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松本人志監督の不幸

前回から時間があいてしまって、何を書いたか忘れてしまったが、思い出しながら書いていきます。とりあえず前回は、松本人志の映画を2つのグループに分けるということをしました。といっても、2本ずつですが。
 
➀『大日本人』(2007)、『しんぼる』(2009)
 
➁『さや侍』(2010)、『R100』(2013)
 
分ける基準はいたって単純です。松本人志が主演しているか、そうでないか、です。単純ですけれどもじつはとても重要。なぜか。これらがコメディアン・松本人志によるコメディ映画であるとすれば、本人が主演するのは至極当たり前のことだからです。
 
チャップリンの映画にチャップリンが主演する、バスター・キートンの映画にキートンが出る、と同じことです。


『大日本人』(2007)と『しんぼる』(2009)


といっても、『大日本人』と『しんぼる』はずいぶん違う作品ですね。『大日本人』は実際、わりとうまくいった作品だと思います。松本人志がこれまで培ってきた経験やギャグを満載した映画で、その意味では、あまり失敗もないのかなと。
 
松本の笑いの作りの本質は「1+1=3」のようなモンタージュにあります。つまり、異なるふたつの要素を組み合わせることで、独特のおかしみを生み出すこと。細かいことは以前にも書いたと思いますが、ここでは「大+日本人」=「大日本人」という新語を作り出しました。
 
ただ、「大日本人」といっても、その存在はいかにももの悲しい、落ちぶれたおっさんなのです。ぜんぜん「大」じゃない。それが松本人志の「哀愁笑い」です。
 
あと、松本人志なりにその時々のトレンドがあって、『大日本人』では怪獣もの・ヒーローものをメインにしていた。実は、松本のコントって、昔からヒーローものが多い。「犬マン」「フリルマン」「ローリングサンダーマン」とかね。「大日本人」はその発展形だと言えます。

松本人志は「ため」が作れる映画作家である。
 

あと1点、私が『大日本人』で高く評価するところは、「ため」があることだ。どういうことか。つまり、クライマックスに向かって、力を溜めるポイントが作れているということです。偶然かもしれませんが。
 
どの箇所かというと、後半、大佐藤が傘を差しながら夜の街を一人で歩くところ。バックには中村雅俊の「ふれあい」(1974)が流れる。これはもう松本の好みですね。何でもないようなシーンだけれども、これまでの本筋からぽっと脇に逸れて、クライマックスでの爆発を準備する、いい「間」になっているのです。
 
この「ため」があるかないかは、いい映画かどうかの基準だと言ってもいい。一例をあげるならば、クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』(2008)で、イーストウッドが演じる主人公が、復讐に燃えながら、夜の家に一人閉じこもるシーン。ぐっと力がみなぎっていくポイントです。

松本人志の映画にも同じものが見られる、というわけです。

松本人志監督の不幸


次の作品『しんぼる』は、評価が分かれるところでしょう。ちょっと難解な印象があります。私個人としては、『しんぼる』のチャレンジは非常によかったと思っています。松本なりに一生懸命に考えた力作だと評価できるでしょう。
 
ただ、この作品にはいくつかの不幸があります。まず、映画作家というものは、とかく難解な作品を作りがちです。北野武の『TAKESHIS'』(2005)のように、自省的になることがある。ですので、松本にもこれだけあれこれ考えてきた人なのだから、自省的な作品のひとつやふたつがあっていい。
 
でも、その欲望があまりにも早く到来してしまった。これは不幸だろうと思う。北野武の場合、『TAKESHIS'』は12本目の長編作品です。映画作家になって15年ほど経ってからのものです。一方、松本の場合はこれが2作目に来てしまった。それで、多くの人を混乱させてしまったのではないかと。
 
まだ書き足りませんが、長いのでまた次回。(梅)


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