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初音ミクの記憶——デジタルアーカイブはボーカロイド文化の何を残せるのか

(約12,000字→2022/9/1更新、約15,400字)

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はじめに

阪急電車の緑色の椅子(著者撮影)

 朝ラッシュを終えた阪急電車8300系の心地よいVVVFインバータ音が、いかにも阪急電車らしい緑色のモケットとともに、まだまだ眠い私の身体に主張してくる。8月から始まった図書館司書の資格を取得するための授業に出席するため、私は毎日京都から阪急電車に乗り込み、相互直通先である大阪メトロ堺筋線の終点まで向かっている。京都市から乗り込んでいると、大阪府に入った瞬間から明らかに混雑し始め、淡路駅で自分を含む多くの人が入れ替わり、そして大阪メトロ堺筋本町駅を境にどんどん人が少なくなっていく様子がわかって、どこが郊外でどこが都心であるかがよく見えてくる。今日はたまたま淡路で座れたが、たいていの場合、南森町や堺筋本町からは立ち客がいなくなり、私もそのあたりまでには確実に座ってい。阪急特有の緑色のロングシートに座りながら、私は今日の時間割を確認したり、教科書を読んだりする時間を送る。

国立国会図書館インターネット収集保存事業(WARP)のホームページ(https://warp.ndl.go.jp/)

 私は特に図書館が好きなわけでもなければ、幼いころから毎日両親に引き連れられて図書館に通うということもなく、大学に入ってレポートを執筆する機会でもなければ、おそらく生涯で利用することもなかっただろう。それでも私がわざわざ2時間かけて司書資格を取りに行くのは、自分が大学院に所属している時期にしてきた活動を鑑みたら、結果的に図書館が選択肢に浮上したからである。私は自分の専門である分析心理学という学問とは別で、デジタルアーカイブやデータベース作成に携わってきたのだが、図書館はまさに昔から書誌編纂という形でデータを組織化する作業を行ってきた。地方の公共図書館では郷土資料を収集し、貴重品やこわれものの場合はデジタルスキャンをしてデータとして公開している場合も少なくない[1]。また、そうした試みは郷土資料だけでなく、国立国会図書館の行うウェブコンテンツの保存事業(WARP)では、許諾を得たウェブサイトが定期的に保存されている[2]。ではニコニコ動画の場合はというと、国立情報学研究所が研究者限定でニコニコ動画データセットを提供しており、2007年から投稿されたニコニコ動画のコンテンツのほぼすべてのメタデータと(動画情報)とコメントログを含めた膨大なデータを得ることもできる[3]。こうしてみると、いかに私たちの周囲がデジタルアーカイブを通してデータ化され、管理されているかが明らかになってくるだろう。ニコニコ動画のメタデータベースを見ることで、私は自分自身が経験したことのない在りし日のニコニコ動画の空気感さえ、何となくだが体験できてしまうだろう。1994年生まれの私は幼いころのネット文化を知らなければ、ニコニコ動画の黎明期を体験していない。だからこそ、こうした情報資源のデジタルアーカイブ化は、私の知らない国内ネット文化の過去を私に提供してくれる。

 だが、徐々に形成されるデジタルアーカイブを見れば見るほど、そこにはいろいろな限界や違和感も見え始めてくる。あらゆるものを保存し管理することで消失を防ぐデジタルアーカイブの思想は、郷土資料からウェブコンテンツまでの全てにおいて、私たちが歴史を失ってしまうことに対する恐怖心から発生しているだろう。そうして、私たちはあらゆるコンテンツを保存し、データベースを構築することで、失うことへの恐怖を払いのける。それと同時に、他のあらゆる資料、あるいはコンテンツをも保存できるのではないかという欲望を持ってしまう。デジタルアーカイブはいわば、すべての文化財を保存し、忘れないようにしたいという私たちの欲求によって駆動しているだろう。史料や文化財、或いは図書の保存と管理は、私たちが本来忘却してはならない集合的記憶と、それを形成するための文化的アイデンティティの喪失を防ぐためのものであるとも言えるのかもしれない[4]。そうした役割を、今日の博物館や美術館、そして図書館が行うアーカイブ作業は担っている。

