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生き辛さの正体はグレーな不幸?幸せの放棄は他人を使った自傷行為である。

こんにちは梅おにぎりです。

自己紹介

今回はハッキリ「辛い」とは言いづらい、グレーな不幸せについて考えました。

一見恵まれた環境に見えるため、側からは不幸だと気づかれない…

本人さえも気づかないうちに黒い気持ちに蝕まれている…

そんなことは誰にでも起こるのではないかと、危機感を覚えて書きました。

きっかけは犯人の手記

「黒子のバスケ脅迫事件」をご存知でしょうか。こちらに手記がまとまっています。


私は全然事件の概要を知らなかったのですが、読み出したら止まらなくなり一気に読んでしまいました。

犯罪を礼賛も弾圧もしませんが、この手記には誰しも陥る可能性がある「グレーな不幸」について書かれてあると認識しました。

以下引用です。

「お前より不遇な人は幾らでもいるぞ。それなのにお前は云々」という質問兼批判がありました。自分は被告人質問の時には上手に答えられませんでした。本人が原因を自覚できるくらいの不遇なら、かえって前向きになれますし、周囲の理解も得やすいのです。自分の不幸は不遇が中途半端だったため原因を自覚できず、周囲の理解も得ようがなかった点です。重度の障害者は福祉の手厚いケアを受けられるが、軽度の障害者は放置され気味という日本の福祉の実態と似ています。


グレー故に周りからも見えず、自分さえも気づかない不幸。

実は生きづらさの正体は様々なグレーのグラデーションの不幸であり、共有も改善も勿論救済もされず、ジワジワと首を絞めていくのではないかと思いました。

多くの人はハッキリとした「虐待」も受けないし、刑事事件になるレベルの「いじめ」もされない、ましてや社会に生きづらさを感じても「障がい」や「病気」があるとも診断されない、グレーな存在になってしまうことが多いから…

「自分の意志で頑張る」ということがどういうことか分からない

犯人である渡邊氏はこう表現しています。

自分の人生に興味が持てなかったり、自分には可能性が皆無だと思い込んでしまう人間がいます。このような人間が「埒外の民」であり、負け組の中の「努力するという発想がなかった人間」です。
まとめると認知が狂って「自分には可能性がない努力しても決して報われない」という世界観を持ってしまった人間が「埒外の民」です。「競争に参加する資格がない」と思い込み、自分の立ち位置を埒外と規定しているからです。
「埒外の民」は「自分がどうしようもない怠け者だったから負け組になった」という自己物語を形成します。このような自己物語を持った人間が、それからの人生を頑張る意欲を持てるはずがありません。底辺に沈殿するような人生を送ることになってしまいます。

子供が本来両親から得られるはずの「安心」が得られず、変わった子供に育ち周囲から浮き、いじめに遭うという悪循環を経て、自分の身分は最下層なのだと思うようになったとありました。
自分より不遇な人もいること、両親から変わったしつけをされたが虐待はされてないということ、(虐待だと思うけど…)淡々とした文章で綴られています。

勉強熱心な児童だった様ですが、そのことについてこう振り返っています。

それなりに勉強をした理由は、もしその高校に入らなければ両親に殺されると本気で思っていたからです。この時の勉強は努力ではありません。例えば道を歩いていて強盗に襲われて全力で走って逃げたとします。この時の全力の走りは果たして努力でしょうか?これは報いのないガマンとでも表現すべきものです。危機を回避するためにガマンが必要なときもあります。しかし人間はこのようなガマンを生涯にわたって続けることは不可能です。


「頑張っている」にも関わらず、悪い未来を回避するために頑張っているため、「自分のために頑張った」実感が湧かずに、虚無感を抱えてしまう…

渡邊氏に限らず、「親や周囲からの承認」のために勉強や就活を頑張ってきた という人は沢山いるのではないでしょうか。

悲劇なのは親自身や周りは良かれと思って道を示しているだけのつもりであること。

本人は成績優秀だったり勤勉な場合が多いので、側から見ると頑張っている様に見えるし、
親も勉強に理解があって(学費まで出してくれたり)環境にも恵まれているように見える。

