ボクが海外旅行で死ぬ日|1 【前編】南太平洋トンガ
夜の大海原のど真ん中。
まるでコンクリートの巨大な壁のような真っ黒い大波が目の前まで迫ってきて、次の瞬間には一気にそのテッペンにまで運ばれている。
次々とやってくる大きな波に小舟はなすすべくもなく、遊園地のジェットコースターのように急降下と急上昇をただ繰り返しているだけだった。
有名な葛飾北斎の浮世絵、富士山を背景に船が大波の海を滑っている富嶽三十六景「神奈川沖波裏」は、遠近法を無視した大胆なデフォルメが迫力を出していることで有名だけど、わざわざあんな風に大げさにしなくても、あのまんま、いや、それ以上の巨大波にもまれながら、ひたすら両親や神様に謝り続けたことがある。
お母さん、お父さん、親不孝でゴメンナサイ、ゴメンナサイ。キミコさん、ゴメンナサイ、カミサマ、ホトケサマ、キリストサマ、どうかボクを許してください、お願いします、オネガイ、タスケテ…
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それは初めて南太平洋のトンガ王国を訪れたときのこと。新しいガイドブックを作るための取材だった。
ぶっちゃけ「地球の歩き方」ね。
ちょうど歩き方シリーズがラインナップを増やし始めていたころで、ほとんどが初版。類書のガイドはなく、何らかの参考書も少なく、実際に自分の足と目で確かめていくしか手はなく、ゼロからの取材をたっぷり時間をかけてするのが当たり前だった。
つまりは実際にバックパッカーとして旅をして、それが取材となっていたので、すごく大変だったけど、すごく自由で楽しかった。
日本では南太平洋の島々はまだ高級なリゾート地としての情報くらいしかなく、でも実際に行ってみたら快適な安宿はあるし、うまい安食堂はあるし、公共のバスやフェリーは走っているし、まさにバックパッカー・パラダイス。
まずはフィジー、サモア、アメリカン•サモア、クック諸島、トンガと巡った。言語も民俗もそれぞれでまったく違い、実に多様で興味深い。気候はいいし、なにより島人たちの明るさと親切さが感動的に心地よく、ついつい長居をしてしまって、気がつけば出発から3ヵ月がたとうとしていた。
実は2ヵ月目になる少し前、仮払いしてもらった旅費が尽きそうになり、編集室に電話したら、歩き方の長男と呼ばれる現役編集者で自分の師匠的先輩の伊藤伸平くん(noteあるよ)がたまたま出て、
「ったく、仕方ねーな、金はボクが個人的に貸しといてやるけど、いくらなんでも長すぎだよオマエ、そろそろ帰ってきな」
と言われてしまったので、
『ちっ、仕方ねーな、じゃああと1ヵ月でカタつけるか』
と渋々決めていた(それでもまだあと1ヵ月を勝手に確保)。
当時は携帯も電子メールもないし、国際電話も非常に高額で一般的に使われなかったため、何度も連絡取ることができなかったという事情もある。
ちなみにこのときに借りた金を返したのは約10年後。だって売れない秘境ばっかり担当しててボンビーだったんだもん。自らそういう場所ばかりに手を挙げてはいたんだけど。
伸平くん、その節はホントありがとう。愛してるよ。
ともあれ、必ず帰ると決めていた1ヵ月のリミットが間もなくきてしまう。
子供の頃、トンガを舞台にした特番ドラマを見てからずっと憧れの地だった(主演は子役だったあの坂上忍!)。
念願かなってきて来てみれば、思ってたより発展してたけど、可愛らしい王宮があったり、謎の古代遺跡があったり、南の島のイメージそのもののヤシの木が生えた小島がぽっかり珊瑚礁の海に浮かんでいたり。
トンガ人はみんな体がデッカくて、くりくりした目をしていて、草を編んだゴザみたいな腰巻きの民族衣装を着ており、ゆっくりゆっくり歩いて、笑い声はすごーく大きくて、そんでよく食べる。とても親日家。
こんなん楽しくないわけない。毎日彼らのペースに合わせてゆっくりのんびり取材をしていたら、時がたつのはあっという間だったのだ。
詳しさを期待される地球の歩き方ならではのガイドにしたい。トンガには170くらい島があるが、少なくとも国内線の空港がある島は網羅して掲載したいと思っていて、残すは主島トンガタプの南に浮かぶエウア島だけになっていた。
残りは島ひとつだけだし、あとはもう楽勝〜♪と、ここで、はっと気づく。
自分の持っている帰国チケットはフィジーのナンディから成田へのもの。当時は週1便しかない区間。さらにトンガからフィジーの便も週2便ほどしかなく接続も悪い。
ってことは、明後日の夜遅くにトンガを出る便でフィジーに戻っていないと、次の成田便に間に合わない。さもなければ、もれなくさらに1週間延びてしまう。
さあ、どうするボク!
