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自動車學校の思ひ出:行動しながら考へる事の難しさ

始めに

多くの人は自動車學校を、自動車等の運轉免許を取得する爲に通つた場所として記憶してゐるであらう。けれども私は自動車學校を、運轉免許を取得しに行く場所といふよりも、死角といふ事について考へさせられた場所として記憶してゐる。

1 視野に入つてゐる筈の範圍內にも死角はある

自動車學校に入つて間もない頃に受けた或る學科授業で、こんな事があつた。その講義を擔當してゐた講師の方は、誰もゐないと思つた所に實は人がゐて、それに氣付かなかつた爲に生じる事故の存在に言及した後、次の樣な趣旨の事を仰つた。「死角とは、視野に入つてゐない所だけではない。死角は、視野に入つてゐる筈の範圍內にも存在するのである」と。この言葉は、自動車學校を卒業した今も、强く印象に殘つてゐる。

あの講師の方が仰つてゐた事は、自動車を運轉する場合にのみ當嵌るものであらうか。さうではあるまい。思ふに、あの言葉は、自動車を運轉する場合も含めた、我々の在り方を端的に言ひ表してゐる。

例へば次の樣な事が想定できる。我々は道を步いてゐる時、自らの足元を一々氣にしてはゐない。しかし何かに躓いて轉んだ時、足元を見ると、自分が躓く原因となつたらしい石や段差の存在に氣付く。轉ぶ前に「足元に何がある?」と尋ねられたならば、多くの人は「何もないよ」と答へるであらうが、轉んだ後に同じ質問をされると、「小石があつた」とか「段差があつた」等と答へるに違ひない。

轉ぶ前の狀態は、自動車を運轉する時に「そこには誰もゐない」と思つてゐる狀態に當り、小石や段差等に躓いて轉んだ時は、「そこには誰もゐない」と思つてゐた所に實は人がゐて、その事に氣付かずに人とぶつかつてしまひ、事故を起す結果となつてしまつた場合に當る。

2 ”見る”とは”見ない”事

その樣に考へてくると、次の事に思ひ至る。我々が何かを見て「これは~だ」と看做す時、我々は既に何かが見えなくなつてゐる。或は、見るといふ事は見ない事で成り立つ、と言つた方がよいのかもしれない。更に短く言ひ換へると、”見る”とは”見ない”事なのである。

然りとすれば、私が自動車學校で聞いた件の言葉の射程範圍は、日常生活だけに止まるものではあるまい。社會科學や自然科學は言ふに及ばず、哲學や文學等の分野も含めて、所謂學問硏究も人間による營みである以上、同じ事が言へる筈である。さうした事情は、福田恆存が次の樣に述べてゐる。

しかし、ある時代の思想や制度は、人々がそれとどういふ關りをもつて生きてゐたかといふ主觀的な要素を拔きにして考へることの出來ぬものです。考へられないばかりでなく、存在しえないものであり、事實そのやうには存在してゐなかつたのです。現實を客觀的、科學的にとらへるといふやうなことがよく口にされる。それもよいでせう。また必要なことでもありませう。が、困るのは、現實を客觀的、科學的にとらへるといふことが、そのまま現實のすべてを餘りなくとらへつくすといふ意味において通用してゐることです。これは大きな間違ひです。現實といふものは、もともと客觀的、科學的に存在してゐるものではなく、それぞれの時代人との關係において存在するものです。といふよりは、その關係こそ現實なのです。つまり、所有といふ主觀的、心理的な事柄のほかに、歷史的觀察もなければ、現代の現實も存在しないのです。(福田恆存「傳統にたいする心構」、同『文化なき文化國家』東京:PHP硏究所、1980年、73頁、初出は1960年)

この一節からは、次の事が引出せる。卽ち、我々が何らかの事物について「これは~だ」と看做す時、その「これ」=「~」といふ圖式は、問題となつてゐる事物それ自體といふよりは、事物と我々との間で取り結ばれた關係を指してゐるのである。また、その關係の中で我々の在り方が形作られてゐる以上、「~」と看做された事物はそのまま我々の在り方である、といふ事にもなる。