 しかしながら、自明のことではあるが、私たちは身の回りの全てを保存することはできないし、保存できないものが世界にはあるということも受け入れていく必要がある。私は今日乗った阪急電車のモケットの色が緑色だということは覚えているが、乗った電車が何号車かも、どんな人が乗っていたかさえも分からない。あらゆるものが保存され、いつでも閲覧ができるようなシステムが構築されるのならば、それは便利なことだろう。だが、すべてを保存したいという欲望は一方で、大きな歪みも生じさせているように思う。2022年前半に異様な流行を見せたMAD動画「おとわっか」が1か月もの間ネット文化をにぎやかしたのちにニコニコ公式によって削除された際、その削除に対してユーザーの誰しもが公式を責めるのでなく、むしろ「祭りの終わり」としてにぎやかに語られたのは記憶に新しい。あれはいわば「削除される前提で作成された」ようなものであるからこそ、私たちはみなその瞬間を待ち望んでいたはずだった。にも拘わらず、今でも複製され、転載された動画が各種投稿サイトで見ることができてしまう。あるいは、2022年7月末に開催された合成音声音楽の匿名投稿イベント「無色透明祭」では、合成音声音楽ソフトを利用した楽曲「  」が人気を集め1位を獲得するものの、既存曲の過度なオマージュ、あるいは「パクり」が問題となることで、運営に削除されることとなった点も大きな話題になった。これについてはのちに作者本人からコメントがあり、当該曲の公開とともに活動終了することや、話題となった楽曲も自主的に削除する旨の主張がなされた。経緯はどうあれ、本楽曲が結果的に自らの活動者としての生命と引き換えで作成されたと考えるのであれば、これは「おとわっか」と同様、削除によって完成するコンテンツだろう。だが、アーカイブの欲望はこれもしっかり保存し、誰かの手によって転載されているため、各種投稿サイト上で今でも見れる。

 誰かがmp4形式で保存し、そして再アップロードを行うことによって、動画は本来の意図とは関係なく残り続ける。かくして、私たちはオリジナルの意図に関係なくコンテンツを保存し、そしていつでもアクセスできるようにしている。無論、図書館をはじめとした公的機関では手続きを得たもののみが保存・公開されるが、公的機関という枠組みを外してしまえば、自由にコンテンツを保存し公開する手段を持った私たちの底知れないデジタルアーカイブの欲望がそこには見えるだろう。

 自らの時間と労力を引き換えに作成したにも関わらず、最終的には消去されることを望むようなコンテンツたちは、まるで当初から願っていた自殺を遂行するかのように、インターネットの深い海へと最終的には自らを投げやっている。これを自殺のアナロジーと取るのなら、ニコニコ動画を含む国内のネット文化では定期的に、大規模な自己消失、集団自殺が実行されている。表現の一環としてなされる自己消失は、その元をたどればネット掲示板における名前の消失=「名無し」の文化だろうか。自らの名前を消し、自己を消失して集団に貢献しようとする文化がそこにはあっただろう。このような集団的な喪失現象を、私はどのように考えればいいのだろうか。私が院生時代に研究してきた分析心理学者・精神医学者のユングを参照すれば、もしかしたら国内ネット文化にはネットユーザーに共通する「集合的無意識」があったと、言い得るのだろうか。ユングの臨床家としての経験から積み上げられた主張は、人間同士のコミュニケーションによって形成される集合体と、その内部で創発される得体のしれない何かについて、大きな示唆を提供してくれているように感じる。では、それはどのようなものなのだろうか。本稿では前述したデジタルアーカイブの欲望に対する分析心理学からの応答可能性を検討することで、全てをデータ化し管理制御下に付置しようとする欲望をもつデジタルアーカイブに対し、その限界と問題がどこにあるのかを考察してみたい。そこから、国内ネット文化の代表として15年に渡ってその旗手を担ってきた初音ミクをデジタルアーカイブとして、つまりは「記録」として保存することが、どういう意味を持つかを考えたい。

 今年で15歳を迎える初音ミクとボーカロイド文化は今、CeVIO AIなどのVOCALOIDエンジン以外のエンジンが台頭するに伴い、これまで使用されてきた「ボーカロイド」という言葉が徐々に使用されなくなってきている[5]。「合成音声音楽」という言葉によってとってかわられつつあるこの時期に、VOCALOIDの終焉さえ感じ取れるこの時期において、15歳を迎えた彼女のこれまでの記録をいかに残すののか。そうした問題について、本稿が彼女に何かしらのヒントを与えることができれば、幸いである。

