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昭和43年の絵日記を開いてみた

1970年代、ゆういちの少年期シリーズ

約50年前の私自身の絵日記が残っていた。

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フォーク・クルセダーズの”帰ってきたヨッパライ”が大ヒットし、子どもから大人まで口ずさみ、二年後には大阪万博開催をひかえ、豊かになる日本の姿に多くの国民が満足する時代だった。「人類の進歩と調和」と聞けば、今もなお幸福な気持ちが込み上げてくる。
日付を見ると小学一年生の夏休みに入る頃から書き始め、最後のページの日付が11月30日(土)になっている。一ページ目は夏休みに入る前であることから、学校で先生の指導を受けながら書いたのだろう。

その絵日記の一ページ目は

昭和43年7月18日(木) ☀

「ぼくわあさうていであそびました」

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一生懸命頑張って書いて本文15文字しか書けなかったのか。
近鉄の線路沿いにある小学校で、この遊具の向こうは憧れの特急ビスタカーが走り抜ける線路であったことが思い出される。最寄り駅は特急の通過駅であるため、これに乗って何処か遠くに旅行に行くことも一生ないだろうと理解していたが、一度は家族で乗ってみたかった。
この遊具は登り棒だが、雲梯<うんてい>と勘違いしていたようだ。小学一年生だった当時は、登り棒の天辺まで登れなかったが、学年が上がる度に到達点が上がっていったのかもしれない。天辺に登った挙句、見下ろした時の高さにはとても驚いたことであろう。
また、滑り落ちる時の火傷をするぐらいの摩擦熱も体験したのかもしれない。
これらの遊具は、黒い大きな野良犬が学校に乱入してきた時の避難場所という役割でもあったのだ。
絵のタッチを見る限りは、親から手伝ってもらうことなく自ら描いたと思われる。校庭の樹木に溶け込むように塗られた深緑色の登り棒を。

次に何ページかめくり、たくさんの飯蛸が並んだ絵に目を止めた。

昭和43年8月15日(木) ☀

「おかあさんぼくたこのかをみてみたいなといったらちいさなたこをかってきてまないたにならべてみせてくれました。」

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八月も中盤、河内音頭盆踊りや楽しい夜店に酔いしれ、足早に夏休みが過ぎ去ろうとしている様子に気づき、カレンダーを眺める様子がみえてくる。
本文52文字書けるようになっているが句読点が無い。深く息を吸って一気読みしなければならない。それに、あいかわらず「お」と「を」の使い分けができていないが、それも時間が解決してくれたようだ。
絵に着目すると、まな板の直線が綺麗であり、蛸の足がカール状で吸盤のブツブツも再現している。
明らかに親から手伝ってもらったと推測できる。
親から手伝ってもらうかどうかについては、議論はあるようだが、子どもは手伝ってくれている親の様子や手法を細かく観察しているのだ。子どもの自主性に影響を及ぼすと言われるが、お手本という意味では学ぶところが多いのではないだろうか。
親からは多くのことを学んだと思っている。

ひょっとしたら、母親は絵日記のネタが閃き、魚屋から飯蛸を買いつけ、作文の手ほどきまでしてくれたのかもしれない。

母ちゃん、そこまでやってくれたのか、この絵日記からそこまで読み取ってしまったよ。

おわり。

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