Voy.11【これイチ】北極海航路での安全運航
【これイチ】『北極海航路の教科書』シリーズ **第11航海**
【これイチ】シリーズも11航海目を迎えました。
これまでは、北極海航路を利用するためのベースとなる知識や重要な検討事項などについての概論でした。
これからは、北極海航路を利用するにあたり、実際に日々の運航業務・オペレーションにとって重要となる要素について、ひとつひとつ詳細に掘り下げて見ていきます。
ですが、その前に本航海では「船舶」や「海運」の分野で仕事をする私たちにとって、イチバン大事なことについて、もう一度おさらいしておきたいと思います。
イチバン大事なのは「安全運航」
日本は国土の周辺をすべて海で囲まれてた「島国」である。
商業やレジャーなど、目的は様々であっても「海」は私たちの身近な存在として、経済活動や生活の一部として利用されている。
しかし、海の上は私たちが通常暮らす「陸上」とは全く性質の異なる領域であり、私たちは「海」の性格を正しく理解しておかなければ、その危険性に気が付くことなく、突如として命の危険にさらされてしまうことがある。
そのことを世間に広く知らしめた事件として、2022年(令和4年)4月23日に北海道知床半島で発生した、遊覧船「KAZU I(カズ ワン)」沈没事故がある。船体の浸水・沈没により、乗員・乗客ともに多くの犠牲者が出てしまった。
事故当時の状況や関係者等への聞き取り調査から、運航会社や船長の安全運航に対する認識の甘さが、この惨事の主な原因であることが推測されている。筆者は海技免状および小型船舶免許を保持し、海運の世界で「安全運航」に従事するひとりの「海技者」として、この事故に関しては本当にやりきれない気持ちである。
管轄する国交省は、船体を引き揚げることを決定し原因究明と再発防止にあたるとしており、事故の原因については今後の調査の進捗を見守りたい。
しかし、よく振り返ってみると、日本において一般的に「海難」と呼ばれる事案の発生は意外と多い。海運は国内間・国際間ともに主要な物流手段でもあるし、旅客やレジャー目的でも「船舶」を利用した交通はポピュラーであるから、季節に係わらず「海の事故」に関する報道をよく目にしているはずだ。
海上保安庁の資料によると、「海難」の定義は以下の通りとなっている。
同資料によれば、令和2年の直近5年間においては、毎年2,000隻前後の船舶が「船舶海難」に遭遇しており、令和2年には、この船舶海難による死者・行方不明者は97名にも及んだとされている。
約2,000隻の海難事案のうち、約半数は「プレジャーボート」による海難であり、4分の1は「漁船」によるものであった。残りの4分の1が、「貨物船」「遊漁船」「旅客船」による商業目的の船舶による海難となっている。
国外に目を向けてみると、ここ数年の間にも日本企業が関係する大きな海難がいくつか発生している。報道等で大きく取り上げられたものとしては、2020年の大型バルク輸送船がモーリシャス沖での座礁事故によって流れ出した燃料油による海洋汚染や、スエズ運河での座礁事故により一定期間に渡って運河の交通が遮断された事案などがある。
船舶海難は、ひとたび事案が発生すると、一度に多くの人命や財産が失われる危険性があることから、船舶運航の安全の確保は海運ビジネスにおける大きな課題である。
さて、ここからが本航海の本題となる。
安全運航が重要なのは当然の共通認識だとして、
「一体だれが、安全運航に係わる責任を負っているか?」
ということを明確にしておきたい。
海運業界と一口に言っても、複数の異なった業務形態をとる会社間での契約関係によって、だれがどのような状況における安全対策の責任を負うことになるのかが異なってくる。
海難事案の報道を見ていても、一部このあたりの認識に誤解を生むような表現がされていたり、そもそも明らかにされていないことがある。
■ 登場人物(会社)について確認しよう。
海運ビジネスは、船舶の建造という非常に大規模な投資から始まる。国際航路に従事する船舶であれば、1隻あたり数十億円から数百億円という規模だ。また、船舶は資産であるため、その資産価値を維持するために船舶を整備し、資格を保有し訓練を受けた優秀な船員を配乗しなければならない。もちろん、年々アップデートされる(厳しくなるという表現でもいい)法令への対応にも膨大な資金が必要だ。
船舶だけ用意しても、貨物を集荷できなければ宝の持ち腐れだ!