個別具体性と規範・システム的なものの関係——分析心理学的視点からのデジタルアーカイブに対する応答可能性

1.アーカイブ化されないもの

 スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングがフロイトの精神分析から独立する形で提唱した分析心理学の思想は、主に20世紀後半にかけて精神医学や臨床心理学へ多大な影響を与えてきた[6]。それだけにとどまらず、彼の思想は独文学者の林道義その実践を試みてきたような文化・社会批評へ応用する可能性さえも積極的に展開されてきたが、その一方で精神科医として研究を行い続けた彼の関心は決して文化論の方面に向いていたわけではなく、その生涯の中で文化芸術や社会批評に関する実績は決して多くはなかった[7]。そうした背景もあってか、日本では1980年代ごろのオカルトブーム上でユングは輸入され、集合的無意識やシンクロニシティなどの特異かつキャッチーな言葉だけが抽出され、漫画やアニメの中では散見されている状況がある。そんななか、1957年に執筆された評論「現在と未来」は、第二次世界大戦後に陥った世界の分断と危機の中、近代的な国家がもたらす民衆の平衡化とそれによってもたらされるユートピア――それに表裏一体な形でもたらされるディストピアを批判するとともに、国家と近代科学がもたらす理論への抵抗としての非合理的なもの・曖昧なものを宗教心理学の観点から追求した、数少ないユングの社会評論である[8]。今から見て半世紀以上も昔に展開された彼の思想は一見、埃にまみれた過去の遺物に見えるかもしれないが、彼が検討対象とした社会分断状況や宗教的なものの台頭は図らずも、現在のウクライナ侵攻や新型コロナウイルス、あるいは統一教会といった形で出現しているだろう。こうした点を踏まえると、彼の思想をオカルト的なものとして放り投げてしまうのは、あまりにも勿体ないような気もする。現在とも多分に重なっている当時の社会状況を、ユングはどのように評したのだろうか。

 先述のように、本論は東西冷戦により対立を深める国家やまだ過去となり切れていないナチズムの痕跡をもとに、近代国家の理性的、合理的判断によって形成される集団の意思決定プロセスの全面化が個人の無意識的側面を次第に捨象してきたことを指摘する。以下の引用はまさに当時のナチズムを意識したような、国家の集合的沸騰に対する彼なりの危機感が見えている。

個人にはまだ可能性のある洞察や内省も、集団ではこなごなに砕かれる。そして、立件国家は、その弱点がひとたび暴走すると、狂信的、権威的な専制政治へと必然的に陥ることになる。
 理性的な議論にいくばくかの成功が期待できるのは、議論に付随する情動が一定の限度を超えない場合にかぎられる。感情がこのレベルを上まわると、理性が効果をもたらす可能性は消え、スローガンや非現実的な願望に満ちたファンタジーが、理性にとってかわる。そして、ある種の集合的な憑依現象が生じ、急速にこころの伝染病に発展するのだ。

ユング「現在と未来」(ストー編、山中訳『エッセンシャル・ユング』370頁より)

ユングはこうした集合的な共同幻想を見るような状態を批判すると同時に、各人が自らを律した状態で議論することによる集合的な憑依現象、こころの伝染病と称するような病的状態を我々が回避すべきだいう。この主張は一見、ユングが国家的なもの・理性的なものを肯定しているように見える。集合体は常に無意識を抑圧した状態でならねばならぬという思想はまるで啓蒙思想的のスローガンのようにも一見聞こえるが、だが実際、ユングは安直な国家や科学主義に対しては批判的になっている。その根幹にあるのは、数多くの臨床場面に臨んできた彼だからこそ、人間というものに対する非合理的な思想がある。「現在と未来」での以下の引用は、彼の根幹思想が分かりやすく反映されているだろう。

科学的教育は、おもに統計的真実の抽象的な知識に基づいており、したがって、合理的でしかも現実にそぐわない世界像を提供している。その世界像にとって、個人は単なる周辺的現象であり、なんの役割も果たさない。しかし個人というものは、非合理なデータの集まりであり、そういうものとして信頼するに足る現実の真の担い手なのである。つまり、科学的に表現された非現実的、理想的な「正常」な人間とは異なる〈具体性を帯びた〉人間である。

ユング「現在と未来」(ストー編、山中訳『エッセンシャル・ユング』374頁より)

