憲法と統治機構、国民〜緊急事態条項の論点整理
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そもそも人々は改憲を恐れているが憲法とは何ぞやと考えたことは少ないように思う。
そりゃ迷妄しか教わってこなかったのだから仕方がないと言う話ではあるが、本当に戦後教育は罪なものだった。
本題に戻ろう。
憲法とは、
中々に十分な説明だと思う。
少し噛み砕くと、国家権力がどのような性質、権限、責任を負うのかを定義する法、とでも言おうか。
そしてもう少しイメージを掴む為に憲法からも引用する。
つまり、所謂国家権力がこれ等の憲法を遵守し、その範囲内において求められる責任を果たす為に定義された主権者国民の、国家権力への委託契約書のようなものと捉えるべきなのだ。
少し脱線するが、日本において憲法は国民が創ったものではない。
明治憲法も、国民間での議論は現代では考えられないくらい侃侃諤諤議論され、様々な私案が出されたが、結局は明治政府がプロイセン等の憲法を参考に制定したし、今の日本国憲法に至っては、基本的にGHQが作成したものを和訳したものであり、本来の趣旨、即ち国民の国家権力への委託契約書としては手続き的に問題はあるのは事実だが、それを理解した上で、積極的に改憲に国民が主権者として関わるべきである、と言うのが私の立場である。
もう一度構図を整理すると、
が国家権力であり、また憲法による契約の受託者であり、
制定者、主権者国民が委託者となる。
これが本来の立憲国家のスタンスだ。
我々は、何かと「お上」文化で育ってきた為、この構図が理解し難い面はある。
しかし、それを是正すべく言葉を変えて理解すべきだろう。
例えば教師、先生と言うのは日本において、昔から尊敬すべき存在としてそのように呼ばれてきたが、日教組のような左翼が、その様な捉え方は差別につながるだのなんだのと言って、教育に携わる労働者であり、「教員」と呼ぶようになったり、
また昨今のコロナ禍における言動の不信、劣化から医師をあくまでその他の「医療従事者」とひっくるめて呼ぶようになったように、
「国家権力」を、あくまで我々国民に変わって、行政等の職務を遂行する為の組織であるとして、「統治機構」と呼ぶのを推奨する。
「国家権力」とは様々な強大な権力を持ち、行使してきたから「強い」「上位の」存在と認識することが多いが、立憲主義的には必ずしもそれは妥当な認識ではない。
あくまで「主権者国民」に成り代わって権力を代行する機構であると捉えることから始めるべきだろう。
この統治機構、三権分立については後程触れる予定ではあるが、
これまでの認識は決して最善なものではない、と言うことはお解り頂けたかと思う。
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