【散文】アインシュタインに救われた話
「え、そんなの常識じゃない?」
ドキッ
「常識的に考えてそうだろ」
モヤッ
「常識のない奴だなぁ」
イラッ
「常識」
"常識"って何
誰が決めたの
いつ知る機会があったの
本当に正しいの
いつからかは忘れたけれど、気づいた時にはこの言葉に過剰に反発を覚える自分がいた。
ちなみに冒頭のやり取りは全て私に向けられた言葉ではない。
耳について残ってしまった身近な人々の発言だ。
もしそれが私に向いていたら、きっと話の論点がズレることも構わずにくってかかってしまっていただろう。
これに関しては、めんどくさい奴と思われたとしても、黙って斬られるわけにはいかない。
そう。この"常識"という言葉は、なかなかに人を傷つける威力を持っていて、それでいて"ばか"とか"あほ"なんかと同じくらい中身のない空っぽの暴言なんじゃないかと思うのだ。
こんなことを言っているうちはまだまだ青臭いと思われるかもしれないけれど、"常識"という言葉に全てを委ねて思考停止になるよりはマシだと思っている。
確かに、価値観の異なる人間同士がコミュニティを形成して社会を成り立たせる為にはルールが必要で、大人になればある程度それを知っておかなければこの世界に馴染めないのかもしれない。
けれど、時代の流れと共に人も流れていって、日々目まぐるしく変化していく世の中で、普遍のルールなんてそう多くはないはずだ。
だから私は"常識"なんてあてにならないと思うし、大切なのはその時々で最良の選択をすることだと思うのだ。
あらゆる物事に対して、「常識だから」という言葉をテンプレートの様に当てはめることは、プログラミングされたシステムにもできるわけで、人間に生まれついた良さが活かされない気がする。
人間は考えることができる生き物だ。
学生時代に知らぬ間に植え付けられる、勉強の出来不出来で頭の良し悪しが決まるというのはやっぱりただの偏見で、考えることが出来るのだから、誰だって幾らでも頭は良くなると思う。
かと言ってそのゴールは永遠に見えないし、そんなものは多分ない。
正解なんて誰にも分からないし、状況によっても、相手によっても違う。
だからこそ、考えることを辞めてはならないと思うのだ。
考え過ぎて前に進めなくなるのも問題だけれど、それも壁に行き当たってみてから、その都度体感して学んで鍛えていけばいい。
一方で、こんなことを言っている私の意見だって単なる偏見の一種なのかもしれない。
だから他者にこの考えを押し付ける気もないし、私に対して矛先を向けられない限り、或いはこの"常識"という言葉で過剰に誰かが傷つけられていない限りは、黙ってやり過ごすことにしている。
けれどやっぱり私には、人が自ら考えた言動は尊いものに思えるし、納得具合も違ってくる。
それが自分の価値観とは異なるものであっても、その人の世界観を大切にしたいと感じるし、互いに尊重した上で折り合いをつけたいと思う。
正義や悪、正誤ではなく、それはただの価値観や考え方の違いなのだ。
もちろん人間だから、直感的に好き嫌いで判断してしまうことも致し方ないと思う。
けれどそれを外に出す前に、少し考えてみた方がいい。
かく云う私は、誰かがミスをしたとしても、自分の思惑や美学に反することをしていたとしても、その人が自分でよく考えて行った結果であるならば、怒る気にも口出しする気にもなれない。
そうか、そういう考え方もあるのか
なんて、たとえ自分が傷ついたとしても、それは後回しにして妙に納得してしまうのだ。
だからだろうか。
アインシュタインの遺した、
「常識とは18歳までに身につけた偏見の塊である」
という言葉を目にしたとき、
「…だよね!!」
と思わずスマートフォンの画面を指差しながら声に出してしまった。
と同時にとてもすっきりした気分になったのだ。
我が家ではやたらと"常識"という言葉を使いたがるメンバーが多く、幼いながらに違和感を覚えつつも、自分がおかしいのかもしれないとずっと煮えきらない思いを抱えていた。
そんなところにこの天才様の言葉は、一陣の風となって現れたのだ。
別に、"アインシュタインは天才と呼ばれる人物だからその発言は正しい"などという様な、彼の持つイメージ力に寄り掛かって安心するつもりはない。
むしろ、天才なんて皆どこか狂っているとすら思う。
けれどその愛すべき天才とほんの僅かでも似通った感覚を持っていたのだと知ったとき、例えそれが現実で身を結ぶことに繋がらなくとも、私を勇気づけるには十分だった。
どんな事を考えても、どんな風に考えても自由なのだ。
その代わり、そう思うからには他人のそれも尊重しなければならない。
ひとりひとり、生まれ育った環境も出会った人や物事も異なる人間同士、全く同じ価値観で"常識"を共有するのは、実はかなり困難なことなんじゃないかと思う。
だから、何事も"常識"という言葉で片付けてしまわないで、ひとりひとりがその場に最もふさわしい選択を見つけるよう努力した方がいいんじゃないだろうか。
そして自分にとっての当たり前が他者にとっては違う可能性があることを念頭に、もっとちゃんとはっきりした言葉で相手に伝えるべきではないだろうか。
その一言で意図せず相手を傷つける前に。
そんな理想郷を夢に見る。
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