分野の別を問わず、古典と呼ばれる文章が長く讀み繼がれてゐるのは、そこで何が論じられてゐるかといふ事もさることながら、それがどの樣に論じられてゐるかといふ事を通じて、文章の內容を規定する書き手の在り方――換言すれば、物事と書き手との間で關係が取り結ばれる樣子――が讀者に强く傳はるからであらう。この事は、讀者の側から見ると次の樣に捉へ直せる。讀者はその文章に親しむ中で、物事と付合ふ手掛り――それは”見る”を成り立たせる”見ない”の形に外ならない――を敎はるのである。考へ方を省察する中で、豁然と視界が開けてくる樣な經驗があるのはその爲だらう。

3 車道といふ環境

前章の內容を踏まへた上で、自動車學校の講師の方が仰つた件の言葉に立ち戾ると、「視野に入つてゐる筈の範圍內にも存在する」死角を察知するには、自らの在り方に對する省察が求められるといふ事になる。我々は何かを考へる際に言葉を用ゐるわけだから、自らの在り方を省察するといふ事は、自らの在り方を言ひ表す言葉を練る事とも言ひ換へ得る。

ここで次の疑問が浮ぶ。自動車を運轉してゐる時といふのは、言葉を練るのに適した狀況であらうか。別言すると、車道といふ環境は果して、言葉を練るのに適した環境であらうか。私自身は、車道が言葉を練るのに適した環境である、とは思へなかつた。その樣に思はざるを得なくなつたのは、路上敎習中に次の樣な經驗をしたからである。

その時に走つてゐたのは市街地であり、時速40キロの速度制限が適用されてゐた場所だつた。從つて、その時の自動車の速度は時速30キロ臺後半であり、どちらかと言へば遲い部類に入るであらう。敎習中に、助手席に座つてゐる講師の方と話をする機會は誰しも一度はあると思ふが、その時の私も講師の方と話をしてゐた。話の內容自體は世間話であつて、何も難しいものではなかつた。ところが、自分の考へを相手に傳へるべく言葉を練らうとすると、運轉の方が疎かになる事に氣付かされた。結局、言葉を練る事は殆ど放棄し、思ひ浮んだ言葉を相手に傳へる事で、運轉への注意を維持した。

その日の路上敎習が終つた際、講師の方に對して「話しながら運轉するのは難しい事だと思ひました」と傳へた。すると講師の方は、「さうでせう」と嬉しさうに仰つた。蓋し、あの講師の方は、考へる事と運轉する事との兩立が如何に難しいかを、受講生に傳へたかつたのではなかつたか。これも、印象に殘つてゐる自動車學校在籍時の出來事である。

要するに、人は車道で自動車を運轉する時、自らの在り方を省察する(=言葉を練る)には適さない環境下にあつて、自らの在り方を省察し、交通事故を避けなくてはならないのである。

4 車道といふものの底に潛む考へ

ここで、車道といふものの根底に潛む考へ方が問題となつてくる。人は自動車を運轉する時、自らの在り方を省察する事と運轉する事との兩立が如何に難しいか、といふ難題にぶつかる。それ故、自動車が走る領域である車道は、上述の困難を少しでも緩和させる樣な形で構想されるであらう。問題は二つの事を兩立する難しさから生まれてゐるのだから、二つの內のいづれかを消去し、殘る一つのみに集中できる樣にする事が、理想として目指されると考へられる。とは言ふものの、自動車を運轉する事なくしては車道も存在し得ない以上、運轉手が自らの在り方を顧みる必要性が、消去対象として選ばれるに相違ない。

