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「聖母のようでなければならない」という思い込み


 妊娠11週目。
「(お腹のなかの子に)話しかけてあげたらいいのに」
 と夫はよく言う。そして実際、夫はいつも私のお腹に話しかけている。

 けれど、私はそう言われるたびに息苦しさを感じてしまう。愛情をそそぐことを強制されているような気がしてしまうのだ。

 これまで私は、さんざん親のためにじぶんの感情を我慢してきた。
 親に一心の愛情をそそいできたとも言える。
 なのにまた、誰かのために我慢して愛をそそがなければならないの?

 そんなふうに思ってしまう。そして怖さと不安を覚える。
 こんな人間が子どもを産んだら、その子を不幸にしてしまうんじゃないか。
 私みたいに、不安と生きづらさを抱えた人間にしてしまわないか。
 こう思って憂鬱になる。

 そんなふうに懸念するなら、変わればいい。
 勇気を出して、お腹の子に話しかけてみればいいのだ。

 私の心配を口に出せば、たぶん周囲からはこう諭されるであろう。私自身も、なぜそれができないのかと苦しく思う。

 それでも、どうしてもつらいのだ。
 「話しかければいいのに」と言われるたびに、じぶんでじぶんを責める声が湧く。

 子どもを愛せる母親にならねばならない。
 お腹の子に声かけすらもできないお前は、もう母親失格だ。

 こんな極端で自罰的な思考になる。
 そしてどんどん苦しくなって、余計に子どものことから目を逸らしたくなってしまう。


 けれども、と同時に思う。
 私は、母親像というものに期待をしすぎているのではないか?

 微笑んでお腹の子にゆったりと話しかけ、聖母のようにやわらかなまなざしと声をそそぐ。
 生まれてからも子どものことを常にいちばんに考え、尽くし、じぶんの心身を賭してでも子どものことを愛しつづける。
 それこそが、母親という生きものなのだ。

 たぶん、私のなかにはこういう固定観念が根づいている。
 そして、こうあれないじぶんとの差を感じて苦しむ。じぶんのことを責めてしまう。

 だが、母親という生きものが決して聖母などでないことは、私自身がいちばんよく知っているはずなのだ。

 若かりし日の私の母は、いつだって苦しんでいた。
 父や義母との関係に怒り、泣き、その不満を私にぶつけて味方にしていた。
 
 もちろん愛してはくれていたし、衣食住も教育もなにもかも、じぶんの心身を削ってでも私に与えてくれていたと思う。

 それでも、母はただの人間だった。悩み、苦しみ、傷つきつづけるひとりの女性であった。

 私はその姿を間近で見てきたはずなのに、いつの間にか、「母親とはこうあるべき」という観念をすり込まれていた。

 母親なんだから、尽くして当然。
 我が子を愛して命さえも投げ出すのが、母親としての正しい在り方。
 私も母親になるのだから、これからはこういう人間にならなくてはならないのだ。

 そういう義務感と強迫観念に囚われて、だから息苦しくなってしまう。
 私という一個人として生きることを諦め、母親という強くやさしく完璧な別の生きものにならねばならない気がしてしまうのだ。
 これでは、愛が義務感になったっておかしくない。しんどくて当然だ。

 だから、まずはお腹の子に唱えてみたい。
 私にはまだ、愛情といえるだけのものを自ずとそそげる余裕はない。
 けれど、あなたを一人の人間として尊重したいと思っている。

 子どもから目を逸らさない、息苦しくならないギリギリの方法が、いまの私にとってはこれだ。
 こう唱えつづけることで、少しずつ、力まず向き合えるようになっていきたいと願っている。


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