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命の序列

コロナ以降、人間の命そのものが本当に軽くなったように思う。

いや、バタバタ死ぬから、とか勘違いされても困る。

人々が命を大切にしろと言えば言うほど、その命の価値が下がっていくのを痛感しているんだ。

命の価値ってどうやって図ろうか?

結局命なんて生物にとっては絶対的なものだろう(いや家族の命は相対的には高いだろうが)。だが人間社会においてはとても相対的なものであると意識しなければならない。理性と科学技術の力により、目の前に無い情報が、目の前の現実より意味を持ち得ることもあるのだから。

情報や価値観によって命の相対的価値は変動する。そしてその価値はその人の生き様と、社会における需給関係において、まるで為替のように流動的ながら一定の価値を持つこととなる。

とは言いながら、俺の中では比較的確固とした序列が存在する。

第一に年齢、第二に社会にとっての価値、第三に俺の幸福。

基本的な軸はこの3つであり、ウェイトは微妙な差をつけつつも、一番目から相対に重いものとなる。その複合的な絡み合いの結果として、俺にとっての命の価値は俺にとって見出される。

こう書いた通り、まず命の平等なんてものは全く有り得ないと考えている。これについては以前も述べた。

クソ野郎と崇高な人間を同じであるとするのは実に下品なことでしかない。これは親友の結婚式に海パン一丁で出席しないのと同じマナーの問題と言えよう。

ただし平等を他人に求めるのではなく、自分が公正に接しようとする、と言った心掛けは崇高だ。

これは姿勢の話であり、評価の話ではない。

服装で言うなら、ボロボロのみすぼらしい服を着ていてもそれだけで差別しない、と言うのと同じだ。この差が理解できない奴等は案外多い。

話を少し戻すと、命には当然序列がある。客観的ではないが主観的で普遍妥当的な序列がある。その価値の相場の話をしたいのだ。

既に述べた俺の思う命の序列はそれなりに妥当性のある序列だと個人的には確信している。そしてこの確信は、今だけそうである、と言うのではなく、時代と場所を選ばずそうであると言う話だ。

しかし、今その序列は一過性のブームにより大きく乱れている。

高齢者の命だけが過剰に守られ、若者、特に非正規の女性や子供の命は非常に軽くなっているのだ。

それも若い頃から好景気で好き勝手にしてきた奴等のカスみたいな命を守る為にデフレ不況しか知らない世代の、未来ある世代の生活が犠牲になっている。

勿論、純粋な意思で実践している者は一面的には崇高だと言えようが、その善意に甘んじる奴等を容認増長させるやり方は不善を奨める行為でしかない。

これはただ目の前の、そして今だけにしか影響しないのではない。時間も空間も限られないなんてことはなく、これを善と為せば文化(ただし誤った)として定着し、社会的歪(ひず)みを生じさせる。

この歪みが今、命の大切さを要求してくる。

そしてその相対的に狂わされた序列は、絶対的地位はどうなっただろうか?

高齢者が若者や子供より崇高になったのか?

そんなことはない。

嘗ての高齢者としての地位より遥かに下に位置するようになった。

そしてその他の若者の命はそんな愚劣な高齢者より下に位置づけられた。

つまり、全体的に命の価値が低下したのだ。だから人々の命が非常に軽く思えるのだ。

今日本は命のデフレ下にあると思う。命を大切にする余り、命自体の価値が高いと認識されることで、人間と言う商品への価値が低下し、どんどん社会が貧しくなっていくからだ。

お金が大事だから使わない?じゃあ使わないお金って価値あるの?

同じく命が大事だから使わない?じゃあ何もしない命って価値あるの?

使わないから価値があるものって骨董品くらいなものだ。

人間の人生的な価値とは骨董品的な価値か?

違うだろう。人間はモノじゃない。

生きている。活動する。躍動する。だから価値がある。

誤解を防ぐ為に敢えて触れるが、活躍の内容は多岐にわたる。社会を指導するオピニオンリーダーもそれが天職であれば望ましいし、人知れずニッチな隙間産業であっても活動、躍動に変わりない。

ただ適材適所ができてないともどかしいものはあるが。

無能なリーダーや、営業が転職なのに製造にいると言ったようなものだ。

それでも、自分なりにその大なり小なりの社会において必要とされている限り、人間は生きているのだ。

ただ生きているだけで満足し、更にはその価値観を他人にまで強要する今の大衆は本当に罪が重いと思う。

俺は意外と日陰の人間が好きだ。どちらかと言うと俺もそちら側の人間だ。文字、文章からは想像し難いかも知れないが、昔からそちら側で生きてきたし今もそれは変わらない。

だから引っ込み思案だったり、自分に自信のない、不安の多い人の味方でありたいと言う思いは強い。

蛇足ながら昔何かの占いで自分の天職は教師か宗教家と書いてあったのを思い出す。

こればかりはその通りだと密かに確信している。

閑話休題、人間は活動、躍動してナンボなのだ。

病気が怖いから何もしません。そしてお前等も何もするな、なんて人生観で一生を終わらすのは余りにも勿体無い。

いやその程度の奴がいてもいい。俺の眼中には入らなければ。

ただどうせ短い人生、楽しく生きればいいじゃないの。

俺はそんな人々の命を応援する。

クソみたいに道徳を説いて、正義の為と称して人間を、その価値を殺す奴等を心から侮蔑する。

(カント翁へのニーチェの憎悪が今凄く共感できる)

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