然るに、運轉手は自らの在り方を省察する事で、死角を察知してゐた筈である。それにも拘らず、運轉手が自らを省察しないとなれば、死角を察知する事が放棄されたのと殆ど變らない。それを補はうとすれば、あらゆる事を計算された狀態の下に置かなくてはならない。裏返すと、計算を狂はせる要素を排除する事が、車道を構想する際の條件となつてくる。

その最も端的な現れは步道だらう。運轉手にとつて、あちこち步き囘る步行者は、計算を狂はせ得る存在である。步道といふ裝置の果すべき任務とは、步行者を車道から排除し、車道を計算された状態の下に置く事である。かうした乾いた冷たい考へが、步行者の安全確保といふ問題の裏に張り付いてゐる。そして高速道路に至つては、步行者といふ存在が完全に消去される。多くの自動車が物凄い速度で走り囘る高速道路は、車道といふものの理想が徹底的に追求された姿と言つてよい。

かうした事情は、步道だけに當嵌るものではない。信號や道路標識も、車道を計算された状態の下に置く爲に設けられてゐるといふ點で、步道と異る所はない。

5 車道の實情

かくして、車道を構想・設計する際に種々の手段が講じられ、あらゆる事を計算された狀態の下に置かうと藻搔いてきた筈だが、實際の所、問題は解決されてなどゐない。

車道を見れば、多數の自動車が行き交つてゐる。換言すると、步行者を締出した後も、相變らず人間が車道でひしめき合つてゐるのである。運轉手一人と車道との關係を圖式的に見れば、種々の措置を講じて不測の事態を排除した筈の車道と運轉手とが、一對一で向き合つてゐる。しかしながら、それは他の運轉手も同じである。

さうなると事態は、運轉手一人一人が「ここに不測の事態はない筈だ」と言ひながら、ぶつかり合つてゐる樣なものである。そして車道ではあらゆる事が計算されてゐると見るのであれば、「計算を狂はせ得る要素があるとするならば、それは自分以外の運轉手である」、といふ考へに走る人間が出てきても不思議ではない。

近年、所謂「煽り運轉」が問題とされてゐる。その根底には、車道といふものの底に潛む考へと車道の實情とが乖離してをり、それに對して運轉手が苛立ちを募らせるといふ事情があるのではないか。

6 「效率化」は我々に餘裕を齎すか

かうして見てくると、現在進められてゐる自動運轉技術の開發が、運轉手——それは今なほ車道に殘つてゐる、計算を狂はせ得る要素である――を計算された狀態の下に置かうとする試みである事は、誰の目にも明らかである。成程、自動で障害物を探知し、自動車のブレーキを作動させ、衝突事故を防いてくれると言はれれば、眞に魅力的な話であると言ふ外ない。その技術により、自動車の運轉を苦手とする人は、心理的な負擔が輕減されるであらう。

尤も、それでも氣になる點はある。自動運轉技術が開發され、自動車に實裝されたとする。それにより、運轉手は心理的な負擔が輕減されたとする。その時、運轉手の裡に生まれたゆとりは、運轉手自身の在り方を省察する爲に使はれるであらうか。

無論、實際にどうなるかは、個々人によるのだらう。けれども運轉手は多くの場合、自らの在り方を省察する事よりも、今以上に、道の先に待つとされる目的地の方を意識する樣になるのではないか。何となれば、あらゆる事が計算されてゐるといふ假定に立つのであれば、現在地と目的地の間に橫たわる過程は無いも同然のものと看做し得るからである。「目的地は既に定まつてをり、その際に通る道も、そこで起る事態も、全て計算されてゐる。それなのに、どうして急いではならないのか?」と、人々は思ふ樣になるのではないか。

然りとすれば、自動運轉技術によつて生まれると豫想されてゐるゆとりの部分に、我々を更に忙しなくさせる樣な何物かが新たに詰込まれるであらう事は、凡そ察しが付く。そして相變らず、運轉手が自らの在り方を省察する事はお預けにされ、視野に入つてゐる筈の範圍內に、死角は存在し續けるのであらう。