理性的なもの、理論的なものに主体をからめとられ過ぎないこと。そうしたユングの姿勢は彼のデビュー作である博士論文「いわゆるオカルト現象における心理と病理」(1902)から一貫して保たれた姿勢だ。心の科学である「心理学」という理論体系にありながらも人間の非合理性を主張し、集合体として回収しきれないような個人的性質こそに価値を置く点こそ、分析心理学という学問の最も重要な点であるだろう。この点を鑑みると、言語やデータ、法則に基づいて規範が作成され、線が引かれるような集合体は、それがあくまで論理的かつ意識的に引かれたものである点において、ユングは肯定的に受け取らない。私たちが主体的に選択したのでなく外部から提供された規範に過度に拘束されてしまっている状況に意識を向けなければ、主体は「自分自身の人生をどのように生きるかについて、道徳的決断の機会をますます奪われる」ことになってしまうという。そして、「社会の一単位として支配され、食事や衣服を支給され、教育を受け、できあいの適当な住居をあてがわれ、集団に喜びと満足を与えるという基準に従って娯楽をえる」ような生活となる。こうした彼のディストピア観は、人間存在と非合理なものとしてとらえる一方、国家や社会が人間をデータとして翻訳してしまうことから生じる摩擦熱が原因だと彼は考えている。

ユングは外部から規定されるルールに過剰に束縛されることを嫌っている。そうした前提を踏まえ、彼がデジタルアーカイブについてどのような意見を持つかを想像するとどうだろう。前節で述べたように、あらゆる情報をデータすることは私たちの生活の水準を一段階引き上げることに大きな貢献をするだろう。その一方で、あらゆるものを「0」と「1」で翻訳するデジタルアーカイブの思想は、ユングの言う「〈具体性を帯びた〉人間」からは遠いだろう。フロイトの精神分析から分岐して発生した分析心理学思想は、精神分析と同じく「無意識」という私たちにとって理解不能な一面を抱え続けているからだ。

 20年前に語られた「情報化社会」という言葉さえ古臭さを帯びてきたこの時代で、ユングのみならず、誰一人今の時代は創造できなかっただろう。しかしながら、ユングの残した問題意識は少なからず、今この時代にでも通用するようなものがあるように思えて仕方がない。だからこそ、デジタルアーカイブとデータベースが持つ欲望から端を発する規範社会に対し、彼が行ったような哲学的な思考は考えられる必要がある。ユングは「現在と未来」で「われわれは皆、統計的真理の数々と大きな数量に魅了され、威圧され、個人の人格の無意味さ、無益さを日々思い知らされている」とも述べた。それから半世紀が経過し、私たちがデジタルアーカイブ、およびデータベースが導く統計の導き出そうとする大きな数量の出現に対し、どのように振舞うべきかが問われている。

2.意識的に形成されない集団への希求

 前節ではユングの国家・社会における規範意識、および科学的なものへの批判を彼が行ってきたことを取り上げたが、これに対し、ユングはそれに抗するものとして、宗教を持ち出そうとする。とはいえ、彼は宗教によって構成される集合体についても二つの次元に分けて分析している点には注意を向けねばならない。宗教はその非合理性ゆえに近代合理主義がもたらす権威への対抗策となり得るだろうが、一方で宗教はそれ自体が権威的なものとなってしまう危険性を孕んでいるとユングはいう。

宗教はしかし、「この世」の権威に対抗するもう一つの権威を教える。神に対する個人の信頼という教義は、この世の要求と同じくらい強い要求を個人に求める。個人が集合的心性に屈し自分自身から疎外されるのと同じように、宗教のこの要求の絶対性が個人をこの世の世界から孤立させることもありうる。個人には、前者の場合と同様、後者の場合にも(宗教的教義のために)自分自身の判断や決断力を失う危険性を持っている。

ユング「現在と未来」(ストー編、山中訳『エッセンシャル・ユング』378頁より)

近代国家や科学的なものはその規範性による集合体の拘束力が問題視とされるのに対し、ここでは宗教の教義に対して妄信的になってしまうことを彼は批判しようとする。このように、ユングは決して安直に宗教を肯定したいわけでなく、あらかじめ規定された規範を主体が無批判で享受することに対して批判的なのである。その背景には先述のように、個別具体の人間が内包する集団に還元しえないような、そんな個性的な側面をユングが重視するからだ。今では「自己実現」という言葉でも変換されそうなこうした人間の成長過程は、1928年に発表された『自我と無意識の関係』で「個性化」という言葉によって中心的に語られている[9]。このように、ユングはあくまでも規範的なものそれ自体に対して疑いをかけることを批判するのではなく、主体が自ら経験して身に着けるような個別性=個性化を最重要視するのである。