商社、エネルギー、機械、製造業、アパレル、食品などなど、様々な企業は自社のビジネスの為にサプライチェーンを構築し、商品を流通させている。これらの企業は「荷主」として、海運会社に対して輸送のオーダーをする。海運会社は、これら荷主企業との関係を構築した上で貨物を集荷・輸送し、運賃により収益を得ている。
以上の「船舶建造への大規模投資」「船舶の整備」「船員の配乗」「法令への対応」「貨物の集荷・輸送」を、ひとつの会社ですべて実施するのは非効率だ。歴史的には、それぞれの仕事を専門的に取り扱う会社に任せ、それらの会社間での契約によって海運ビジネスを成立させる方法が一般的になっている。
これを「海事クラスター」と呼んだりもする。
■ 用語を確認しておこう。
1)船舶建造の為に投資し、その資産を保有する会社を「船主またはオーナー(Owner)」という。
2)船舶の整備を、船主から請け負う会社を「船舶管理会社」という。
3)船員の訓練や配乗を、船主から請け負う会社を「マンニング会社」という。
4)船主から船舶を傭船*し、かつ貨物を集荷して輸送する会社を「海運会社またはオペレーター」という。
5)貨物の輸送を海運会社に依頼する会社を「荷主」という。
*「傭船」という用語が出てきたが、簡単に言えば「船を借りる」ことで、船主から船を傭船する行為を「チャーター」、傭船する会社を「傭船者またはチャータラー(Charterer)」という。
さて、ここで問題となるが、上記の1)~5)までの登場人物の中で、一体だれが、安全運航に係わる責任を負っているか?
あたりまえだが、「全員」というのが答えだ。
広義な意味で言えば、みんなが一丸となって安全に業務を遂行するというのがベストプラクティスだ。
しかし狭義の意味では、それぞれが契約の条件によって、どのリスクに対して安全を担保する義務を負うかを明確にしている。(あなたの契約は大丈夫でしょうか?)
海運ビジネスで安全対策の責任所在を契約によって定義する際には、船主と傭船者との間で交わされる「傭船契約」に、そのほとんどが明記されている場合が多い。また、傭船者から見て船主側の責任において安全対策を実施するように取り決められている場合、それを船主、船舶管理会社、マンニング会社のいずれかが、それぞれの会社間での契約条件によって、「だれが」「どの」責任を負っているかが定義されている。
2021年3月に発生したスエズ運河での座礁事故の事例では、「船主」は日本の会社、「海運会社(傭船者でもある)」は台湾の会社だった。スエズ運河は、海運ルートとしては主要な航路であるため、船主は同運河を安全に航行できるように、必要な設備と訓練された船員を傭船者に提供する義務を負っていると考えられる。このため、座礁を起こしたのは日本の船主側の責任となり、スエズ運河庁に対する賠償責任を負うこととなったのだ。
別のパターンとして、荷主企業が定常的に自社製品を船舶輸送する場合には、荷主企業が自ら貨物船を傭船し、運航実務を実施することもできる。この場合には、傭船者でもある荷主企業が、船舶が安全に運航できるように注意をしなければならない。
傭船契約を締結する前には「運航海域」を限定しているかどうかの確認も重要だ。実は、船舶の設計や仕様として世界中の海を航行できる能力があったとしても、船主のポリシーにより運航海域を制限して傭船契約に条件付けをすることがよくある。
ひとつ北極海航路を例に用いてみてみよう。
前航海の「北極海航路でのリスク」で取り上げた、航路の一部にインマルサット衛星通信が届かないエリアがあることについて、ひとつのリスク軽減策として「イリジウム衛星電話」を備え付けることが有効である。
船舶の搭載が義務付けられているインマルサット通信の衛星は4基に対して、イリジウム通信の衛星は66基もあり、全地球をカバーしているため、あらゆる状況における緊急連絡手段として活用されている。
通常の海域を航行する船舶には、イリジウム衛星電話の搭載義務は無い。しかし、北極海航路を航行する場合には、インマルサット衛星の通信エリア外で緊急事態が発生した時に、陸上に救助を要請する手段がなくなってしまう。このリスクを軽減する対策をしないまま北極海航路を航行するのは安全運航とは言えない。
では、だれがイリジウム衛星電話を支給するべきなのだろうか?
この問いを解く鍵も、傭船契約の中に隠されている場合が多い。国際海運業界で一般的に用いられている傭船契約書には定型フォーマットがある。この中に「運航海域」を特定する旨の条文が含まれており、ここで「北極海」が運航対象エリアに含まれているかどうかがポイントになる。
含まれている場合には、船主が北極海航路を安全に航行するための設備と訓練された船員を提供する必要がある。
含まれていない場合には、傭船者が必要な設備と訓練に係わる費用等を船主に支給する必要がある。(その前に、当該海域を航行すること自体を船主と合意する必要がある)
あなたが海運・物流の目的で北極海航路を利用することになった時には、あなたが「どの立場」なのかを、事前にしっかりと理解しておこう。
人命や船舶、貨物などの資産を守るため、リスク回避のための安全対策は、それぞれの立場で、全員がやるべきことがあるのだ。
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