7 終りに

ここまで自動車の運轉について考へてきた。けれども、第1章や第2章で些か暗示しておいた樣に、我々が自動車を運轉する際に直面する問題は、我々の日々の活動の至る所で出會ふものである。そしてそれに對處するには、所謂學問的であるだけでは十分ではない樣である。さうした事情に思ひ至る時、私は小林秀雄の次の樣な言葉を思ひ出す。長くなるが、以下にその一節を揭げる。

常識といふ言葉は、どうやら定義を拒絕してゐるやうだ。一方、學問といふものは、言葉の定義を重んじなければ、發達の見込のたゝぬものです。今日の學問の發達は、言葉の定義の驚くほどの分化、細分化をもたらしたから、常識が、曖昧な、通俗な智慧と見くびられるのも、止むを得ない勢ひでせう。だが、こゝで考へて戴きたいのは、常識を、正確を缺く主觀的な智慧とか程度の低い一般的な智慧とか考へるのは、常識を或る認識のカテゴリイとして、外から規定しようとする事だ。漠然とだが、定義を下さうとかゝる事です。私が、常識といふ言葉は、定義を拒絕してゐるやうだと言つたのは、この働きには、どうしても內から自得しなければ、解らぬものがある、それが言ひたかつたからなのです。常識といふものを考へてみる上に、デカルトの仕事が、參考になると言つたのも、主としてその意味だつた。精神力の自發性さへ摑み直せば、形而上學も自然學も倫理學も、彼には一手に引受ける事が出來た。そんな離れ業が出來た時代は、もう過ぎたかも知れない。しかし、嚴正な定義を目指して、いよいよ專門化し、複雜化して、互の協力も大變困難になつてゐる今日の學問を、定義し難い柔軟な生活の智慧が、もし見張つてゐなければ、どうなるでせう。實際、見張つてゐるのです。そこで、常識は、その本來の力を、決して大聲は揚げないが、絕えず働かせてゐるのだ。生活の智慧が、空想を好まず、眞僞の判斷を、事實に基いて行ふといふ點では、學問上の智慧と同じものだが、常に行動の要求にも應じてゐるから、刻々に變る現實の條件に從ひ、遲疑を許さぬ、確實な判斷を、絕えず更新してゐなければならない。實生活は、私達に、さういふ言はば行動するやうに考へ、考へるやうに行動する智慧を要求して止まない。學問上の知識に、この生活のうちに訓練されてゐる智慧に直接に働きかけ、これを指導するやうな力があるとは、先づ考へられない事だが、逆に、學問上の發見や發明には、この智慧の力が働かねばならぬ事は、充分に考へられる事だと思はれます。(小林秀雄「常識について」、同『考へるヒント2』東京:文藝春秋、1974年、203-205頁、初出は1964年)

自動車學校の講師の方々が受講生に傳へたかつた事とは、小林の言ふ「常識」を働かせる姿勢の重要性ではなかつたかと思ふ。

私自身を顧みると、小林の言ふ樣な「常識」を働かせられてゐるのか、よく分らない。少なくとも、自分がそれ程までに器用な人間でない事は、第3章で述べた路上敎習の經驗から察しが付く。事實、自動車の運轉は苦手だと思つてゐるし、所謂ペーパー・ドライバー狀態である。もしも自動車を運轉するとなれば、ペーパー・ドライバー向け講習を受けた上で運轉したいと思ふ。だが、運轉を苦手と思はなければ、ここで述べた樣な事を考へなかつたかもしれない。

自動車學校に通つた(或は現在通つてゐる)ものの、自動車の運轉を苦手としてゐる人は決して少なくないと思ふ。勿論、苦手意識を解消し、運轉を樂しいと思へる様になるのは良い事である。けれども、苦手意識が殘つたとしても、別の事とも繋がる樣な何かを、自動車學校の中で見出せたのであれば、それだけでも收穫はあつたのではないだらうか。

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