なので周りの誰にも疑われず、親や周りは虚無感を抱くような生き方を子供に強いていることになるし、子供は親や周りの期待に応え続けることになります。

健全な親子関係や家庭環境であったりまともな学校や塾であれば、子供の方から「安心」して拒絶して我が道を行くこともできるかもしれませんが、そもそも子供に過剰な期待を寄せる親や不幸そうな子供を見て見ぬふりする環境こそ他人軸で生きていたり何かが歪なので、大抵はそのまま大人になってしまうでしょう。

進学や就職や結婚など何かの節目にうまくいかなかった場合に、人生が更に暗転する。

渡邊氏の場合は「学歴コンプレックスであった」との記述から伺えました。

「受験に落ちたことが初めての挫折で、引きこもることになった」という一節は、noteの記事でもあちこちでよく見かけます。

渡邊氏の最も大きな出来事が黒子のバスケとの出会いだった様です。
初めは「漫画家を目指して挫折した負け組」という設定で、それが叶わなかったための犯行だということにしようとした様ですが…

新しい検事さんによる最初の取り調べで、
「あなたの人生は不戦敗の人生ですね。それがつらかったんでしょう」
と検事さんから言われました。自分はその一言がきっかけで気がついたのです。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではないのです。この世の大多数である「夢を持って努力ができた普通の人たち」が羨ましかったのです。成功した人たちは即ち努力した人たちです。自分は「夢を持って努力ができた普通の人たち」の代表として「黒子のバスケ」の作者氏を標的にしたのです。
自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功を見て「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が嘘であり、自分は負け組ですらないという事実を突きつけられたような気がしたのです。キーワードはバスケと上智大学でした。この2つは自分の中で無意識裡に自分ができなかった努力の象徴となっていました。自分は重度のユニフォーム姿のフェチでしたからバスケは納得できます。ただ上智大学の方はその瞬間になるまで完全に忘れていました。自分の学歴コンプレックスがこのような事件を招いてしまうほどに深刻だったとは、自分でも全く想像できませんでした。
こうして「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が崩壊し、社会とつながる仮設の糸が切れて、自分の存在が一気に不安定な状態になってしまったのです。
さらに「黒子のバスケ」の作者氏が新宿生まれ育ちと知り新宿の住民としても流れ者の自分より遙かに格上だと感じました。自分は新宿の街から、
「ホームレスの半歩手前の底辺のお前なんかより郷土の誇りである藤巻さんを選ぶよ」と罵られたような気がしました。こうして「新大久保の住人」という仮設の糸も切れました。
そして「黒子のバスケ」が同人誌の世界でも人気が急上昇しました。自分は同人誌の世界から、「藤巻さんは元ネタの原作者という同人誌の世界の神だ。お前はその下の下の下の下に寄生する有象無象の1人でしかねえんだよ」
と罵られたような気がしました。こうして「同人誌の世界の片隅の1人」という糸も切れました。
自分は完全に糸が切れた「浮遊霊」の状態になりました。自分の存在が完全に消失したかのように感じました。不条理小説の書き出しの一文のようですが、
「今日自分を喪失した」
とでも表現すべき状態になってしまったのです。

自分のために生きることができれば、たとえ失敗に終わって負け組になっても、自分の好きなことや挑戦したいことに邁進できたと納得感のある人生だったかもしれない…

「自分が得られたかもしれない成功を手にした人」ではなく、
「自分が挑戦できたかもしれないこと全てに挑戦できてしかも成功した人」
に出会って、凄まじい虚無感が襲ってきたのではないでしょうか。

その思いを作者と作品にぶつけてしまいさえしなければ…と残念でなりません。

誰しも、何故か心が羨ましいような気持ちでざわつく相手というのがいると思います。
犯罪を犯したいとまで思わないから他人事、と思うかもしれませんが、その黒い気持ちを少し立ち止まって考えてみると、延長線上に渡邊氏と通じるものがあるかもしれません。

