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恐怖で命は守れない


うちも娘がいるが、彼女は産まれて間もない。

妻が出産する際、たまたまその時期はコロナが落ち着いていた時期だったので、俺は毎日仕事を定時で切り上げては面会に行ったものだ。

毎日体温を書かねばならなかったので、「今日は何度にしようかなー、36.2にしとこう!」と、数字とにらめっこするような小さな悩みが毎日絶えなかった。

無事、出産が叶い、娘とも対面し、暫くして退院したが、

「私、コロナで面会謝絶だったら心完全に折れてたわ」

と言っていたのを今でも覚えている。

だから今の時期の妊婦さんには本当に心配と同情しかない。

普通に産まれたとしても心配しかない。

それこそそんな夫や家族に会えずに病院に隔離されたまま出産するなんて、想像するだけで涙が出る。

今の世の中、死んでて当たり前の年寄りには心配が簡単に向かうが、こう言う、今、コロナに関係なく、命がけで新しい命が誕生する現場で失われる、創られる命に対する関心がどんなに低いことか。

出産なんて、本当に命がけだ。子宮や胎盤に何かがあれば母子共に命に関わる。

だから市中の産院では設備が足らず、対応できないだろう。だからクリニックが対応できないのは仕方がない。

総合病院で万一に備えて出産しなければならない。

そしてこの場合、母親の望みもそうだが、俺も望むのは、

「コロナなんかどうでもいいから子供の命を守ってくれ」


それしかないんだよ。そして彼女はそう望み、訴えた。

しかし、コロナと言う過大評価された敵を目の前にしては、いや、

コロナとお産と言う、極めて社会的に高いリスクを目の前に、病院側が尻込みしたことを想像するのも何等難しいことでもない。

ただでさえ出産は命がけで、しかもコロナともなれば、母子どちらかが亡くなっただけでも、病院への非難はそれこそ「全国から」怒涛のように押し寄せるだろう。

医師個人が判断するのも難しいだろう。病院からもストップがかけられたかも知れない。

彼女は医療行為や、生物として、子供の命を奪われたのではない。

通常の医療を妨げるような社会的ヒステリーによって奪われたのだ。

これは完全に社会が奪った命だ。

コロナを過大評価しなければそれこそ普通の、ただちょっとリスクの高い分娩で終わったかも知れないのに、

そのステージに立たせることすら叶わなかった。

1年以上、コロナの恐怖を煽ってきた奴等は、結局終始、それこそ今でも、もっと先までも、混乱している状態に過ぎない。

混乱しているからこそ正常な行為、判断ができなくなる。

危機管理とは恐怖に我を忘れることではない。

その危機のレベルと対処方法(対処不可との判断も含めて)を予め整理し、適切にそれを認識、対処することにある。

ただ怯えている人間に命は救えないし、寧ろ救える命すら奪っていくことになる。

それが常態化したのがコロナ禍であり、その一つの象徴が今回の事故、いや事件だろう。

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