傷的になって、誰かの温もりを傍に感じたくなる。
つくづく、僕という人間は甘ったれだと思う。

「美優紀と別れんでたんも、一人になりたくなかっただけなんかな…。やったら、僕の方が最悪やん…」

なんて、誰も居ない部屋で呟いたって、何かが変わる訳でもない。
本当は気付いていたのに目を背け続け、それでも彼女の背徳行為に哀しさと怒りを抱かずにはいられなかった、幼稚な自分。

どこでどう間違えてしまったのか。

今更考えたって、あの日の彼女が戻ってくる訳でも、昔のような愛しさが蘇る訳でもないが。
それでも、三年という年月は、愛以外の情を抱かせるには充分過ぎるものだった。

「新しい男と、上手くいってんやろか。…あいつ、ワガママやから、きっと呆れられてるんやないかな」

“美優紀のワガママに付き合えるのも、それすら包み込めるのも、きっと僕だけだ。” なんて、変な自信があった僕。

そんな想いも断ち切られた僕に、三年間を美優紀だけの為に費やしてきた僕に、残ったものなんて何一つ無くて。
今日も今日とて、感傷に浸り、朝が来るのを待つ為だけに目を閉じる。


街を歩けば注目の的になってしまう程の美人、モデルのようなスタイル。でも決して、それを鼻にかけたりはしない、気さくな人柄。
そんな彼女とは元々、面識はあった。

こんな僕に嫌気が差したのか、はたまた自身の浮気の後ろめたさなのか、最悪な形での別れを選んだ美優紀の、その親友が彼女だった。

「初めまして! …て言うても、美優紀から惚気は散々聞かされてたから、初めてって感じしないなぁ」
「ちょっと、やめてや!」
「どうも、初めまして。傍野逢です。いつも美優紀が世話んなってます」
「はいはーい! お世話してまーす」

も~!と言いながら、少しだけ頬を紅く染める美優紀に、“我が彼女ながら可愛いな”、なんて思っていた当時の僕。
付き合って半年程の事で浮かれていたのもあるが、自分の彼女が一番可愛いと本気で思っていた。

しかし、今思えば。
それ以上に、彼女の明るくフレンドリーな性格や、優しくて美しい笑顔に惹かれてしまっていたのかも知れない。


フラれたと言うより、僕から身を引くように仕向けられたと言った方がしっくりくるような、最悪な終わり方だった。
当然、それ以来、美優紀とは一切連絡を取っていない。

長い付き合いだったが、終わりが見えてからは、あっと言う間だった。
別れて半年、たまに着信が入っているが、全て無視していた。

「何で今更、連絡なんかしてくんねん…」

傷口に塩を塗られているような気分だった。何を今更、話す事などがあると言うのか。

その日もまた、着信履歴には美優紀の名前が。着信拒否をしても残ってしまう履歴、“渡辺美優紀” の文字。
それが僕を、どうしようもなく遣る瀬無い気持ちにさせる。

本当はアドレス帳から消してしまいたかった。何度も消そうとはした。
しかし出来なかったのは、三年という年月のせいか。それともやはり、僕が甘ったれなせいなのか。

ぐるぐると負のループに陥りそうになっていた僕のスマホが、また鳴り出す。
珍しいしつこさを感じ、再びスマホに目を向けると、そこには予想外の名前が表示されていた。

「……吉田、朱里?」

彼女とは、美優紀と別れてから一度も会っていない。
別れる前はよく三人で遊びや飲みに出掛けていたものだが、僕の中では、美優紀と終わった時点でこの子との関わりも無くなるのが当然だという認識だった。

まさか、その彼女から連絡がくるなんて、思いもしなかったのだ。

「…もしもし?」
「あ、逢ちゃん? 良かったぁ、出てくれて。朱里なんかと関わりたくないかと思っとったから…」

恐る恐る通話ボタンを押すと、安心したような、少し懐かしい声が聞こえた。

「いや、そんな事ないで?」
「ほんまに? 嬉しい」

嘘ではなかった。確かに予想外ではあったが、関わりたくないとまでは思っていない。
美優紀の事を抜きにさえすれば、朱里ちゃんはとても良い子だし、彼女が友達でいてくれると言うなら、むしろこちらからお願いしたいくらいだ。