感情がすごく動いた時を冷静にチャンスに変えるしかない

虚無感や憎しみ、「努力できなかった自分」やその自分を脅かす存在に対して感情が凄まじく動いた時は「これまでの何十年と人生を無駄にしてしまった」という思いが強いので、自分自身の人生をしっかりと生きるには多大な努力が必要になると思います。

しかし、めちゃくちゃチャンスです。

何故なら虚無感しかなかった人生に、感情の波が生まれ、初めて自分の気持ちが滾っているのですから。

このチャンスを棒に振ると、犯罪や自殺に走ってしまう危険性があるのだと思います。

ではどうすればいいか…とにかく振り返ってみるしかないと思います。

このチャンスが来る前に、自発的に小さいチャンスを何度も作って、自分の人生を生きる準備をしておいた方が遥かに心理的負担は少ないでしょう。

溜めに溜め込んでしまって決壊してしまった状態です。

こうならないために、普段から出来ることはないか考えました。


①小さいwantを大切に

この服が欲しい
あそこで食べたい

など、小さな願望も全部飲み込んでないでしょうか。それで失敗しても、次はどうよしよう?と自分で考えるクセがついて、他人軸に振り回されなくなります。


②勇気を出してnoとI don't think soを言う

違う意見、やりたくないこと、伝えたって大丈夫です。
むしろ自分に正直な自己主張のできる人ほど、こういうことに耳を傾けてくれるので安心して意見交換したり交渉していいくらいです。(一見ワガママな怖い人に見えても)

謎の我慢強いてきたり同調圧力かけてくる人は、どんなに穏やかで気配りしてくれる人にでも、モラハラ傾向があるかも…

③家族や友達にヒミツがあっても絶対に良いむしろ良い

身近な人に嘘や隠し事はしづらいですよね…
でも嘘は吐かなくても、限りなくコッソリやりたいことやるのは良いと思いますよ!!
下ネタですが、例えばオナニー って基本誰にも見せないでしょ。
私なんか好きな人出来るたびにその人との出会いとか漫画にしてますからね裏で勝手に。キモすぎる…でも爽快でやめられないんです。

なんかミステリアスで世界を沢山持ってる人に見えるみたいでお得です。


④心に自分に近いタイプのボスを居座らせ、低姿勢マインドは基本封印。

私の好きなサイト「精神工学研究所」の山西さんが、強く生きたければ「ボス猿のマインド」を持つこと、とか「心に豊臣秀吉」を住まわせること、などおっしゃっていて、確かに自分はサル科だからボス猿ってイメージしやすいし、豊臣秀吉も「サル」なんて言われてた農民の出の人になのに出世して親しみやすいなと感じました。

めちゃくちゃカッコいい人は自分との乖離が激しくてイメージしにくいけど、ボス猿や豊臣秀吉なら心に居ても違和感がない!
親しみやすいボスを心に置いて、「自分だって、人にヘコヘコするばかりじゃないんだ!」というマインドを鍛えよう!と気づかせて頂きました。

本当にこちらのサイト面白いのでオススメです。



まとめ


体を傷つけられたり、とても分かりやすく罵られたりしなければ、暴力を受けてるとは判断されない…

とても生きづらさを感じても、ハッキリとした障がいも病気もないと判断されたら、自分の努力で何とかしなければいけなくなる…

誰が聞いても大変なハッキリとした不幸だけではなく、一見分かりづらいグレーな不幸についても、「自分の方が辛い」「みんな何かしら辛いのが当然」と断絶するのではなく、そういうケースもあるんだと事実をまずは淡々と知ること。

グレーなだけに、潜在的に沢山のグレーな不幸で苦しんでる人がいるんじゃないかと思います。

自分や自分の大切な人は、グレーな不幸に染まってないかな?と、立ち止まってみるだけでも、世の中の苦しみを少しでも減らせると思います。

どこかの知らない誰かのために何かできなくても、自分と好きな人のために。

自分なんか…と後回しにしようとしたら要注意。それもう、グレーな不幸が始まっていそうです。

それは自傷行為。その苦しい思いが爆発したときに誰かを巻き込む危険があること、覚えておきたいです。


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