個人の自由を自律性の基盤をもたらすのは、(高尚なものだとしても)倫理的規範ではなく、(オーソドックスなものだとしても)信仰箇条ではない。それはただひとえに経験的な気づきであり、「この世」とその「道理」に拮抗するこの世を超えた権威と人間との、非常に個人的、相互的な関係という議論の余地のない経験なのである。

ユング「現在と未来」(ストー編、山中訳『エッセンシャル・ユング』379頁より)

ユングが最重要視するのはあくまで経験であり、そして気づきであり、あくまでも人間個人同士が組み合わさって形成されるような無秩序な相互の関係性のようなものだ。これらはいわば脱規範的、あるいは脱信仰箇条的な、相互関係によって自発的に出来上がるような集合体を肯定するような姿勢でもある。彼は自己を外在的に決定するような近代社会システムを批判し、個別具体化されない個人が経験を積んだうえで自らを決定していくことを肯定するが、そうした姿勢は1970年代以降にフランスを起点にブームとなった、脱近代的社会を志向する「ポストモダン」の流行とも関係するだろう。社会を構造的に語る議論である構造主義に対し、それで十分に語り切ることのできないような世界の複雑さを提唱した脱構築は、世界が安直な構造に還元できない複雑さを抱えていることを提示した[10]。これらの流行こそユングの死後だが、ここまでの議論を踏まえれば、彼がこれらの議論に対して批判的になるとは到底思えないだろう(「脱構築」という言葉を世界的に知らしめた哲学者ジャック・デリダがユングについて触れている点も、このことについて示唆的である)。

 こうした規範の解体、そして個別性の重視という議論が、あらゆるものを数値に還元しデータとして均一化・保存しようとするデジタルアーカイブの欲望とは相反することは、ここまでの議論を踏まえればおおよそ予想がつく話である。ユングの思想はあくまでも規範に縛られないような、個別具体性の獲得=個性化を目標としており、換言すれば自身が何者であるかを自らの手で理解する試みだ。データベースはそうしたユングの希望とは相反し、自分自身が何者であるかを外部によって決定されるようなシステムを構築している。2010年代にネット活動家イーライ・パリサーによって提唱された「フィルターバブル」という概念は、私たちがデータベースを利用することによってデータベース側が「あなたへのおすすめ」を提示するシステムが構築されたことに対し、私たちが主体的に新たな情報に出会うことができなくなるだけでなく、データベース側がデータを通して「あなた」を決定してくることを問題視している[11]。「あなた」をシステムが決定する社会を、ユングが肯定的に語るとは考えられないだろう。どんな些細な資源でもデジタルに還元しデータベースに加えていくデジタルアーカイブの欲望は、こうしたデータベースによって主体を剥奪された均一社会というディストピアさえ生み出しかねない。およそ50年前に書かれたユングの文章であっても、私たちが学びとることのできることはこのように、少なからずあるのではないだろうか。

意味の放棄と意味不明なものについて

1.集合体への参画と自己消失

 ここまでユングの議論を参照しながら、デジタルアーカイブの持つ「すべてを保存しようとする欲望」を批判的に検討した。均一化を批判し個別具体化=個性化を肯定する彼のこうした主張は、いわば「私が何者であるか」を主体的に獲得する自己実現の過程が重視される。だが、こうした議論の整理は筆者がたびたび主張してきた「国内ネット文化」という存在を否定的にも語りかねない。匿名掲示板の彼らは自らの名前を失う=自分を消失されることを通して連帯してきたはずだ。そうした点は少なからず、2007年にまだ生まれたばかりの初音ミクのDNAとして確実に継承されており、ある時はネギとして、そしてある時はカレーうどんとして出現する。ユングは初音ミクと集合的な国内ネット文化に対し、個別具体な個性化を果たしていない点においてそれを批判的に見るのだろうか。