「それで? どうしたん急に? 朱里ちゃんから電話なんて珍しいやん」

美優紀と付き合っていた時でさえ、彼女から連絡がくるなんて事はほとんど無かった。
美優紀という共通項が無くなった今、どんな理由があって彼女が連絡をしてきたのか、僕には思い当たらない。
何か、余程の事があったのだろうか。

「うーん…特に用事があるとかやないんやけどな? ……ほら、もう半年以上も遊んだりとか無かったやん? どうしてるかなぁって…」

僕を気遣ってか、言葉を選びながら話し始める彼女。
美優紀の名前は出さないようにしてくれているのが分かった。

「うん、まあ元気やで? 朱里ちゃんは?」
「朱里も元気やったで? ……半年前までは」「……え?」
「……………」

彼女の気遣いにホッとして話し出した僕だったが、唐突に訪れた気まずい沈黙に、次の言葉が出てこない。

「……なぁ、逢ちゃん。今日暇やったら、会えん? 久し振りに一緒に飲みに行かん…?」「お、おん」

意を決したような声色で、沈黙を破る彼女。こんな彼女の声を聞いたのは、出会ってから初めてだった。
彼女の意図を考える間も無く、僕はその提案を受け入れた。

「ありがとう! じゃあ、7時に駅前で待ち合わせよう」
「分かった」
「うん、待っとる。また後でな?」

ワントーン上がった彼女の声の後、無機質な通話終了の音でやっと我に返った僕。
終始、彼女のペースで進んだ会話に、ずっと飲まれてしまっていたように思うが。何故か僕の胸には、驚きと違うドキドキがあった。


「……で? 久し振りにあんたから連絡してきたと思ったら。なんや、そんな事かいな。ったく、心配して損したわ」
「んな事言うなや、彩。本気で悩んでんねん」

突然の出来事に、すっかり戸惑ってしまった僕。
こんな時はあいつに相談するしかないと、すぐさま連絡して一通り話したが、その相手からは冷たい言葉が返ってくる。

彩とは高校時代からの付き合いで、親友とも呼べる存在だ。
昔から、いつも僕を優しく見守ってくれ、時には厳しく諭してくれもした。本当に良い奴で、僕なんかの親友にしておくのは勿体無い。

美優紀との事も親身になって相談に乗ってくれ、今まで上手くやってこれたのは彩のお陰だと言っても過言ではない。
しかし、破局間近から妙に彩が冷たくなったように感じるのは、僕の気のせいだろうか。

「あんなぁ…。急な電話で、んな事聞かされるこっちの身にもなってや。高校ん時から、あんたの心配ばっかしてきてんねんで? ほんま疲れるわ」
「すまんて。彩には感謝しとるよ、ほんまに。美優紀との事も…彩が居らんかったら、ここまでもたんかったと思うし」
「……それなぁ。うち、後悔しとんねん。下手に励まして、無理もさせてしまったやろ? そのせいで、あんたがあんなに苦しんだと思ったら…あかんねん。ほんま、すまんかった」「…………」

彩からの、思わぬ謝罪だった。彩に悪い所など一つも無いと言うのに。本当にこいつには、頭が上がらない。
どんなに僕が情けなくても、口ではぶつぶつ文句を言っていても、絶対に見捨てたりしない。友達想いにも程がある。

「もう、この話は終いや」

沈黙に耐え兼ねてか、話を切り上げようとする彩に、悪戯心がふと湧き上がる。

「彩が謝る事なんか一つも無いやろ? 僕が彩に謝る事はあっても、謝られる事なんか無いで。…彩、ほんまにありがとうな」
「…うっ、うっさいわボケ!」

電話越しでも充分、照れているのが分かった。
普段こうして改まって謝る事も礼を言う事も無い間柄だからか、僕も煽ったものの少し照れくさい。

「で、どうすんねん?」

いつもの調子で彩が本題に戻すが、相変わらず答えは出ない。

「どうしたらええんやろ…。朱里ちゃんはええ子やし、せっかく誘ってくれたんも嬉しいねんけど…」

どうしても過ってしまう、美優紀の存在。
彼女を疑うつもりは無いが、誘われた席に美優紀が居ないとは言い切れない。そう思うと、躊躇う気持ちが勝ってしまう。

こういう優柔不断さがいけないという事は解っている。そこに愛想を尽かされた事も、充分理解しているつもりだ。

「あー、もう! ごちゃごちゃ言うなや! あんたが引っかかってる事は分かるで? けど、流石に渡辺もそこまで図々しくないやろ。ちゃんと朱里ちゃんの事、考えてやり? …それに、もう答えなんか出てるやろ」
「出ないから彩に連絡したんやんか」

