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#14 地球のどこかで朝がきた

2020年5月3日日曜日 時間不明 

僕は安堵した。さっきまで動かなかった野良猫が僕の頬を舐めたからだ。大丈夫だ、と僕は思う。野良猫は生き延びた、と。妖精のMOAIが心配そうに僕を覗き込んでいる。大丈夫、と僕はMOAIに伝えるつもりで目蓋を少し長めに閉じる。野良猫は生きている。

殴られ蹴り上げられた脇腹が、呼吸するたびに悲鳴を上げる。自然と浅い呼吸になる。呼吸をすることさえ躊躇う。

野原に枯木のように転がっている僕は夜空に意識を向ける。羊毛を敷きつめたような雲が月を覆っている。徐々に月は輝きを失い、ただの石になるような雰囲気が漂っていて、とても悲しかった。月のない夜空は、無人になった家と同じだ。そう思うと無性に泣きたくなったけど、涙は出なかった。

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僕が襲われたのは多分、1時間ぐらい前だ。僕の眠りを覚ましたのは、人の声だった。声はガラスを砕くような不快な濁声で、カラスが喚くように喉を引き絞った声だ。一言でいうなら、悪意の固まりで出来た声だった。声を聞くだけで、血液が逆流するような感覚になった。

木の幹に持たれていた僕は、兵隊が戦場を確認するように、腹這いになり息を殺して様子を伺った。 

姿は見えなかった。深い闇のほうから次第にこちらに近づいてきているのは確実だった。僕は慎重に闇の奥を注視する。手のひらはぐっしょりと汗が吹きでていて、土とか草がピンで留めたみたいに張り付いていた。

「何している」唐突に背後から声をかけられる。全身の肌が、岸壁にぶつかる波のように震えて砕けた。

反射的に立ち上がり、振り返ろうとしたが後頭部を掴まれ、僕は木に暴力的に押しつけられた。

「何してる」男の声だ。声の主を目視しようとするが、突然、人工的で機械的な灯りにを浴びせられる。明かりが至近すぎて、目を開けてられない。男以外の外見がわからない。高い鼻か低い鼻なのか。目は細いのかそうではないのか。男は深い闇を身に纏っているようだった。

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男は深く、長い長い息を吐き出すと、再び「何してるんだ」と怒声をあげる。同時に生温かな息と唾液が耳元に吹きかかる。耳の奥でモーターがまわっているみたいな音がはじまる。

やめろ、と僕は声を振り絞るが、声がかすれて出ない。すこしの間、奇妙な空白があったあと、僕はさらに強い力で木に押し付けられる。「今がどんな時かわからないのか。なぜここにいるんだ」

どうにかしてこの状況から逃げなければ、と僕は考える。状況を変えるチャンスをいくつも想像しては、否定するのを繰り返す。必ず何かがあるはずだ。何かがあるはずなのだ。

男は繰り返している。なぜ自粛しない。

僕は突如自由になる。押さえつけていた男の力から解放される。イカリを引き揚げた漁船みたいに自由になる。

男のコイツ、と言う声がしたと思うと、木に何かが投げつけられた。枝が折れるような音がしたと同時に僕は状況を把握する。

野良猫が投げつけられたのだ。木の根元にまるで打ち上げられたクラゲみたいに転がっている。僕はとっさに野良猫に覆いかぶさる。

男は理性を失った兵隊みたいに僕へ襲い掛かる。脇腹を蹴り上げ、背中や顔を殴りつける。暴風雨のように容赦なく、砂漠の竜巻みたいに無慈悲だった。途中何度か男は叫ぶ。「シケイダ、シケイダ」と。

暴力は前触れもなくやんだ。理性を取り戻したのか、次の獲物を探しにいったのかはわからない。遠ざかる足音のほうを目で追ったが無駄だった。月の明かりが木々に覆われて遮断されていた。男はその深い闇のほうを進んでいた。輪郭が蜃気楼みたいに不明瞭だった。

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男が立ち去ってから随分たった。僕は野良猫を服の中に入れて抱え、歩いた。脇腹には絶望的な痛みを感じる。隕石が衝突してえぐられたクレーターみたいな痛みだ。MOAIはそんな僕のためにペットボトルの水を時々飲ませてくれる。

何度かタクシーに乗ろうとした。でもタクシーは一向に通り過ぎなかった。僕は歩くことを選択した。足を引きずり少しずつ、進んだ。歩くたびに、こうすべきだ、という気がした。

三鷹市役所を過ぎ、小高い公園に辿り着いた時、僕にはそれが今日のことなのか明日のことなのかわからなかった。ただ、事実としてあったのは、僕は自分の足で今立っているということだけだ。

ここから見ると、僕の家はとても小さく見えた。小さくてそこになくても、誰も気づかないんじゃないかと思えた。僕は野良猫を降ろしてやった。

地球のどこかでは朝がはじまっただろうか。

タマゴを割って、スクランブルエッグをつくり、トーストにのせる。マヨネーズをかけて、コップに牛乳を注ぐ。それからまだ夢のなかにいる無垢なこどもを起こす。おはよう、って声をかけて。そんなことを考える自分が思春期のこどもだなって思った。それから首を振った。

涙が頬を伝う。涙がとめどなく溢れてくる。僕ではない僕が泣いてるような奇妙な感覚にとらわれる。それは洞窟の奥で泣いてるコウモリのようでもあるし、アルプスの麓で泣いている羊のようでもある。アフリカ大陸で泣いてる象かもしれない。南極で泣いているシロクマであるかもしれない。

MOAIは僕に背を向けて野良猫に水を飲ませている。

僕は待っている。ここに、また朝の順番が回ってくることを。

それまで僕はありのままでいよう。

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