 しかしながら、そうとも言い切れない面があると考えられる。これについて、今一度国内ネット文化の特徴を再確認しながら、匿名ネット掲示板におけり「名前を失う」こととは一体どういう意味を有するのかを検討したい(参照は上記noteや、8月に発表された『青春ヘラ ver.4』を参照されたい)。国内ネット文化におけるもっとも最初のターニングポイントとなったネット掲示板「2ちゃんねる」は、トップページとそれに付随する各種掲示板によって構成され、各掲示板では書き込みが断続的に続くことで、トップページのより目に着きやすい箇所に直接リンクが表示される設計になっている。一方では多くのユーザーが注目している話題が何度もトップページに表示され、他方では注目が集まらない情報が淘汰されていくという構造だが、これは今日だと、人気ツイートが常に目につきやすいという点において、リツイートによって何度も同じ情報が表示されるTwitterのタイムラインのようなものにも発想は近いだろう。だが、もっぱらテキスト主体で構成される2ちゃんねるはTwitterと比較し、パーソナルな面を表明する手段には乏しい。各々のユーザーがアカウントを作成し、各ハンドルネームから発信を行うTwitterは、原則的に全員が「名無し」となる2ちゃんねると比べ、特定ユーザーの過去の発言などを検索し、閲覧することも可能だ。加えて、画像や動画などのより視覚的訴求力がある手段が用意されているTwitterは、撮影したコンテンツを用いることで、ユーザー自身のよりパーソナルな実生活を情報空間上に表出させる手段にも富んでいる[12]。こうした制限には技術的背景だけでなく、ブログ文化における固有名を持った「常連」の排除が目的としてあり[13]、5ちゃんねるとなった今でも一貫して保持され続ける重要な要素だ。自らの固有名を意図的に隠すと同時に、パーソナルな一面を表出させないような設計は、「インフルエンサー」という概念とともにある今日のSNSとは対照的に見えるだろう。

 しかしながら、そうした匿名性をユーザーたちはむしろ肯定的に受け入れ、環境的制約を逆に利用することによって独自文化を形成してきた。これを支えるのが、情報社会学者の濱野智史が「コピペ」と称した、それ自体に明確な意味がないことに意味がある記号たちだ[14]。「モナー」をはじめとしたアスキーアートや「イッテヨシ」などの独特な言語、そして「吉野家コピペ」などのテンプレート文章などに代表される2ちゃんねるのコピペは、全ユーザーが「名無し」となることで失われていくような個人のステータスを補完するよう作用し、「名無し」を「2ちゃんねらー」へと変身させていくにあたって必要な目印のようなものだ。フローによって「常連」になれず、匿名性によって固有名も奪われてしまったユーザーたちは、その剥奪で生じた余白に偶発的かつ無意味に生じたコピペを埋め、掲示板内で共有することで、集合人格としての「2ちゃんねらー」を形成していった。その際、コピペは匿名性によって固有名を失ったユーザーたちが失われた個人のステータスを埋め、「2ちゃんねらー」になるためだけに生成・受容される。換言すれば、コピペはその生成・受容のいずれにおいて意味はなく、ユーザー同士が繋がるためだけに使用される無意味な記号でしかない。ユーザーたちはこれらを共有財産として扱い、失われた余白にコピペを代入することで、固有名を持たない各自が「2ちゃんねらー」という集合的な名前を持った存在へと変身することができるのだ[15]。

 こうした文脈を踏まえ、再度「現在と未来」に戻ろう。ユングは規範や教義によって主体が拘束されていくことを批判し、個別具体の経験によって主体が自己判断していくことを肯定した。対して、2ちゃんねるのユーザーたちは少なくともそれに参加することを強制されたわけでもなければ、むしろ主体的に「名無し」となることを肯定し、それによって特有な集合的創造性を生み出した。そんな彼らは、ユングの語ったようなディストピア的な集合体とは一線を画した、国家や教義によって形成される集合体ではないような集団内部から形成される集合体のあり方だろう。彼らを「主体的に名前を捨てた」と肯定的に判断するのならば、それは外部から否定的に名前を捨てられるわけではな。彼らが名前を捨てることでユーザーが巨大な「2ちゃんねらー」という集合的人格になるのならば、それはむしろ、一つの自己実現=個性化のかたちとも考え得るのではないだろうか。

 彼らは決して規範的に集合しているわけでもなく、自ら集結し、そして自ら合一化している。誰に指図されることのないまま形成された、名無しの集合体。個別具体にならないという、個別具体の選択が集合したもの。「名前を捨てる」ことによって「何者にもならない」という選択を自発的にとること。これこそ国内ネット文化における、自己消失による自己実現に関係しているだろう。そうした無意味な記号を通したユーザーの合一化は、あるときは初音ミクが片手に振り回すネギになって、そしてあるときは可不の袖にかかるカレーうどんとして、今日のニコニコ動画でも脈々と継承されてきてもいる。そこには、無意味な記号を通して繋がる名無しの集合体が背景に蠢いているのだ。