いつまでもはっきりしない僕に、痺れを切らした彩が、一気に捲し立てる。

「うちに電話してきた時点で、答えは出てんねん! 朱里ちゃんに誘われて嬉しかったんちゃうん? でも、そこで渡辺が過ったから、どうしようってなったんやろ? それって、行きたいのに…って事じゃないんか?」
「……おん」
「行きたいんやろ? 四の五の言わんと、行ったらええやんか」

高校時代から、幾度となく繰り返されてきたやり取り。口調はキツいが、僕の事を考えて言ってくれているのが解る、優しい叱咤に胸が熱くなる。

「…やっぱ、すげえわ。彩、さんきゅ」
「ったく、世話の焼ける奴や。毎回、豚まんで済ましてやっとるん、感謝しいや?」
「ほんま安上がりやわ(笑)。今回は串カツな!」

ほんまかいな、なんて笑いながら電話を切る彩。
最後にはいつも笑い合える、そんな関係に、心から感謝している。

また彩に背中を押してもらってしまった。彩の言う通り、答えは最初から出ていたのだろう。さっきまでの躊躇いなど無かったかのように、僕の心は晴れていた。

欲には忠実。それが僕なら、そうしよう。

そうと決まれば、と。僕はクローゼットへと向かった。


「もうこんな時間か! 急いで準備せなっ」

モデルのような容姿の彼女と並んで歩くには、やはりそれなりに準備が必要だった。
普段はスウェットやジーンズスタイルで、五分もあれば充分な僕だが。彼女と遊ぶ時には、自分なりに少し背伸びしてオシャレをしなければ、と思ってしまうから不思議だ。

こっちが良いか、それともこっちか…などと柄にも無く悩んでいたら、待ち合わせ時間のギリギリになってしまった。

「お待たせ! ごめんな、待たせちゃって」
「ううん、久し振り! そのジャケットえぇな、カッコいい」
「久し振りやな。…どこ、行こか?」

駅前に着いてから、彼女はすぐに見付けられた。一際目を惹く容姿な上、本当にオシャレだ。
洋服をここまで綺麗に着られる彼女に、服装を褒められて照れてしまった僕は、とにかく先へ急ぎたくなった。思わず、ぶっきら棒に言葉を返してしまったが、彼女は目を細めて笑う。

「ふふっ、相変わらず照れ屋さんなんやな。朱里、こないだ美味しいスペイン料理屋さん見付けてん。そこでもえぇ?」
「おん、ええよ。朱里ちゃんが美味しい言うんなら、ほんまに美味しいんやろな」
「何言うてるん(笑)。…ほら、こっちやで? はよ、行こ?」
「…ちょ、朱里ちゃん!」

自然な仕草で僕の手を引く彼女の上目遣いに、少しドキドキしながら。
そう言えば、こうして触れ合うのは初めてである事に、あえて気付かない振りをした。

彼女も少しウキウキしているように見えるのは、きっと気のせいではないはず。
そう思うと、それを指摘する事で、この触れ合いの時間を失ってしまう事が惜しかった。

そのまま手を引かれ、辿り着いたスペイン料理屋さん。…そこは、別れる前、美優紀を連れて来ようと思っていた店だった。

「ここ、ここ! えぇ雰囲気やろ? 個室もあんねん」
「…おん」
「…もしかして、来た事あるん?」

何とも言えない表情をしているであろう僕に、少し眉を下げて尋ねてくる彼女。
誰と、とは言わない所に、また彼女の気遣いを感じた。

「いや、一緒に来た事は無いで? 一人でよく来んねん。連れて来ようと思った事は、あったんやけど…な」
「…………」

彼女に気を遣わせてばかりなのが申し訳なくて、初めて見る彼女の表情に動揺して、つい自分から美優紀の話題を振ってしまった。
彼女は途端に黙り込んでしまい、僕達の間に気まずい沈黙が流れる。

