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竹内宇瑠栖
2021年4月18日 23:22
【蝦夷】 あの日から38年がたった。 年号は明治に代わり、日本は急速に海外に向けて門戸を開いた。江戸は今や東京となり、天子様も京都から移られてずいぶん経つ。彦根藩は彦根県となり、その後滋賀県へ編入された。 松前屋で下積みをしたのち、口利きで同じ近江商人の柏屋という海産物を中心に取り扱う店に雇われた。京や大坂への荷物の売込みの仕事からは外してもらった。代わりに北海道の津々浦々で、ニシンやコ
2021年4月11日 22:11
【追手】 翌朝、目が覚めるとまだ太陽が昇りかけたところだった。枕元にあった商人姿の旅装を着ると、赤城が声をかけてきた。「握り飯を用意しておいた。途中で食べてくれ。この度の事、心より感謝しておる。老中にも直接的ではないが文をしたためて早飛脚を仕立てておいた。お主の行いは、世に知られることはないかも知らぬが、心ある彦根藩士は必ず気付く。達者で」 笹の皮に包まれた握り飯と竹製の杖を受け取り、
2021年4月4日 21:22
【宿願】 目が覚めると、早朝だった。ゆっくりと糒(ほしいい)を口にし、水で少しずつ嚥下していく。脇差を近くに引き寄せて目を閉じ、今日の段取りを再度確認する。夕刻、この屋敷で行われる観月会のあと、夜の厠に立つ斉昭公を刺殺し、塀を乗り越えて夜陰に紛れる。その後、協力者である赤城の町屋へ逃げ込む段取りだ。赤城と知り合ったのは僥倖だった。あれは、桜田門外の変後すぐの卯月のこと――。 筆頭家老の木俣清
2021年3月28日 23:16
【狗】 襖を開けて、多くの武士が出てきた。 それぞれの手に抜き身や刺又を持っている。「曲者じゃ! 出合え、出合え」 屋敷に声が響く。老公の「戸田はどこじゃ」という言葉が聞こえた。標的の老人との間に幾人もの侍が入り、遠のく。 数本の刺又が身体に当たり、押さえ込もうと周りに人が押し寄せた。口々に「彦根ものか!」「脇差を取れ」などと殺気だった声が響き、体の自由が奪われた。首に冷たいものが