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かつて宝飾業にいた私の職歴/前編

今回は、今までの仕事を思い出して、その時の思い出を書いてみようと思います。

子供の頃から宝石好き

物心ついた時から宝石が好きで、新聞広告と一緒に入ってくるカラーの宝石店広告をはさみでチョキチョキ切り取って、紙を輪っかにしてその宝石の紙を張り付けて指輪をたくさん作り、全部の指にはめて、〈貴族遊び〉を良くしていた記憶があります。3、4歳くらいだったかな。キラキラ光る”宝石”が好きでした。
母親の宝石箱もいい遊び道具で、指や耳に着けて遊びましたね。母はジュエリーをそんなに持っていなかったし、当時はネックレス、リング1つ、たまにイヤリングを着ける程度のシンプルな人でしたので、毎年アイテムが増えるわけではないのに、とにかくキラキラと光るアクセサリー・ジュエリーが綺麗でうらやましくて、飽きることなく良く遊んでいました。

小学生の後半から漠然と何かの”デザイナー”になりたいと思っていました。
高校を卒業してすぐイギリスに留学。半年で帰国後、縁故で宝飾製造の職人の元へ見習いが決まりました。
面接の時、
「東京から新人を入れてもすぐ辞めちゃう。田舎過ぎて何もないし。」
と社長が話していたけど、
「私は辞めません。」
と言い切りました。
なぜすぐ辞めちゃうかなんて、気にもしなかった。この時は・・・。

初めての職場

そこは有名観光地で、冬は特に時事ニュースで取り上げられる場所です。
確かに何もないけど、田舎育ちの私は生活しづらいとは感じませんでした。

ジュエリー制作について、いろはのいの字も分からない本当に使い物にならない私と、見て覚えろスタンスの社長&新人と関わりを持ちたがらない先輩職人達。
先輩職人は年が近い男性2名、23、4歳だったかな?赤いバンダナを巻いて、女子とあんまり話した事ないのが、年下の私にも分かるくらい目が泳いでいた先輩と、もう一人の男性はほとんど口をきいた記憶が無いです。声もすっごく小さくて、基本YES NO以外話してるのを聞いたことがなかった。この彼よりまだ反応(感情)が分かりやすいバンダナ先輩にはお世話になりましたね、洗濯機買いに行くの手伝ってもらったり。

仕事が休みの日に土地勘のあるバンダナ先輩に同行をお願いしたら、約束時間ぴったりに来て、
このポーズでお待たせ!と登場しました。待ってないし何と言っていいか微笑むしかなかった。
私の地元も田舎だけど、彼のような人は見ませんでしたね

あと、40代だという女性2人。女性陣は当時の私には年上すぎたのと、新人に別に興味もないし仕事終わったら即効帰ろ~。という印象の方達だったので話しかけ辛かったです。まぁ話しかけたところで会話が続かないんですが・・・。
今まで経験してきたバイトと違い、この職場の人達は個人プレーという感じでした。女性陣、男性陣と完全に分かれていて、職場の人同士で休憩時間話しているのを見たことがありませんでした。
年代・性別の違いがあっても会話しないって何なんだろう?たった4人の同僚ですよ?
そういう人達と関わった経験のない私は、ここの人間関係をどう理解・構築したらいいか見当もつきませんでした。
話しかけても、もうそれ以上話したくないという生返事。(バンダナ先輩はこの中でも飛びぬけて社交性はありましたが)

新人を育てるのは、彼ら彼女らに託された仕事ではないです。優先は目の前のジュエリー制作です。でも私なら、まずは新人とコミュニケーションを取ります。
今思えば、何人も新人が来たけどみんな辞めていったし、期待せず様子を見よう。まぁ興味ないけどね、みたいな感じだったのかな。
私は早々に先輩職人達とのコミュニケーションを諦めてしまいました。

社長には息子さんがいて、ジュエリーの公募大会で、優勝か何か表彰された事があるくらい実力がある人らしいのですが、本人は、
「賞なんか何にもならないよ、賞取ったって売れないし。」
と、すごく謙遜して話していました。何も分からない私は、どうしてこの人はこんなに謙遜するんだろう?賞だって取りたくて取れない人がいっぱいいて、その中で勝ち取った賞なのに・・・。と、とても不思議に思ったものでした。彼の言ってる意味が分かるのはもうちょっと後です。

社長は当時60歳前後だったかな?基本優しかったです。失敗しても怒られることはなかったし、今思えば社長の考えがあっての事でしょうが、直接、見て覚えろ。とも、見ないとわからないぞ、とも言われなかった。放置みたいな。こちらから教えを乞うべきだったんだろうな。
社長には、まず雇っていただいた事、そしてたまに夜ご飯をご馳走になったりと本当にお世話になっていたのですが、私としては信頼関係はなかなか縮まりませんでした。

