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私が店員さんを呼び止められない理由と人権について

飲食店に行った時、遠くの店員さんに「すいませ〜ん!」と声をかけられる人を私は心底尊敬する。大きく張りのある、通る声。すぐに店員さんも気付き、声をかけてくれた友人だけでなく私のグラスもお冷で満たされる。「ありがとう…」と心の底から思う。

私は店員さんを呼び止めることをあまり自らしたいと思わない。なぜなら私の声は人よりも通らないからだ。これは過去の経験で痛いほど実感している。何度呼んでも店員さんは私の方を向かないので、最終的に同席している人が呼び止めてくれることも多い。ふと、お風呂に入りながらこの経験と、最近ずっと考えている「人権」についてが繋がった気がした。

「人権」とは…
単に人間であるということに基づく普遍的権利であり、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」とされる(wikipediaより)。
つまり「人権」はすべての人がいつでもどこでも、同じように持っている、平等に扱われ、自由に生きることのできる権利である。
普段あまり意識しないけれど、ものすごく大切で、この概念があるからこそ今こうして生きられているようなものだ。固い話になってしまったが、この「人権」を大切にするということは、つまり「その人の存在を認めること」に直結しているということだと思う。

ここで冒頭の店員さんを呼び止める問題に戻ってみる。単純に声を出したのに届いていないことで恥ずかしい…という感情もあるが、根本的には「無視されることで存在がないようになる」ことへの不安や恐怖がある気がしてならない(店員さんは単純に聞こえていないだけなのだが…)。かなり壮大な話にしてしまうと、つまり「すいませ〜ん!」が届かなかった時に、私は「人権を侵害されている」と本能的に思ってしまっているのだ。

またここで個人的な経験を1つ思い出す。
私は中高の時に、いわゆる「カースト制」の上位の人たちに苦手意識があった。彼らは悪気はないと思うのだが、かなり大雑把に言うと無視したり仲間外れにしたりというのを自然にやってしまっていると、偏見が混じり過ぎているが…なんとなくそう感じていた。例えば、団体行動があったときに、パパっとその団体全体の動きを決めるのは大体カーストが上の子たちだ。その時、熟考して言葉にするのが遅い子や物理的に動きの遅い子がいると、どうしても置いてけぼりになる。私はこの置いてけぼりの方の立場を何度か経験した記憶がある。この経験の積み重ねが、1つの事象は小さいけれど、ボディブローのように私の「人権」を少しずつ削っていっていたのだ。今でもたまに、前方から歩いてくるイケイケな集団が、私とすれ違う時に避けてくれなかったりすると、この学生時代の記憶がフラッシュバックする。

こんなことを書いているが、私は幸いにもいじめなどもなく幸せな学生生活を送ることができた。しかし、この「人権」を削っていくささやかな出来事が、もっと故意に、特定の個人に行われるとなると話は違う。それこそがいじめなのだ。私はいじめにはざっくりと3パターンあると思っていて、
①無視する ②仲間外れにする ③危害を加える というものだ。
このどれもが、その人の存在をないものにし、もしくは蔑ろにして、「人権」を奪っていく。

人は社会的な生き物だから、「自分の存在を認めてもらいたい」という気持ちをインストールされた状態で生まれてくる。だから、基本的に人に自分の存在を認めてもらうことで「=生きている実感」に繋がっていくのだろう。これが人ではなく自分自身で認められることが出来ると「達観」のようなスタンスとなるのだと想像する。自分で自分を認められれば、自ずと周りの人も認められるはずだ。

この話の延長で「人はなぜ仕事をするのか?」という疑問も落ち着く場所を見つけられそうだ。自分の存在を認められることの手段の1つとして、社会で仕事をする。「世界の一部になっている」「自分の存在意義がある」という実感こそが、自分の手の中に「人権」を握りしめている実感ということだ。

飲食店の小さなことから、こんな壮大なことになってしまい、この話の終着点をどこに持っていこうか悩みあぐねているところで、果たして、自分は無意識に人の「人権」を奪っていはいないだろうか…と考え、震え上がった。
「すいませ〜ん!」という、か細い声に気付ける人になるために。まずは自分で自分を認めるところから始めるとしようか…。


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