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あのころ、トンガの首都ヌクァロファには、キミコさんという日本人の名物おばさんがいた。トンガ料理の食堂と惣菜スナック屋を兼ねたゲストハウスを一人でやっていて、自分はそこを拠点に動いていた。
それこそ「なぜ、こんなところに日本人」だが、キミコおばさんから過去の話は結局何も話してもらえず、謎に満ちていた。ただ、女一人、異国で生き抜くたくましさは、そのまま激しい気性にも現れており、他のわずかな在住日本人たちには疎まれていたりした。
だけど、日本びいきで有名なトンガ国王の日本食専門のシェフを任され、王様から信頼も得ていて相談事があると呼び出されて王宮に出かけて行ったりと、意外にスゴイ人で、島民たちにキミコさんを知らない人はいなかった。
昼下がり、キミコさんが食堂の入り口の惣菜店で店番をしていると、ちょくちょくトンガ人の若者がやってきた。みんななかなか立派な体格をした男子たちだが、キミコさんに何かひとこと言うと、決まってキミコさんは怒りだし、彼らは大きな体を丸めてその罵声を聞いている。
ひとしきり終わると、キミコさんは手際良くいくつかのスナックを包み、若者に渡す。それを受け取ると皆にっこり笑って去っていくのだ。
あるときキミコさんに聞いてみた。
「なんで彼らを怒るの?」
「無心に来るからだよ」
と即答。
「トンガ人は村にいれば困らないんだ。みんな助けあってるからね。自分のものはみんなのもの、みんなのものはみんなのもの。お腹が空いたら食べ物がある人がくれる。だけどヌクァロファは違う。ここは町だ。親戚を頼って村から出てくる子は絶たないけど、町なんだから親戚だってお金で買わないと食べ物はない。稼がないと暮らせない」
たぶんわざとため息をついてみせながら、島人は働くの苦手だしね、でも島には仕事もたくさんはないんだよ、と。
「キリスト教だからね。富める者は施すのが当たり前。どうしてもお腹が空くと、私のところに来る。若いとお腹空くだろ? だから、お金を持ってきなさい、ちゃんと仕事して働きなさいと怒るのですよ。あの子たちもいずれ必ず働かなきゃならない時代が島にも来るよ。私だって別に金持ちじゃないから、あの子たちに『貸してる』んだよ。日本人のいうツケだよ、ツケ」
そう厳しい言葉を吐くキミコさんの目は、実はぜんぜん怒ってはいないことにボクは気づいていた。たぶん最初からツケを返してもらうつもりはない。
キミコさんはボクには優しくて、「ウメくん、ウメくん」と呼んで可愛がってくれた。
あまり遠出はしないと言って、意外に島の観光事情は知らなかったりしたけど、よく相談には乗ってくれ、自分がわからないと次の相談先を紹介してくれたりした。
「明後日、トンガを出ようと思います」
「そうか。じゃあ、明日はおばさんとご飯を食べようか」
「いえ、まだエウア島に行ってないので、明日の朝の国内線で行って一泊して、明後日の午後の国内線で戻って、その晩にフィジー行きに乗ろうと思います」
「ずいぶん忙しいね。エウアは何もないと聞くよ。今回行かないといけないの? 島は何が起こるかわからないよ。ウメくんはまたトンガに戻ってくる人だ。おばさんはそういうのわかるんだ。今度にすればいいじゃない」
「いえ、今回行くと決めていた島なので」
「そうか、じゃあ明後日、帰ってきたら晩ご飯を食べよう。おばさんがご馳走を用意しておくから」
こうして翌朝、ボクは運良く予約できた小さなプロペラ機に乗り、わずか10分ほどのフライト。本島のすぐ南西に浮かぶエウア島に渡ったのだった。
まさかこの選択が生死をさまよう経験に繋がるとは、このときは想像もしていなかったのだが。
〈後編へ続く〉
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