「お、珍しく今日はお一人じゃないんですね? では、こちらの個室へどうぞ」

その沈黙を破るように、雰囲気を察してか否か、顔見知りの店員さんは極上の笑顔で案内してくれた。
席に着くなり、“本日のオススメ” と軽めの赤ワインを注文する。

店員さんが去ったのを確認してから、雰囲気を変えようと必死に頭を働かせるが、僕達の共通の話題など浮かびもせず。
僕達の関係を繋ぐ唯一の存在が、今となっては一番のタブーである事が恨めしい。そこを避ければ、会話すら成立しないだなんて。

それでも、避けようとすればする程、それ以外は何も浮かばない。
この気まずい沈黙が続くくらいなら、と。口をついたのは、やはり美優紀の事だった。

「…あー、朱里ちゃん。今日ってもしかして、あいつとの事…?」
「ううん、ちゃうねん。朱里が、逢ちゃんに会いたかってん…」
「ほんま久し振りやもんなぁ。最後に遊んだん、美優紀と別れる何ヵ月前やっけ…二ヵ月? ほんなら、かれこれ八ヵ月振りか! すごいなぁ、ほん…」
「逢ちゃん!!」
「……ま」

最後まで言い切る前に、遮られた僕の言葉。気まずさに耐え切れず口早に、視線を逸らして話していた僕だったが。
そこで初めて正面を見ると、彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「美優紀の事はえぇやん…。そんな、泣きそうな顔して話さんでよ…」
「泣きそうな顔なんてしてへんよ」

彼女の目には、僕が泣きそうな顔をしているように映っているという。そんなはずは無いというのに。

「しとるよ! ……ほんまは、朱里が会いたいって言うたら、逢ちゃん…美優紀を思い出して辛いかなって思っててん。でも…どうしても会いたくて、我慢出来んくて…電話してしまってた」
「…朱里ちゃん?」

明らかに、泣きそうな顔をしているのは彼女の方だった。思わず、僕の手が、彼女の頭を撫でる為に動く。
僕から彼女に触れるのは初めての事で、最初は驚いた様子の彼女だったが、振り払われる事は無かった。

「そんな、優しくせんとってよ…」

少し俯いた彼女の頬を、静かに流れる雫。僕は、気付かぬ振りなど出来なかった。

「…すまん。目の前で泣かれたら、放っておけん」
「……なぁ、朱里な? 二人が幸せなら、ってずっと思っとった…」

触れている僕の手はそのままに、ぽつぽつと話し始める彼女。いよいよ、どうしたら良いか分からなくなって、彼女の顔だけを見つめる。
彼女の瞳からは、どんどん涙が溢れてきて、僕は頭の片隅で “美人は泣いても綺麗なんだな” なんて、どこか冷静に考えながら、ただただ彼女の頭を撫で続けた。

「最後に三人で遊んだ日、逢ちゃん元気無くて。雰囲気もいつもと違くて、何かおかしいと思っててん。そしたら、次に美優紀と会った時には、もう別れた言われて…。朱里、ちゃんと上手くいっとるって思ってた。二人の事、ずっと応援しててん…」
「…ごめんな、もう終わってしまってん。大事な親友やのに…心配したやろ? 僕のせいで、ごめんな」

僕と美優紀の関係の不安定さが、彼女の感情を乱してしまった事を申し訳なく思った。

「何で逢ちゃんが謝るん?! 逢ちゃんのせいやないやん! 朱里、聞いたで…美優紀が浮気したんやろ…?」
「……知っとったか。…うん、浮気されてん。てか、本気やってん。ははっ、ダサいやろ? 笑ってええで?」
「笑わんよ!! 笑ったりなんかせえへん」

今まで泣いていたとは思えない程、揺るぎの無い真剣な瞳で見つめてくる彼女。
彼女の手は、僕の頬にそっと伸ばされ。僕は、それを黙って受け入れた。

「逢ちゃん、何で辛い時に限って笑うん? 無理して笑わんでよ…。朱里が一緒に泣くから、泣いて…えぇよ?」

そう言って泣きながら微笑んだ彼女に、初めて会ったあの日に感じたものと同じものを感じた。
やはり、この子は優しくて。とても良い子で。この子だけ、きっと、出逢った頃から変わっていない。

「もう泣かれへんよ…もう、たくさん泣いてん。涙も出えへんくらい、たくさん泣いてん」
「…嘘。まだ泣けるやん。まだ、美優紀の事想って泣けるんやん…」

テーブル越しに、そっと近付いてきた彼女の唇が、僕の目元に静かに触れた。
しょっぱい、と少し笑いながら言う彼女の優しさに、触れられている頬は勿論、心まで温かくなった。

