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バナナとザクロ

ザクロは食べにくくて可食部が少ない。

バナナは食べやすくて可食部が多い。

2つの果物を使って、食べるまでの”動き”に注目してみたい。

仮に果物が、”人間に食べられるためにデザインされたプロダクト”だとするなら、この二つは対局の位置にあるように感じられる。

実際、僕たちが知るバナナもザクロも、長い時間をかけて品種改良されてきたものだから、デザインされたプロダクトと捉えることもできる。

ちぎる、むく。

これがバナナを食べるまでのプロセス。

凄くシンプルで、動作そのものに中毒性があるように感じられる。

直観的な操作性に優れ、非常に親切なデザインだ。

切る、分解する。

これがザクロを食べるまでのプロセス。

ザクロの粒が壊れないように、皮から一つ一つ剥がすのは、時間のかかる作業だ。

せっかく時間をかけて皮から出しても、食べられる部分はほんの僅か。

とても直観的で親切なデザインとは言えない。

しかし、ザクロは今日も果物屋さんに並んでいる。

なぜだろう。

きっと、ザクロにはバナナにはない魅力がある。

次に、ザクロとバナナに対する感情的な印象を比較してみよう。

個人的には、バナナには子供っぽい、ザクロには大人っぽいという印象を感じる。

勿論この印象には、例えば広告や絵画の様なそれぞれが使われてきた文脈も関係しているので、”バナナ”と”ザクロ”を文脈から切り離して評価するいことはできない。

その文脈を取っ払ったとしても、食べるプロセスでわかるように、バナナはシンプルさを象徴していて、ザクロは複雑さを象徴しているように感じる。

そこから、バナナとザクロに対して、人間的な性格を解釈することもできる。

バナナは明るくて人気者、ザクロはミステリアスで掴みどころがない。

イヌはバナナ、ネコはザクロ。

晴れの日はバナナ、雨の日はザクロ。

朝はバナナ、夜はザクロ。

いや、ザクロの朝もあれば、バナナの夜もある。

なるほど、バナナとザクロははっきり分かれるものでもないらしい。

一見バナナの様に見えるものでも、ザクロの要素があるかもしれない。

バナナとザクロというのは感じ方を記号化したものであるから、状況によって変化するし、どちらにも捉えられるだろう。

バナナがザクロになったりするし、ザクロがバナナになることもある。

1人の人間にも、バナナとザクロの両方があるだろう。

意図的に、バナナとザクロの二面性を伴ってデザインされたものもある。

僕にとっては、屋台の並ぶ夜のお祭りがそれかもしれない。

夕方から夜の間、神社や海沿いで開かれる、あの夜祭りの感覚を思い出してほしい。

子供心を刺激する甘い匂いや賑やかな声はバナナだけど、暗闇に提灯が浮かんでいる景色や金魚の入った袋を眺めながら帰る様子はザクロだ。

華やかで人を引き付けるけど、同時に儚さや揺らぎを感じさせる。

バナナとザクロが混ざりあって、夜祭りの複雑な魅力はできている。

夜祭りの様に、バナナとザクロの両方の魅力が混ざり合った作品を作りたい。

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