 名前を自ら削除し、滅私奉公するように集合体に参画していくこと。そうした文化的土壌がゆえ、国内ネット文化の文化的想像力は結果的に、デジタルアーカイブによってどんどん構築されていくデータベースからどんどんと逃げていくことになる。自ら参画した集合的なものの中でのみ享受される意味不明な「コピペ」は自主的に集まった「名無し」にとって、自身の身分を明らかにするための「ただの」目印だ。したがって、それ以上の意味は必要とされていない。ネギはネギであることに必然的理由はない。カレーうどんは別にほかの食事であっても良かったはずだ。それらは何らかに意味を外部から付与されることを拒む。だからこそ、外部から余計な意味を付与される前に、過剰な意味によって価値が崩落する前に、「おとわっか」などは自ら削除されることを美徳にするのかもしれない。外部から意味を付与されることを避け、その意味不明さを維持するために。

2.VOCALOIDの終焉と合成音声音楽の出現に向けて

 2021年に執筆した拙論「合成音声音楽の時代に向けて」にて、私はVOCALOIDエンジンが徐々に他のエンジンによってとってかわられていること、それに呼応して旧来の「ボーカロイド」という言葉で括られていたものが「合成音声音楽」という言葉に取って代わられたことより、ただのエンジンの挿げ替えでは済まされない変化が今後の「合成音声音楽」の時代では登場していることを指摘した[16]。そこでは「可不」をもとに、その登場がこれまでのボーカロイド文化では確実に受け入れられなかった要素を含んでもなお、受容されたことをもとにして新しい時代の到来を予測した。それから半年、可不の袖にはしっかりカレーうどんの色が染みつき、これまで通り「ボーカロイド」文化の一員として迎え入れられたかのように一見は見えてしまう。だが、15年もの年月の間に隔てられた初音ミクと可不を全く同一のものと見なしてしまうのも、流石に無理があるようにも思えるのだ。いずれにしても、「合成音声音楽」という言葉の登場は相対的に「ボーカロイド」の持っていた文化的地位を弱めることになるだろうことは予測できる。そのとき、私たちは果たして「ボーカロイド」の一体何を保存できるのだろうか。今年で15歳を迎える初音ミクは2007年から長く第一線に居続け、その歴史も長くなった。だが、彼女を駆動するVOCALOIDエンジンの方は、どうやらもう長くもないのかもしれない。

 VOCALOIDエンジンで駆動しなくなった彼女の声を前に、私たちはかつてのVOCALOIDに思いを寄せることもあるだろう。だがそのとき、一体何を見ているのかについて私たちは意識を向ける必要があるのかもしれない。オリジナルが削除され、別途とられたアーカイブ映像を見る際、それは本当にみられるべきなのか、その映像が「今見れてしまう」ことがどのような意味を持つのかについて、その倫理を検討しなければならない。消えたものを受け入れ、初音ミクが忘却したものを彼女と一緒に忘却すること、諦めること。むやみなデジタルアーカイブから逃げ、不明瞭で輪郭のない集合体の世界へ。ユングの議論を超えて私たちが初音ミクと到達すべき世界は、おそらくそうした世界ではないだろうか。

おわりに

 以前、自分が作ったサイトがwayback machineに(勝手に)アーカイブされたのを見て、なんだか複雑な気分になった[17]。その一方で、「おとわっか」が削除されて数日間、別のユーザーが勝手にアーカイブして転載した動画を見続けた日々もあった。ストレージと通信速度が格段に上昇し、また写真や動画を容易に作成・編集できるようになり、そして容易に文章を残すことも可能になって以降、私たちの周囲ではいとも簡単に、あらゆるものをデジタルアーカイブ化しデータベースを構築してきた。そうして形成された巨大なシステムが、今日もどこかで生活を駆動している。私が乗った阪急電車の壮大なVVVFインバータや緑色のモケットだって、私が今こうして文章に残していなかったら忘れていただろう。私たちはあらゆるものを記録し、そしてあらゆるものを記録されてきたが、そうしたアーカイブは私たちをデジタルに還元可能な情報へと還元し、それ以外のすべてを失わせてしまう。それは例えば、私が電車に乗っていたときに考えてた「眠い」という感覚だったり、意味不明な記号を通して連帯し、楽しんでいた在りし日のネットユーザーの感情だったりする。そうしたデータ化不可能なものを無視し、デジタルアーカイブはデータを作成していく。