1、2か月くらい経ったある日、苗字で呼んでいたのに、急に私だけ下の名前で呼び捨てしだしたので、名前ではなく私も他の人と同じように苗字で読んで下さい。とはっきり伝え、社長も了承しました。
自分の息子の名前に、私の名前と同じ音が入っているらしく、それで癖でつい。って言ってたけど、うんわかった。でも、初めから苗字でしか呼んでない私をどう混合するんだい?私は変な空気にならないように、謙虚にお願いしました。
そして相変わらず何も分からなくて、戦力にならない自分に日々イラつきが募っていきます。毎日掃除とお茶出し、何か頼まれても上手くできない、自主練習もしない、(職場には練習用の素材などありません。自分で用意するのが普通。そういう思考まで行きつかなかった)そして相変わらず名前を呼び捨てる社長。
「あ、間違えた!この前〇〇に怒られたんだっけ」
職人達に向けて舌ペロ。ペロ?私は怒ってもいません。
ご察しの通り、誰も何の反応もない(愛想笑いという概念もない空間)数秒間が、私には気の遠くなるような時間にも思えました。怒ってなかったけどその時怒りに変わりました。
もう私のフラストレーションが限界でした。

そんな事で?と思うかもしれませんが、当時19歳の社会経験のない私の忍耐力なんてこんなもんでした。
一体私はここで何をしているの?ここにいる意味って何?もっと基礎を学びたい!専門学校に行きたい!
という思いがこみ上げ、結局3か月くらいで辞めてしまいました。
そう、すぐ辞めちゃった人になってしまったのです。

不思議とこの選択は、それまでのモヤモヤした気持ちを新たな挑戦に向けてしっかりとリセットする事に繋がりなりました。

宝飾専門学校

実家に戻ってから、専門学校の資料を取り寄せ19歳で入学。
やっと面倒な学校から卒業したのにまた学校に入るのは億劫でしたが、自分が行きたくて行く学校です。高校と違って無意味な校則もない。
何より勤め先をすぐ辞め、学びたいと言った私のわがままを聞いて支援してくれた親に感謝でした。

2年で基礎から応用を学び、それなりに学生生活も楽しみました。
当時の授業内容はもちろん練に練られたカリキュラムでしたが、全てのカリキュラムが良かったわけではありませんでした。それでも幅広く学ぶ事が出来て良かったです。

学生作品の記事はこちら↓

専門学校という事で就職先の斡旋もありましたが、当時お給料は13万や15万。そこから税金引かれると、どうやって生活したらいいんでしょうか?
以前、社長の息子さんが話していた、賞を取っても稼げないっていう意味。
学校の評価が高かろうが何かの賞を取っていようが、初任給や毎月のお給料は安いです。

応募条件に、"専門学校卒"とか書いてあったけど、初めは使い物にならないと思ってるんなら本当に未経験者でも同じだと思います。
現実的に、全くの未経験者だと用語が通じないから、経験者や卒業生を優先して採用しているだけ。
年功序列で少しずつしかお給料は増えませんし、新人なんて雑用からスタートでしょう。手取り20万円になるには何年かかるんでしょうか?
ただ実家暮らしなら、こういった所で職人としてのスキルや経験を積むのは大アリです。都会は住むだけでコストがかかりますね、初めの少ないお給料で生活するのは正直厳しすぎます。でも就職先は都会に集中していてどうしようもない。斡旋を利用して就職した同級生は8人中3人位だったかな?みんな実家暮らし。
私は迷わず営業の道を選び、とある会社へ入社しました。

ブラック企業でのセールスマン時代

今この会社は無いです。名前は残して何かしらやっているでしょうが、当時のような営業はやってないはずです。
研修を1か月かけてやって、蓋を開けたら超ブラック企業でした。

業務内容の肝心な所は一切明かさず、いかに接客するか、ビジネスマナーを徹底して教え、いざ今日から配属ですという初日に、肝心な業務内容をネタばらし。もちろん辞めたがる新人は出てきますが、引き留める役ももちろんいるので軽く洗脳でしたね。
強制ではないので辞めればいいじゃん。って思いますよね、私も今でも思います。なんで辞めずに数年働いていたのか?