「ちゃうよ。あいつを想って泣いてるんやない」
「強がらんでえぇよ。…まだ、好きなんやろ?」
「僕なんかの為に、朱里ちゃんが泣いてくれたんが嬉しかってん。美優紀の事は、もう吹っ切れとるよ」
「…そんなん言われたら、期待してまうよ?」

初めて揺らいだ、彼女の瞳。
僕の自惚れじゃなければ、きっと。

「期待して…えぇで?」

頬に触れたままの彼女の手が離れてしまう前に、そっと手を重ねた。大きな彼女の瞳が、更に大きく見開かれる。
僕も内心、とてもドキドキしていた。ごく自然に出た言葉ではあったが、きっと彼女にとっても、僕にとっても。それは、予想外の言葉に違い無かった。

再び流れる沈黙。しかし、それに先程のような気まずさは無く、その沈黙さえ心地良くて、僕達はただ見つめ合っていた。

「失礼いたします」

静寂の中に響いた、ノック音と店員さんの声。驚いて姿勢を正した二人がとても可笑しく思えて、顔を見合わせて笑った。


どれくらい飲んだだろうか。あれからボトルで二、三本は空けたような気がする。
真っ赤な顔でニコニコ笑う彼女が、ご機嫌に「もう一軒!」と言ってきかないので、二軒目へと向かった。

今度は、庶民的な大衆居酒屋で、何となく彼女のイメージには似合わないと考えていると。周囲の人々もそう感じるのか、彼女が美人だからか、特に男達の視線が集中してきているような気がした。

「朱里ちゃん、行くで」
「んぅ? 逢ちゃん? ここ、どこ?」
「居酒屋や。…すいません、個室空いてます?」

酔った彼女を周囲の目に晒すのが嫌で、入店してすぐに店員さんへ声を掛けた。
間も無く通された個室に入るなり、テーブルへ突っ伏してしまう彼女。支えがあるとは言え、割としっかり歩けているように見えたが、思っている以上に酔っているのだろうか。

「ほんまに大丈夫か?」

そのまま寝てしまうのかと思いつつ声を掛けると、急に顔を上げる彼女。色白ゆえに尚更、紅く染まっているその顔は、溶けてしまいそうな程の笑顔で。その口元は、綺麗な弧を描いていた。

「なぁ、逢ちゃんって、意外とヤキモチ焼きなんやな?」
「っ、はぁ!?」
「やって、さっきの…嫉妬やろ?」
「ばっ、んな事あるか!」

酔っている割に鋭い彼女の、的確な指摘に動揺してしまう僕。図星過ぎて、恥ずかしさが込み上げる。
恐らく、彼女よりも紅いであろう顔を見られたくなくて、家まで送る為に立ち上がろうとすると。

「帰らんよ? まだ、逢ちゃんと飲むねん」
「…それ以上は飲まん方がええんちゃう?」「えぇの! 飲める!」

僕の腕を引き、そう言い張ってから二時間。本当に飲みに飲んだ彼女は、今度こそ一人では立ち上がれない程に酔っ払ってしまった。

「あーあ、言わんこっちゃない。歩けんやろ? ほら、掴まり」
「うふふー、役得やなぁ」

ふらふらの彼女を連れ、何とか居酒屋を後にしたものの。終電の時刻はとっくに過ぎており、駅に向かっても仕方がない状態だった。
僕は徒歩圏内だが、彼女は確か数駅先だったはずだ。タクシーで送るか始発を待つかの二択が過った結果、もう少し一緒に居たいと思ってしまった僕は、なるべく自然さを装って提案する。

「何が役得やねん(笑)。…終電無いけど、どないする? カラオケでも行って時間潰す?」
「えぇー」

少し不満気にすり寄ってくる彼女。一軒目で流れたような雰囲気は、あれ以来無かったとは言え、無闇にくっ付かれると変に意識してしまう。
今この瞬間、僕の意識は確実に。紅く染まる彼女の美しい横顔や、今まで触れた事の無かった華奢な腰や、歩く度に腕に当たる柔らかな感触に奪われっ放しだ。