 そんな時代を前に、ネギやカレーうどんなどの「意味のないもの」と、それを通して形成される「意味のない集団」は大きな可能性のように思える。なぜなら、デジタルアーカイブは意味のあるものしか保存しないからだ。データベースの台頭を通して、私たちの周りには意味で溢れかえると同時に、意味のないことに対して耐えられなくなっているような気がする。それはニコニコ動画において、数多くのユーザーがランキングと再生回数を意識せざるを得ない様相とも関係しているだろう。だが、私たちは2ちゃんねるの時代から「意味のないもの」を通して連帯することで、逆説的にそれに意味を与えてきたのも事実だ。私たちが再生回数という意味に縛られ続けるのなら、それとは違う形で新たな意味を作り出すことだって可能かもしれない。そんな意味のない希望を書き連ねたところで、15歳の初音ミクを祝いながら本稿をいったん締めることにする。


[1] 例えば大阪市立中央図書館では、大阪に関する郷土資料を収集し、それをデジタルデータとして公開することによってデータベースを構築し、公開している。http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/ (最終閲覧日:2022年8月31日)
[2] 「国立国会図書館インターネット資料収集保存事業」https://warp.ndl.go.jp/ (最終閲覧日:2022年8月31日)
[3] 「情報学研究データリポジトリ ニコニコデータセット」https://www.nii.ac.jp/dsc/idr/nico/ (最終閲覧日:2022年8月31日)
[4] モーリス・アルヴァックス『集合的記憶』、小関藤一郎訳、行路者、1989年。
[5] そうした変化については、Stripelessが毎年発行している雑誌『ボーカロイド音楽の世界』(しま編、Stripeless)を参照すると、年ごとの評価が分かりやすく見えてくる。
[6] ユングの基礎文献としては、河合隼雄『ユング心理学入門』(培風館、1967年)や林道義『ユング』(清水書院、1980年)などを参照すると分かりやすい。
[7] 秋山さと子「ユングと現代美術」、『現代思想 臨時増刊号(総特集=ユング)』、青土社、1949年、88-96頁。
[8] カール・グスタフ・ユング『現在と未来』松代洋一訳、平凡社、1996年。なお本稿ではアンソニー・ストー編『エセンシャル・ユング——ユングが語るユング心理学』(菅野信夫他訳)、創元社、2020年においてストーがユングから引用し、菅野によって翻訳された文章を引用したが、いずれも出典は1957年にユングによって書かれたものである。
[9] カール・グスタフ・ユング『自我と無意識の関係』野田倬訳、人文書院、2017年。
[10] ポストモダンはジャン・フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』(小林康夫訳、星雲社、1986年)から始まったとされる。なお、これらを起点とするポストモダン、あるいはポスト構造主義と称されるものについては千葉雅也『現代思想入門』(講談社、2022年)などを参照されたい。
[11] イーライ・パリサー『フィルターバブル——インターネットが隠していること』井口耕二訳、早川書房、2016年。
[12] 2ちゃんねるは原則、直接掲示板に画像を貼り付けることはできないようになっており、各種画像共有サービス(imgurなど)を経由することによってアップロードしたURLリンクを掲示板に貼り付ける形で画像を共有してた。最初期のTwitterもこれに近く、最初期はTwipicなど外部サービスを経由して画像や動画を共有していたが、Twitter公式で画像や動画の共有を始めたことにより、これらのサービスは2010年代ごろには使用されなくなっている。なお、文字ベースであるTwitterに対し、ユーザーが撮影した画像がベースとなるInstagramの登場が2010年である。
[13] 「『2ちゃんねる』と『ニコニコ動画』のひろゆき氏が語る——ゲーム・コミュニティ・文化」『4Gamer.net』2008年。http://www.4gamer.net/games/015/G001538/20080301003 (最終閲覧日:2022年6月27日)
[14] 濱野智史『アーキテクチャの生態系——情報環境はいかに設計されてきたか』NTT出版、2008年。
[15] 情報社会学者の濱野智史は『アーキテクチャの生態系』にて、これを「信頼材(社会関係資本)」と称した(濱野、前掲書)。
[16] ukiyojingu「合成音声音楽の時代に向けて——私を探す『可不』の自己探索」、しま編『合成音声音楽の時代2021』、Stripeless、2022年
[17] http://web.archive.org/web/20200401000000*/https://www.ukiyojingu.com/ 

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