この会社のやり方は、興味のない人にも興味を持ってもらうようセールストークで誘導し、最終的に契約したいと思ってもらい(需要)契約していただく事。努力すれば売り上げとしてお給料に反映されます。違法にならないやり方で営業していたんですよね。

当時は上司や先輩がけっこうイケイケで(外見中身も)、営業ってしんどいけど商品は本物で良いモノだし、売り上げれば会社も自分も嬉しい、頑張って稼ぐぞ!という思いの方が強かったので続けられていました。
基本給が15万くらいだったかな?寮としてマンション3DKとかの部屋を社員とシェアして住んでいたので、家賃出費は都内一人暮らしより断然安かったです。会社が新宿で、近くにいくつも物件を借りていました。2人分足しても家賃安かったので不足分は会社が出していたと思う。
新宿で終電なくなるまで遊んでも、歩いて帰れる距離だったので気兼ねなく遊んでましたね。

ここで私はセールスマンの端くれとして、年間売り上げ3位、主任昇格、肩書が名刺につきました。
人生で初めて主任となりましたが基本給に変化はなく、同じ部署の肩書のないランク社員の売り上げの数%が入るという仕組み(フォローアップして契約できたら)でした。同期で入った中で元々年上は私だけでしたが、昇格すると同期からの接し方がわかりやすくぎこちなくなり、今までタメ口だった先輩からも同ランクという理由で敬語で話されるようになりました。
環境の変化やプレッシャーに一番やられてしまったのは自分で、明らかに売り上げも落ちていきました。メンタル弱ぁ。
主任になりたくて頑張ったんじゃないのに、責任増やして(部下の管理、仕事のフォローや顧客管理等)お給料変わらない。
給料変わらずは納得できなかったな。

ちなみ会社の商品はもちろんジュエリーです。あわよくばそっちの部署に移れないかな~と探ってみたのですが、ダメでした。
売り上げが徐々に無くなり、営業方法にもいい加減嫌気がして、
私のこの貴重な20代の時間を無駄に使って、一体何をしてるんだ?
とまた始まり退職。

その後はアクサリーショップの店員をしました。

渋谷パルコのショップ店員

この会社も今は無いです。
アクセサリーメーカーで全国展開していて、たまたま渋谷パルコの店舗に配属されました。

当時の直の上司(エリアマネージャー女性)がプライドが高い自信家で、現場のみんなから嫌われていました。
私はこの会社で売り上げた実績があるから、エリアマネージャーになった。できる女。と言ってしまうような人です。
配属されてしばらくすると、なぜ嫌われているのか分かってきました。
エリアマネージャーがどういう仕事内容なのか知りませんが、基本店に寄っても店に立つ事はなかったです。(スタッフや社内の管理をメインでしていたのかな?)いいから手伝え!忙しいの見て分かってるだろ!
月1とかでスタッフに配るエリア会報みたいのに自分のコラム?を書いていて、〈この商品のコンセプトは恋愛のどうのこうので、恋愛してないと生きていけないまさに私のようなもの。〉って書いてあって笑えませんでした。
こんな面白いネタ、今なら大草原です。

会社はいくつかアクセサリーブランドを持っていて、パルコ内に他のブランドもいくつか入っていました。その中のあるブランドの店長さんがエライ美人で、お客さんの1人がストーカーみたいになってしまっていました。
ある日の平日、40代くらいのおじさんが、美人店長の店から流れでうちの店に入って来て商品を見ていたので、当たり前のように声掛け。
「気になるのがありましたらどうぞお申しつけ下さい。」
するとおじさんも、笑顔で
「はい~、これいいですねぇ。」と会話に。
するとこそっと耳打ちで、その人〇〇さんのファンで良く来るんだけど買わないよ。と知り、そういう情報は前もって教えておいてよ~。と声掛けを後悔。どうりで誰も声掛けしない訳です。ずっと彼女の店にいたいけど、明らかに嫌がられるのは避けたいのでちょっと別の店に行くっていうコースだったんですね。しまいに彼は、
「××店の店長さん綺麗ですよね、えへえへ。」
と嬉しそうにストーカーっぷりを披露してきたので、高い商品をどんどん勧めて似合いますよ~とか、店長さんにプレゼントされたら喜ばれるんじゃないですか~?とかブラック企業で習得したセールストークでガンガン営業したら困って帰って行きました。
キツい。

ある日私は大失敗をしてしまいました。
値段を間違えて販売してしまい、(損失額1万)始末書を書く事態に。
損失額給料から引いてくれないかな、クビかな?と思っていると、ある日他店への出張を言い渡されました。一応期限付きだけど左遷ですね。お客様が日に1組も来ないような片隅の店員とかです。正直、私(ヘルプ)がいなくても十分店が回っていました。
そこで無駄に時間を過ごし、期限近くに移動願いをしたくて例のエリアマネージャーと会うと、開口早々に
「辞めてくれないかな」
と言われました。いびってんだから早よう辞めろと。
「あ、わかりましたー😁」
転職したかったしちょうどいい。という事であっさりと退職しました。
今思えば、大失敗から嫌われていたんでしょうね。
その後、お台場のショッピングモール内のアクセサリーショップ店員を経て、接客業に疲弊してきた私は、製造業へとシフトチェンジ。
宝飾製造業へ転職しました。

後編へつづく

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