「なぁ、逢ちゃん? コンビニで買い出しして、逢ちゃんの家で飲み直さへん?」
「まだ飲むつもりなん? 飲み過ぎやで。ストレスでも溜まってるん?」

どう見ても、これ以上は飲めるはずもない彼女の提案に、僕の目は丸くなっていただろう。

「はぁ…もう、鈍感やなぁ。逢ちゃんの家で、ってのがポイントやん」
「……へ?」
「お持ち帰り、してえぇよ?」
「…ばっ、何言うてんねん!」
「さっきからアピールしとるん、気付いてないん?」

そこで初めて、先程から腕に当たっていた柔らかな感触の意図を知る。知ってしまえばもう、そこにしか意識がいかなくなってしまった。
その言葉の真意を量る為に彼女の瞳を見つめると、彼女も同じように見つめ返してきた。

アルコールのせいで潤んだ、彼女の大きな瞳に吸い込まれるように引き寄せられ、そっと触れ合う唇。
僕は、今まで感じた事の無いような安心感を覚えた。

「…ふふ。しちゃったなぁ? ……ほんまは、酔ってない時が良かったんやけど」
「…すまん。何か、酔った勢いみたいな感じになってしまったな。でも、ちゃうからな? 勢いとかや、ないから…」
「うん、分かっとるよ。逢ちゃんはそんな人やないもん。……なぁ、逢ちゃんも朱里と同じ気持ちやって、信じてもえぇの…?」

目を細めて笑っていたのも束の間、彼女の表情が少し不安そうに曇り出す。
そんな顔をさせたい訳では無かった僕は、彼女にまた笑って欲しくて、つい茶化してしまう。

「おん、信じてええよ。朱里ちゃんの気持ちがどんなんか分からへんけどな(笑)」
「ちょっと! 何でそんな意地悪言うん? …ヘタレのくせに(笑)」
「それ言われると辛いなぁ(笑)。……ま、とりあえず。うち、来るやろ?」
「行くけど…。何や誤魔化されたなぁ」

彼女の言う通り、僕はヘタレで。今も、笑って許してくれる彼女の優しさに流されてしまうだけの、ただの甘ったれで。
気持ちはきっと、同じはずなのに。はっきりと言えないまま、それでも彼女を連れて帰ろうとする僕は、本当に欲に忠実だと思う。


自宅マンションのエレベーターの速度を、こんなに気にした事なんて無かった。いつもは気にならないオートロックの解錠だって、邪魔くさくて仕方無かった。部屋の鍵も、玄関の電気も、背負っていた鞄の置き場も、全てが煩わしかった。

「…もしかして、焦ってるん? ふふっ、かわえぇなぁ」
「べ、別に焦ってなんかないわ。ほら、靴脱ぎ?」
「えぇー、いきなり脱げなんて…大胆やな?」

先程の仕返しのつもりなのか、少し意地の悪い笑顔を浮かべながら、僕をからかう彼女。
否定はしたものの、焦りと言うか、ドキドキして落ち着かないのは本当だった。

僕は黙って彼女の靴を脱がせると、電気を点ける事もせずに、彼女を抱えて寝室へと向かった。
彼女の体をベッドに横たわらせて、その特徴的な唇を思う存分に味わう。

「ん……ぅ…。ちょっ、ほんまに大胆なんやけど(笑)」
「すまん…。あかんねん。もう…我慢出来ひん」
「聞いてた通り…夜は獣ってほんまなんやな?」

誰から聞いていた事なのかなんて、考えなくても解る事だった。あえて名前を口にしなくても、今までの僕達を繋いでいた存在は一人だけ。
しかし、今これから始まる二人の時間に、その話題だけは避けたかった。

「…今ここに居るのは、僕と朱里やろ? それ以外の話なんか、要らんねん」
「いきなり呼び捨ては反則やん…。普段優しいくせに、こういう時だけ肉食とか…あかんって…惚れ直してしまうやんか」

まるで初めて恋をした少女のように、恥ずかしそうに目を逸らす彼女。暗がりでも分かる程に頬を染めて、照れながらも好意を口にしてくれた彼女に、堪らなく愛しさが込み上げてくる。

甘ったれで、優柔不断な僕に、今こそ立ち向かおうと思った。

僕の感情を曖昧にしたまま、彼女を抱き締めてはいけない。こんなに真っ直ぐな感情を向けてくれる彼女に、きちんと応えない僕でいては駄目だ。

「朱里…好きや。朱里の事が、好きやねん。きっと、出逢った時から惹かれてた…」
「朱里も、逢ちゃんが好きや。…ずっと、片想いしててんで?」

出逢った頃の僕達と、今の僕達の想いが、ようやく繋がった気がした。
きっと出逢った頃から変わっていない真っ直ぐな彼女と、甘ったれで優柔不断な僕が、遠くで笑っているような気がした瞬間だった。

「ありがとな、僕を好きになってくれて……幸せや。大切にするから」
「朱里の方が大切に出来る自信あるで? もう二年も、ずっと好きなんやから(笑)」
「じゃあ僕は、二年なんて気にならんくらい、ずーーーっと。これから先、朱里だけを大切にし続ける」

恋愛の始まりたての、不毛なやり取りすら愛おしい。

「ずっと、傍に居ってくれる?」
「えぇー、ずっと?」
「何や、嫌なんか(笑)」
「ふふっ、嫌な訳ないやん。朱里、今すっごい幸せやで」

愛らしい笑顔で、冗談交じりでも真っ直ぐに想いをぶつけてくれる彼女は、僕には勿体無い程に素敵な人だと思う。
これから始まる彼女との日々は幸せに満ちているのだろうと、胸が温かくなった。

同じ気持ちでいてくれたら、と。彼女を見つめると、その瞳は潤んでいて。

「…なぁなぁ」
「…ん?」
「続き…せぇへんの?」

先程までとは違った、大人びた彼女の微笑みに。僕の脆い理性なんて、呆気無く崩れた。


太陽の光で、自然と目が覚めた。
こんなにぐっすりと眠れたのは、いつ振りだろう。

目の前には、すやすやと眠る美しい彼女の顔があって。彼女と想いが通じ合ったなんて未だに信じられないが、布団の中で繋がれている手が、それをしっかりと物語ってくれていた。

「…それにしても。ほんま、綺麗やなぁ」

空いている手でサラサラの髪を撫でると、綺麗な寝顔と首から肩にかけてのラインが布団から覗いて、思わず息を飲んでしまう。
堪らず、その白い首元に吸い寄せられるように近付くと。

「朝から獣なん?(笑)」
「…っ!?」

頭上から突然聞こえた声に驚き、咄嗟に離れる僕を見て、彼女はクスクスと笑った。
焦りながらも、“寝起きも可愛いのか” などと考えてしまう僕はもう、相当に重症だろう。

「いつから起きてたん?」
「うーん… “それにしても” 辺りからかな?」「最初からやんか!」

一枚上手な彼女のからかいに悶える僕を横目に、彼女は笑いながらベッドを抜け出すと。身なりを整えながら、昨夜脱ぎ散らかした服だけでなく、元々散らかっていた僕の部屋を自然な動作で片付けていく。

「昨夜は暗くて気付かんかったけど…結構散らかってるやん。朱里が片付けたるな?」
「あー、すまん。片付け苦手やねん…」
「物たくさんある割には収納が少ないんやな。…ん、せや! 今日休みやろ? お買い物行こーや」

僕の駄目な部分を見ても、責める事よりも改善すべき点を諭してくれるような、温かな優しさで溢れた彼女。

「おん、ええけど…」
「そうと決まれば、準備やな! …はよ、シャワー浴びよ?」

イメージ通りと言えばそうなのだが、好きな人には尽くすタイプなのだと改めて分かって、その対象が僕である事が嬉しくて仕方が無かった。
そして、首を傾げながらのその台詞は破壊力が抜群過ぎて、僕の理性は今日も今日とて仕事をしてくれない。

買い物に行く準備を始めようとする彼女の体を引き寄せ、再びベッドへ横たわらせる。

「もー……ほんま、獣や獣。優柔不断で甘えたでヘタレなくせに欲には忠実な、ダメダメな逢ちゃんには、朱里ぐらいが丁度えぇな?」
「アホ。勿体無いくらいや」
「せやな(笑)」

優しさに溢れた、美しいその笑顔に。初めて心惹かれたあの日を思い出す。

こんな僕を受け入れてくれた彼女を、絶対に幸せにしたいと心から思う。
甘ったれで、優柔不断な僕だけど。欲には忠実過ぎる、ダメダメな僕だけど。出来損ないかも知れないけど。この誓いだけは、違えない。

「朱里…ほんまに好きや。僕と、付き合ってください」
「うん、ずっとずっと宜しくお願いします。ふふっ、改まると照れるな。逢ちゃん…大好きやで」



出来損なった恋を、今度は君と。




Fin.


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